Dance with Cherry(1)

 触れ合った体が熱い。頬や首筋にかかる息はもっと熱い。

 火曜日は圭一が働いているカフェの定休日。別にそうして欲しいと頼んだわけではないのに、和志は大学の予定をできるだけ空けて圭一の部屋にやってくる。もちろんそれ以外の日にもしょっちゅう顔は合わせているが、のんびり二人で過ごす時間を持てるのは断然火曜日だ。

そして、少しまとまった時間があればこうして抱き合うのも、最近では毎度のこと。

 さっきまでネット配信のアメドラを見ながら他愛もないおしゃべりをしていたはずなのに、いつの間にかベッドで絡み合っている。最初に手を出してくるのは決まって和志だが、触れられれば圭一の体だってたやすく温度を上げる。お互い服を着たまま、ボトムと下着だけを膝までおろした中途半端な格好で欲望の中心に触れ合いながら荒い息をする。

 自分で自分に触れるとのは全然違う感覚。和志の手で敏感な場所を包まれ擦られるのもたまらないが、自分の手の動きに合わせて目の前の和志が体を震わせたり切羽詰まった表情を見せるのにもどうしようもなく気持ちが高まる。鼻水垂らしている頃から知っている幼馴染、しかも男が乱れる姿を見て興奮するなんて、大概おかしくなったものだと頭の片隅に追いやられた冷静な自分がツッコミを入れてくる。

 恥ずかしいから目は閉じていたい。でも、和志の顔は見たい。だから圭一はうっすら瞼をあげて、浅い息を吐く和志の表情を確かめる。汗ばんだ額、紅潮した頬、手の中のもののきつく張り詰めた感触からしても、終わりは近いはずだ。

「圭ちゃん……っ」

 耳元で名前を囁かれるとぞわりと全身が泡立ち、腰の奥がひときわ熱く脈打った。やばい、と思って湧き上がる射精感を必死に堪えつつ、圭一は和志の性器を擦り立てる手に力を込めた。だって、圭一にはプライドがある。なんとしてでも、和志より先にイくわけにはいかない。

「我慢できないんだろ……イけよ……っ」

 煽るようにそう告げると同時に、手の中のものが弾ける。やった、勝った――そう思った直後、安堵した圭一も腰を大きく震わせて達した。

「はぁ」

 息を整えていると、一足早く絶頂を迎えていた和志がぎゅっと抱きしめてくる。こんな風に抱き合った回数はもう片手、いや両手の指の数を超えるだろうか。なし崩しにキスをされ押し倒されたあの日から、圭一は特段の許可を与えていないにも関わらず、和志はこの部屋でこうすることを自身の当然の権利だと思い込んでいるようだ。とはいえ、口に出して許可は与えていないけれど、拒んだことだってない。

 たいして体格は変わらなくとも、上から覆いかぶされると重い。それに、後始末をしないままでこんな風に抱き合ったら、今出したばかりのもので衣類やベッドを汚してしまうかもしれない。まずは汚れた手と下半身を拭かなければ、圭一が口を開こうとしたところで和志が思わぬ動きを見せる。

 そろそろと伸ばされた指が、欲望を解き放って力を失った圭一の性器の下に潜り込む。軽く開いたままの脚の間をくすぐるように進み、その奥に触れさせるのは――。

 やばい、どうしよう。

 だが、圭一が和志の手を掴んで止めるよりも前に、部屋には甲高いホイッスルの音が鳴り響いた。驚いた和志が手を止めて、ハッと顔を上げる。これ幸いとばかりに圭一は和志の体の下から這い出すことにする。

「あっ、沸騰した!」

「圭ちゃん!」

 そうだ、すっかり忘れていたが、炊飯鍋をコンロにかけていたのだ。簡単に美味しいご飯が炊けると、アルバイト先のカフェの店主である渋谷から譲ってもらった炊飯用土鍋。一昨日試してみたところ、確かに電気炊飯器とはまったく違う炊き上がりだった。今日和志が来て、ここで夕食まで食べていくことは想像していたから、奮発して普段よりいい米を二キロだけ買っておいたのだ。

 不満そうな声を上げる和志を押しのけて、ベッドから立ち上がった圭一は汚れた手と腹部をティッシュで拭うと服装を整えながらキッチンへ走る。コンロの火を消して、タイマーを三十分にセットしてからシンクの蛇口をひねる。

