騒々しい週末

「ほのか、あなたにはお兄ちゃんがいるのよ」

 物心ついた頃から、ことあるごとにママはそう口にした。

 わたしがまだ見たことがない「お兄ちゃん」の話をするときのママはいつだって甘ったるい声色で、でも目には見えない大きな岩に押しつぶされているような辛そうな顔をするものだから、どう反応したらいいかわからなくていつだってただ黙って話を聞いていた。

 幼稚園で友達から「ほのかちゃんは、ひとりっ子なのね」と言われたときに、なぜだか悔しくなって「違うよ。ほのかにはお兄ちゃんがいるのよ」と言い返した。その子からは、わたしの家に遊びに来たときに一度も他の子どもの姿を見たことはないという理由で嘘つき呼ばわりされたから、ついむきになって思いきり髪を引っ張ってやった。もちろん先生からもママからもひどく叱られた上に、一緒に相手の子の家まで謝りに行かされた。

 どうやら「お兄ちゃん」は普通は一緒に暮らしているらしい、と知ったのはそのとき。

 本やテレビで見る「お兄ちゃん」はぶっきらぼうだったりたまに意地悪だったりもするけれど、最終的には頼りになるし、妹を守ってくれる。だから、もしそんな存在がわたしにもいるなら、きっとすごく嬉しいし楽しい。でも、いつまで経っても「お兄ちゃん」が我が家にやって来ることはなかった。

 ママはもしかしてわたしをからかっているのかな。いいかげん「お兄ちゃん」の話を疑いはじめた頃に出会ったのが、和くんだった。

「ほのちゃん、はじめまして。僕は和志、澤和志っていうんだ」

 そのときは、とうとう「お兄ちゃん」に会えたんだと思って舞い上がった。

 優しそうで、賢そうで、和くんはわたしが思い描いた「お兄ちゃん」そのものだったから、やっと夢が叶ったんだと喜んだ。でも、その嬉しさをつたない言葉で伝えると、和くんは首を振って申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんね、ほのちゃん。僕は君のお兄ちゃんじゃないんだ」

 リビングルームではわたしのママと和くんのお母さんが話しこんでいる。「大人同士の大事なお話があるから和くんとほのかは、ほのかのお部屋で遊んでなさい」、そう言われたのだ。

 確かにそうだ。和くんは、和くんのお母さんと一緒にわたしの暮らすマンションにやってきた。和くんには和くんのお母さんがいるということは、彼はわたしのママの子どもではないに決まってる。和くんが自分の兄ではないのだと知って正直すごくがっかりした。

「なんだ、やっぱりほのかにお兄ちゃんがいるなんて、ママの嘘なんだ」

 それが和くんに対して失礼な態度だと気づくには、あのときのわたしはまだ幼すぎた。あからさまに拗ねた態度でつぶやくと、和くんは慌てたように身を乗り出した。

「違うよ。ほのちゃんのお母さんは、離ればなれで暮らす圭ちゃんのことを気にしてるから、こうやってたまに僕のお母さんに話を聞いてるんだ」

 それは一度も聞いたことがない名前。

「圭ちゃんって、誰?」

「君のお兄ちゃん。僕も僕のお母さんも、君のお兄ちゃんのことをよく知ってるんだ。お隣に住んでいるし、毎日圭ちゃんは僕の家でご飯を食べるんだよ」

 和くんはそう言って目を輝かせた。

 ママの言っていた「お兄ちゃん」の話が嘘ではなかったことは嬉しいと思ったけど、目の前で見知らぬ男の子からこんな風に「お兄ちゃん」について話を聞かされて、ひどく納得いかない気持ちになった。

 だって、兄弟でもなんでもない和くんはこうやって遊びに来てくれるのに、なぜ本物の「お兄ちゃん」は一向に姿を現さないのだろう。

「どうして、ほのかはお兄ちゃんに会えないの?」

「僕にもよくわかんないけど、なんだか難しい理由があるんだって」

「ほのか、お兄ちゃんに会ってみたい。ママもそうだと思う……」

 そう口にしたら無性に悲しくなってきて、べそをかいてしまう。すると和くんはハンカチを貸してくれて、頭を何度も撫でて慰めてくれた。

「うん。……でも、もうちょっとがまんしなきゃいけないみたい。代わりにほのちゃん、僕が君のお兄ちゃんの話をしてあげるから泣かないで。圭ちゃんにはいつかきっと会えるから」

