113. 尚人

 いかにも我慢しているといった風にブラックコーヒーを口にする未生の姿を見て、尚人は自然と頰が緩むのを我慢できなかった。

 口元の歪みだけで無理をしていることはわかる。出会って間もない頃、尚人を強引に呼び出した未生はコーヒーの苦味が苦手だといって喫茶店で甘い抹茶ラテを頼んでいた。別に虚勢を張るような必要などないのに、どうしてわざわざ飲めないものを無理するのだろう。

 一気に飲み干すことは難しかったのか、未生はカップをトレーに戻す。中身はまだ半分近く残っていた。尚人は黙って手を伸ばすと、まずはトレーの上のミルクのポーションを手に取る。封を開けて未生のカップに中身を全て開けてしまい、次にスティックシュガーを手にするとコーヒーの残量を勘案して半分ほどを投入し、マドラーで掻き混ぜる。

「何するんだよ」

 口に合わないものを飲めるようにしてやったというのに、未生はなぜかますます渋い顔をして尚人に食ってかかった。

「だって、コーヒー苦手だっただろ。これでだいぶ飲みやすくなったはずだから」

 そう言ってカップを未生の方に押しやると、感謝するどころかこれ見よがしに声をあげてため息をつく。

「……だから、何でそういうさ……」

 呆れたような、脱力したような、ほんの少し泣きたい気持ちさえこもっているような声。未生はうつむいて、それからぽつりとつぶやいた。

「やっぱり俺、情けないな」

「え、情けないって、どうして?」

 たかがコーヒーくらいで何を落ち込んでいるのだろう。ミルクと砂糖を入れられたのがそんなに嫌だったのか。理解はできないが、とにかく自分が未生を傷つけてしまったことは確からしく、尚人はあわてた。

 どうしていつもこうなのだろう。

 声をかけられたときは驚いたし動揺した。でも未生がまだ尚人のことを完全に忘れたわけでないということに胸の奥をくすぐられたのもまた事実だ。それに何より、会わなかったあいだに未生が自らを見つめ直し過去を克服しするため新しい道を歩きはじめたということや、それをわざわざ尚人に報告してくれたことは心底嬉しかったのだ。

 尚人はただ未生の将来を祝福したいだけなのに、話をしているうちにどんどん脇道に逸れて未生は困ったような苛立ったような表情を見せる。これでは鈍感だと言われても仕方ない。

 未生との関係を終え、栄とも別れて八ヶ月。尚人なりに努力もしたつもりだし、少しは自分という人間に自信が持てるようになってきた気がしていたが、未生を前にすると以前の駄目だった自分が戻ってくるようでどうにも居心地が悪い。

「よくわからないけど、余計なことしたなら謝るよ。ごめん」

 意気消沈した尚人がそう謝罪すると、未生はいじけたような声で答える。

「大人になったところを見せようと思ってたんだ。一度だけ会ったとき、あの谷口って奴もブラックコーヒー飲んでたし。尚人だってコーヒー好きなんだろ?」

「コーヒーは好きだけど、でもここのはそんなに……」

 そこまで言って尚人ははたと気付く。

 この店のコーヒーは決して美味いとは言えない。豆の香りは飛んでいるし、何より保温されて時間が経つのか完全に煮詰まっていて口に入れれば苦味と酸味だけが舌を刺激する。だが、コーヒー自体を飲みつけない未生はどうやら、尚人や栄はコーヒーと名の付くものであれば何でも美味しく飲み、それこそが大人の証だと思い込んでいるらしい。

「……なんだ、そんなことで……っ」

 喉の奥からこみ上げる笑いを尚人は我慢ができない。少しでも堪えようと下を向き息を殺すものの、小刻みに肩は震えて唇からは笑いがこぼれる。それは当然未生にとって面白くない反応だ。

「ほら、やっぱりそうやって馬鹿にする」

「馬鹿にしてなんかいないってば」

 むくれた横顔のラインを見ていると、授業のときいつも眺めていた優馬の横顔を思い出す。未生は、賢く優しい優馬は自分とは似ていないのだと言い張るが、尚人には彼らにはやはり似たところが多くあり紛れもない兄弟なのだと思える。

 いつの間にか緊張も気まずさも消えて、尚人は昔からの友人を相手にするように安らいだ気持ちになっていた。

 そういえば未生といるときはいつもこうだった。決して優しくもないし、意地の悪いことや腹の立つことだってたくさん口にするのに、なぜだか許せてしまう。そして、人の顔色を見てばかりのはずの尚人が未生に対しては心の丈をぶつけることができた。一体あれはなぜだったのか。