 まだ心臓は激しく波打っているし、和志に触れられていた感触は体から消えていない。だから心を落ち着けるためにハンドソープをたっぷりつけて、できるだけゆっくり、しっかりと手を洗うことにする。飲食で働きはじめるまでは外から戻ったときに手を洗う習慣すらなかった。しかし、渋谷から厳しく衛生について躾けられるうちに、手洗いは圭一にとって精神集中の儀式になった。

「ひどいよ圭ちゃん、まるで汚いもの触ったみたいに」

 やがて和志ものろのろと立ち上がり、狭いキッチンにやってくる。背を向けているので見えないが、きっと不満を絵に描いたような表情を浮かべているのだろう。

 和志が彼にとっての「中途半端な状態」で留め置かれたことを不満に思っているであろうことは、圭一だってわかっている。そして最近の和志が触り合って出すだけでは満足しなくなっていることに気づいているからこそ、圭一は困っているのだ。

「だって……汚いだろ。食べ物触るんだから」

「そりゃそうだけど。それに、もうおしまい?」

 素っ気ない言葉でやり過ごそうとするが、和志は甘えるような声を出して後ろから圭一の体に手を回してくる。触れられると心臓がざわめき、せっかく手洗いで心を落ち着けたのも一瞬で台無しになってしまった。

「タイマー切れたら米混ぜなきゃいけないし……。それにもう出したんだから、満足だろ?」

「そんな処理みたいな言い方ないよ」

 平静を装ったままの圭一の耳元に唇を寄せ、和志は正直に不満を告げる。

「圭ちゃんと、したい」

 続く言葉と同時につっと服の上から尻を撫でられて、圭一は震えた。本当に、やばい。慌てて和志の腕を振りほどいて数歩後ずさる。最近の和志は言うこともやることも露骨だが、今日は特にたちが悪い。こんなにストレートに欲求を口にされると曖昧にごまかすこともできないではないか。

「いやいやいや、あの、したいって。それ、そういうの」

 そう――最近の和志は明らかに圭一の尻を狙っている。キスして、体を弄って、互いに気持ちよくなって出す、その先に関心が移っているのだ。

 圭一だって、和志のことは嫌いではない。抱き合うのもキスするのも嫌ではないどころか気持ちいいと思うし、とろけるような和志の表情を見るのは好きだ。だが、圭一はこれまで女の子としか付き合ったことがない。これまでなし崩しに和志に対して許してきた行為は男女交際の延長、もしくはオナニーの延長のようなものだが、ここから先は違う。それに、和志が当たり前のように自分を抱こうとしていることにも違和感があった。

「圭ちゃんは俺としたくないの?」

「えっ」

 和志の直接的な問いかけに、圭一は口ごもった。

 和志のいやらしい表情を見るのは好きだ。だがそれが、和志の尻に入れたい欲求につながるかといえばそうでもない。逆に和志に入れられたいかと言えば、それはそれで歓迎する気にはなれない。そもそも圭一にとって和志は、自分より賢く大人の評価も高い目の上のたんこぶだったのだ。

 ある種のライバルであり、コンプレックスの対象であった幼馴染と、いくらちょっと逸脱した関係になりかかっているとはいえ、押し倒されて女の子みたいに扱われるのは納得がいかない。

 圭一は熟考して、正直な気持ちを答えた。

「したく、ない」

「えっ」

 今度は和志が口ごもる番だった。その顔には「予想外、大ショック」と書いてある。

「圭ちゃん、俺のこと好きじゃないんだ」

「いや、あの、そういう好きとか嫌いとか、いや、嫌いじゃないけど。でも」

 実は圭一はまだ一度も和志に「好き」という言葉を告げたことがない。というか、自分の中にある和志に対する感情が恋愛感情の「好き」であるか、自分でもよくわからないのだ。

 確かに和志が圭一以外を優先すると腹が立つし、文句を言いながらも数日顔を見ないと寂しくなるし、あからさまな好意を向けられると悪い気はしない。だが、これはいわゆる恋なのか。

 とはいえ今はそんな複雑な気持ちについて伝えるタイミングではないような気がする。何しろ和志は圭一の「したくない」という言葉に予想以上に落胆しているのだ。だから今はどうにかして話を逸らして、場を取り繕うしかない。