 だから、わたしは泣き止んだ。和くんは嘘をついているようには見えないから、本当にきっといつか「圭ちゃん」に会えるんだと思った。それに、和くんは優しくて賢くて、どんな話も真剣に聞いてくれて――わたしが「お兄ちゃん」に夢見ていたことをほとんど満たしてくれたから、それだけでいくらか満足してしまったのかもしれない。

 それから和くんはときどきうちに遊びに来るようになった。和くんの話す「圭ちゃん」はいつもきらきらしていて、わたしは自分の兄である「安島圭一」はすごく素敵で、立派な人なんだと夢を膨らませた。

 だから――もちろん、小学校中学年になってはじめて会った彼が、目の前でひどい態度をとったときにはショックだった。ママに悪いからその場では我慢したけど、家に帰ってから部屋で泣いたし、次に和くんに会ったときには「和くんの嘘つき」とさんざんなじった。そのときわたしは「圭ちゃん」の悪口をたくさん言った気がする。和くんはただ困ったような顔をしていた。

 理想とはほど遠い「お兄ちゃん」との再会はショックではあったけど、そのうち多少はものごとを理解するようになり、ママがどうやってわたしのパパと出会いわたしを身ごもったのかを知ってからは、ちょっとはあのときの「お兄ちゃん」の気持ちを理解するようになった。

「親ってさ、勝手だよね。思えばアイドルになろうと思ったのも反抗期のせいだったのかも。あの頃はさっさと家出たいと思ってたし」

 ダイニングテーブルに肘をついてつぶやくと、持ってきた荷物を仕分けている圭ちゃんが驚いたような表情で振り返る。

「えっ、ほのか、何か悩みがあるなら兄ちゃんに相談してくれれば」

 あ、しまった。口に出すつもりはなかったのに、頭の中身がついこぼれてた。

 のんきにキッチンに立つ圭ちゃんの背中を眺めているうちに、「お兄ちゃん」を巡る十六年間のあれやこれやがつい浮かんできてしまったのだ。別に悩みでもなんでもない、ただの愚痴。

「いや、そういう問題じゃなくて。ていうか、圭ちゃんさ、こうやっていいように使われて不満はないの?」

 この土日、両親は一泊旅行に出かけている。

 そもそもはわたしがテレビ番組のロケで留守にする予定だったから、それに合わせて予定を入れていたのだ。なのにまさかの直前でのスケジュール変更で、オフになった。パパとママは少し心配そうだったけど、わたしだってもう子どもじゃない。一泊の留守番くらいできる。というかむしろ羽を伸ばせて大歓迎――だったはずなのに、家事のひとつもできないほのかを一人にするのは心配だと、なぜだか圭ちゃんがアルバイトを早退してやってきた。

 過去にはいろいろあったものの、昨年ふとしたきっかけで(詳細は知らない)我が家に出入りするようになった父親違いの兄は、かつて思い描いたほど優しくも賢くもないし、和くんが語っていたほど素敵でもない。

 センスがそこそこ良いのでごまかせているけど、顔もスタイルもまあ中の上くらい。優しいことは優しいけれど、それを外に表すのはあんまり上手くない。工業高校卒のアルバイターで、自分でも賢くないと言っている。でも今はカフェで働いていて、料理はママよりも上手いと思う。総合的に言えば、思い描いていたよりはちょっと劣るけど、思い描いていたよりずっと好きになれた、という感じ。

 圭ちゃん、と呼んでしまうのは、まだ「お兄ちゃん」と言うのが照れくさいから。

「え、ほのかは不満?」

「だって、ママ自分勝手じゃん。今になって思えば圭ちゃんが怒るのって当たり前だし、別にママとか、ほのかのパパのこと恨んでたって普通じゃん。今日だって仕事だったんでしょ? 疲れてるのにわざわざこんなところまで来て……圭ちゃんのパパだって、ママのことまだ許したわけじゃないんでしょう?」

 わたしは圭ちゃんのこと嫌いじゃない、というかけっこう好きだけど、まだどこか割り切れていない。自分が逆の立場だったら、圭ちゃんみたいに振る舞えないだろうと思う。だから、圭ちゃんが無理しているんじゃないかと心配になる。

 すると圭ちゃんは、持ってきた密閉容器を冷蔵庫にしまいながら苦笑する。

「いや、オレもあんまり生々しい話聞きたくないから追及しないけど、まあ当時はいろいろあったみたいだしさ。なんかさすがに十五年も経つともういろいろ薄れるのかな。父さんもオレが定職についたので安心して、今日は女の人とゴルフだとか」

 いやいやいや、そんなにあっさり笑って済ませていいことなの?