 尚人は眉をしかめたままの未生に言う。

「……僕さ、君にひどいこと言っただろ? 人とちゃんと向き合えてないなんて。もちろん具体的な話は知らなかったにしろ、君がお父さんやご家族との関係で寂しい思いをして、それがいろんなことに影響してるっていうことはわかってたんだ。なのにあんなこと言うべきじゃなかった」

 そして、本当は未生に対しても謝るべきだとわかっていたにも関わらず、尚人は逃げた。栄との関係が続いているときはそれを言い訳に。栄と別れてからは、もう終わったことだからと自分を納得させて。

 尚人の謝罪の言葉に、未生の表情からみるみる不機嫌が消える。

「でもあのときは俺だって尚人にひどいことを。そもそもは俺が無理やり尚人に声をかけたから」

 確かに、尚人と未生の出会い方は最悪で、別れ方も最悪だった。でも別れ際に投げつけあった言葉には決して憎しみが込められていたわけではなく、むしろ相手の苦しみの根源を知っているからこそ言わずにはいられなかったのだ。

「君はずいぶん変わったよね」

 尚人は改めて未生を見た。この一年間に失敗をして、そこから這い上がってきた未生からはかつての荒んだ投げやりな雰囲気は消え去った。尚人はそれを寂しいことだとは思わない。

 未生も言っていた通り、高校卒業レベルすら怪しいところから半年弱で国立大学に合格するための努力というのは並大抵のものではない。だが未生はそれをやり遂げて、しかも話しかけるにも勇気がいる中わざわざ尚人に報告までしてくれたのだ。

 じっと見つめられて居心地悪そうに身じろぎし、しかし未生もまた尚人を見つめ返してくる。

「尚人だって変わったよ。あんなにおどおどしてたのに別人みたいに」

「そう見えるなら嬉しい。君とのことも、栄とのことも無駄にしたくはなかったから」

 恋は消えて、過ちだけが残った。だったらせめて、その過ちから学ぶことだけは――。

「もしも」と、未生が言った。

「もしもの話だけどさ、あんな出会い方してなかったらどうなったかな。例えばいまが最初の出会いだったら」

 例え話はあまりに虚しい。あんな出会いでなければ、どうだったというのだろうか。未生が「本気にならない限り」などという条件付きで尚人に触れることがあったというのだろうか。悲しくなって尚人は笑う。

「僕がいまの僕だったら、きっと未生くんは声をかけてないよね。満たされない可哀想な人間が好きだって言ってたけど、僕はもう多分、そんなに惨めではないつもりだよ」

 精一杯の強がり。こんな風に会って話して、舞い上がらないように、また無駄な期待を抱いて――同じ失敗を繰り返さないように、尚人はただ笑った。だが、なぜだか未生は笑い返すどころか浮かない表情を見せるだけだった。

「そんなことで昔のことで、俺はもう……いや、変なこと言った。別に出会い方が違ってても、尚人にはあいつがいるんだし」

 歯切れ悪くそう言うと、未生はミルクと砂糖で甘くなったコーヒーを一気に飲み干す。それからわざとらしい仕草で腕時計を眺め、立ち上がった。

「ごめん引き止めて。あんまり帰りが遅くなっても彼氏が怒りそうだから、そろそろお開きにしなきゃな。あのときのマフラーの下、すごかったし」

 口調はふざけているのに顔は全然笑っていない。未生の明らかにおかしな態度と、突然過去の恥ずかしい話を持ち出されたことに尚人は戸惑う。

「未生くん、何言って」

 つられて立ち上がった尚人に未生は真顔で告げた。

「今度こそ間違えるなよ。二度目の浮気したらきっと許してはもらえないだろうから」

 そして未生は尚人に背を向けた。

「あの、未生くん」

 声をかけるが振り向いてはくれない。

 こんなにも潔く去ることができるのなら、なぜ未生はわざわざ尚人に声をかけたのだろう。謝罪とか、近況報告とか、確かに未生にとっては一つの区切りになるかもしれないけれど、尚人の心はこんなにもざわめいている。

 会わないと決めたのは、ひとりで生きることを学ぶ必要があったから。そして決して上手くいくはずのない関係だとわかっているのにまた未生に会って心が揺らぐことが怖かったから。栄を傷つけて、自分も傷ついて、もう二度とあんな思いはしたくないと思った。心を埋めて言いたい言葉を胸にしまうことには慣れていたから、そうすればいい。はじめなければもう失敗することだってないのだと。

 同情心から未生に手を差し伸べたって先は見えているなんて、そんなこと百も承知だ。でも――未生の過去を知ったときに痛ましく思い同情心を抱いたのは事実だったが――尚人が最初に彼に心惹かれた理由は、そんなものだっただろうか。

 尚人はコートとカバンをつかむと、テーブルの上のトレイも片付けないまま未生を追って店の出口へ走った。

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