 圭一は、体だけ大きくなった小学生のようなものだと思っていた和志の豹変に、実のところ戸惑っている。

「でもさ、和志、あの、その。俺たちそういうの。第一おまえ、そんな虫も殺さないような顔してガツガツ盛ってくるとか似合わないよ」

「似合うとか似合わないとか、そんな」

 和志はまだ不満そうだが、明らかに会話の流れは圭一に有利になった。そう、こんな風に性欲丸出して迫ってくるなんて、和志らしくない。そのことをもう少し言い聞かせれば……勝ちを焦った圭一は、自分が明らかに余計なことを口に出そうとしている自覚がなかった。

「そうだよ。キスもぎこちないし、毎回触り合ったらオレより先にイっちゃうし……第一童貞だろ、おまえ。そんな焦るのはさ……」

 その瞬間、キッチンの空気が凍りついた。

「圭ちゃん、俺のことそんな風に思ってるんだ」

「あ」

 珍しく鋭い視線で睨みつけてくる和志を見て、言い過ぎたとことに気づいた。意識していなかったが、今圭一が口にしたことは、和志にとって地雷だったのだ。

「……キスも下手くそで、早漏で童貞だってバカにしてるんだ」

 和志の体にぐっと力がこもるのがわかった。握りしめた拳はわなわなと震えている。長い付き合いでも、これまで圭一は温厚な和志が本気で怒るところを見たことがなかった。しかし今は怒っている。心底。

「いやあの、そういうつもりは……」

「そりゃ俺は確かにエッチしたことないよ。でもそれはずっと圭ちゃんのことが好きで、初めては圭ちゃんとだって決めてたから。なのに圭ちゃんは取っ替え引っ替え女の子を」

「はあ?」

 その言葉に、今度は圭一がカチンとくる番だった。予想外の反撃に、和志の怒りに気圧されていたのもどうでも良くなり怒鳴り返す。

「そんなことねえよ。彼女なんかせいぜい四、五人だろ。やったのなんか、三……くらいか。普通だよ。むしろ少ないくらいだよ。それをヤリチンみたいに!」

 和志の言い分は勝手だ。幼い頃から圭一一筋だった和志と違って、圭一は和志に特別な感情を持っているかもしれない可能性に気づいたのすら最近のことだ。いや、和志だってしつこく絡んできてはいたが、圭一に正面から告白してきたのはついこの間だった。

 勝手に片思いされた上に、勝手に貞操を押し付けられて、今になって恨み言をぶつけてくるなんて理不尽にもほどがある。それに、圭一はずっと和志は以前付き合っていた彼女相手に童貞を喪失しているものだと思っていた。和志から経験がないと聞かされたときにはむしろ驚いた。

「第一さ、前見たあの女。おまえだって彼女作ってたじゃないか。それをただ偶然やれなかっただけで偉そうに」

「そういうんじゃないよ」

 和志はことさら「圭ちゃんのために貞操を守った」的な物言いをするが、この性欲の強さを見ているととても信じることはできない。きっとあの地味な女に性急に言い寄って、失敗したんだろう。

「やだね」と、圭一は言った。

 完全に頭に血が上っていることを自覚していた。しかし、苛立ちのままに実際の気持ちや考えをはるかに超えた、乱暴で残酷な言葉を口にしようとしていることは、十分に自覚できていなかったかもしれない。

「早漏の童貞なんかに尻差し出して、どんな怪我させられるかわからない。オレは死んでもおまえとはそういうことしないからな!」

 ――次の瞬間、怒りに紅潮していた和志の顔からすっと色が消えた。それと同時に圭一もハッと正気に戻る。

 睨み合っていた和志の瞳から光が消え、視線はすっと逸らされる。和志はそれから言葉もなくキッチンから居室に向かい、いつも持ち歩いているリュックサックを手にして戻ってきたかと思うと圭一に背を向けて玄関で靴を履きはじめた。

「あ、和志。……飯、もうすぐ炊けるけど」

 ごめん、とは言えなかった。しかし売り言葉に買い言葉で、とうとう和志の許容範囲を超える暴言を吐いてしまったのだということはわかっていた。動転した圭一は土鍋と和志を交互に眺め、手製の夕食を理由に機嫌を直してもらえるのではないかというわずかな可能性に期待した。

 だが、いくら単純な和志も「早漏の童貞」を理由に「絶対にセックスをしない」と断言された直後では、手料理程度にごまかされはしない。

「今日はいい……。俺さ、圭ちゃんと両思いになれたって舞い上がりすぎてたのかもしれない。ちょっと頭冷やすよ」

 バタンと玄関の扉が閉まると同時にキッチンには炊飯の終わりを知らせるタイマーが鳴り響いた。