 恋愛とか(したことないけど)、結婚とか(正直ちょっと夢見すぎなのかも)、もっと大事な、一生を賭けるようなものなんじゃないかと思ってしまうのが恋愛禁止アイドル十六歳の頭の中なわけで。

「ああもう、大人って汚いーっ」

 思わず大声を上げてテーブルに突っ伏すと、圭ちゃんは慌てたように紙袋を探りはじめた。

「いや、ちょっと落ち着けよ。そうだ、フィナンシェ持ってきたんだ。フィナンシェ、食う? うちのオーナー特製の、ほのかも気に入ってたやつ」

「……お茶も欲しい。胃に優しいデカフェのやつ」

「わかった、すぐに淹れるから。あ、フレッシュミントティーにしようか。店で余ったミントもらってきたんだ」

 きれいに並んだ金色のフィナンシェを見たらちょっと気分が良くなった。少しは手伝わないと申し訳ないので、立ち上がって電気ケトルを水でいっぱいにしてから電源を入れた。圭ちゃんがミントの葉をちぎっているのか、キッチンにいい香りが漂いはじめる。

「本当に圭ちゃんはもうママのことや、うちのパパやほのかのこと、怒ってないの?」

「怒ってた時期もあったけど。まあ、もう気にしてもしょうがないっていうか、自分でもよくわかんないけど、なんかそういう風になっちゃうこともあるんだよ」

「本当、よくわかんない」

 よくわからないけど、それで今こうやってわたしはお兄ちゃんとお茶をしながら愚痴をこぼせているのだから、とりあえず素直に喜ぶしかないのかもしれない。

「圭ちゃん、今日泊まってくの? 血は半分つながってるけど、ふたりきりでお泊まりだと、もし週刊誌にばれたら変なこと書かれるかもね」

「えっ」

 フィナンシェを食べながら何気なく冗談を飛ばすと、単純な圭ちゃんは真に受けて手にしたカップを取り落としそうになる。あんまりからかっても後で怒られそうなので、すぐに謝ることにした。

「ごめん、嘘嘘。ていうか呼んであるよ」

「何を?」

 圭ちゃんが怪訝な顔で聞き返した、ちょうどそのときインターフォンが鳴った。

 電話では今日は実験で遅くなりそうだと言っていたのに、予想よりずっと早い――いや、むしろ予想通りというべきか。

「圭ちゃんっ。俺に何にも言わずにずるい」

 駆け込んできた和くんは、わたしなんか目にも入っていない勢いで圭ちゃんに詰め寄る。これでも一応人気アイドルグループの、センターとまではいかないけどそれなりの人気メンバーのはずなのに、と思わなくはないけれど、これが和くんなので仕方ない。

「何がずるいんだよ。自分の妹に会って何が悪い」

「だってずるいだろ。俺が会いたいって言っても忙しいとかなんだとか、三回に一回も会ってくれないのに。なんでほのちゃんに呼ばれればこんなに……」

「三日に一度会ってればじゅうぶんだろうが。頻度が違うんだよ、頻度が」

 うるさい。すごくうるさい。

 パパやママがいないから遠慮なしなのか、いつも以上に「仲良く喧嘩」する姿は微笑ましいといえなくもないけれど、思ったよりうざったい。

 あんなに優しくて賢かった和くんは、三人で会うようになると思ったよりポンコツな一面を見せるようになった。とにかく圭ちゃん圭ちゃんとうるさくて、わたしなんて二の次だ。最初はちょっと悔しい気持ちにもなったけど、そこでようやく幼い頃に和くんに聞かされていた圭ちゃんの姿がやたら美化されきらきらしていた理由に思い当たった。和くんの目には、この「平均よりちょっといい感じ」程度な兄が、世界一素晴らしい人間に見えているのだと――。

 こんなの、犬も食わない。

 フィナンシェの最後のひとかけらを飲み込んでから、わざと大きな声で独りごちる。

「あーあー。そういえば、ほのかの初恋の相手は和くんなんだよね。和くんと結婚しようかな」

「えっ!?」

 同時に動きを止め、硬直した表情でこっちを見る二人。馬鹿みたいで呆れるけど、ちょっとかわいい気もして笑えてくる。

「やめてよ二人してそんな顔して。冗談に決まってるでしょ」

 そう言うと圭ちゃんがほっとしたように笑顔を取り戻す。

「だよな。良かった。まさかほのかがこんなポンコツ野郎と……」

「えっ、圭ちゃん、そういう『良かった』なの? 俺てっきり……」

 あ、またうるさいのが始まる。やっぱりここに和くんまで呼んだのは失敗だったか、と思いつつ、でもまあ、たまにはこんな騒々しい週末も悪くないのかもしれない。

(終)
2018.03.17