第1話

 耳ざわりな電子音が枕元から響いてくる。十分おきに三回かけた目覚ましはさっき全部止めたはずだし、もちろんスヌーズだってオフにしている。……ということは、これはきっと気のせい。

 安島あじま圭一けいいちは頭まですっぽり布団の中に潜りこんで幻聴をやり過ごそうとするが、単調な音があまりにしつこく続くものだからとうとう堪えきれずに腕を伸ばすと枕元に置きっぱなしだったスマートフォンを手にした。

 液晶画面には電話が鳴っているアニメーションとともに、実家の隣に住む幼馴染もとい腐れ縁の男の名前が表示されている。

「……ったく」

 小さく舌打ちしてから通話ボタンをタップして、相手の声が聞こえてくる前に通話を終了する。ところが、さて寝直すか、と再び暖かい布団に顔を埋めたところで往生際悪く着信音が息を吹き返してきた。こうなると根比べになるのだが、根比べとなればいつだって――気の短い圭一が負けると決まっている。

「うっせえよ! 何時だと思ってんだ」

 寝起きのかすれ声で怒鳴ると、スマホのスピーカーからはいつも通りの落ち着き払ったさわ和志かずしの声が聞こえてくる。

「八時半だよ。だから電話してるんじゃないか。圭ちゃん、その声……また明け方までゲームしてたんだろ? だめだよちゃんと起きなきゃ」

「……おまえには関係ないだろ。放っとけよ。切るから、二度と掛けてくんな。もう一回掛けてきたら殺す」

 明け方までゲーム、は図星だ。そして、図星だからこそ圭一の機嫌はさらに悪くなり、頼んでもいないモーニングコールを掛けてきたおせっかいな和志への苛立ちも倍増するのだ。

「あ、待って圭ちゃん二度寝はするなよ。だって今日九時から……」

 和志の言葉を最後まで聞かないままに圭一は回線を切断し、そのままスマートフォンの電源をオフにしてから今度こそ布団という名の楽園に戻っていったのだった。

 ――そして、つかの間のパラダイスの代償は思いのほか高くつくことになる。

 昼過ぎにすっきりとした目覚めを迎えた圭一は、自分が朝九時からのアルバイトのシフトをすっ飛ばしていたことに気づき真っ青になった。慌ててアパートから五分のコンビニまで自転車を飛ばすが、そこで圭一を出迎えたのは今日の日勤の予定はなかったはずのオーナーの姿だった。

「あ、あの、すみません。ちょっと腹が痛くて」

 その全身から滲み出る不穏なオーラが恐ろしくて正面から顔を見ることもできない。作り笑いを浮かべながらとにかく制服に着替えようとバックヤードに向かう圭一の背中に向かって、低い声で冷酷な言葉が投げかけられる。

「安島くん、着替えなくていいから」

「……はい?」

 オーナーは無言で圭一をごく狭い事務室へ連れこむ。

 この店のオーナーはそろそろ中年に差し掛かるくらいの年頃の男で、二年前に脱サラしてコンビニエンスストアの経営をはじめたのだと聞いている。事前の開業説明会で聞かされていた甘い話と、実際に本部とフランチャイズ契約を結んでからの話は大きく異なっていて、夢の自営生活の実態はサラリーマン時代と同水準の収入で昼夜なく不規則な労働とノルマに追い立てられる日々に他ならなかった――というのはこの店舗のバイトならば誰しも耳にタコができるほど聞かされた話だ。

 要するに、思うようにならない日々の中、当てにならないバイトに対してオーナーの怒りは今こそ最高潮に達しているのだった。

「安島くん、今月遅刻するの何回目だっけ?」

「……さ、三回くらいですかね?」

 もちろん自分でも、とても三回どころでは済まないことは知っている。知ってはいるが控えめな数字を言わずにいられないのは、相手の顔が本気の怒りに燃えているからだ。とはいえ稚拙なごまかしが通じるはずもなく、オーナーはシフト表に記された赤いバツ印をイライラと指で叩きながら声を荒げた。

「五回目だ、ご、か、い! 先月も、先々月も遅刻続きで、君が入る日の シフトは全然当てにならないんだ! もういいよ。バイト開始時の雇用契約書の解除条項はちゃんと説明したよね? もう二度と遅刻しませんって言葉はいいかげん聞き飽きた!」

「え、あの」

 まさかとは思ったが、額に青筋を立てた店長は事務処理用のパソコンに据えつけられたプリンターから印刷したばかりの「アルバイト募集」のチラシを手に取り圭一の目の前に突きつけた。

 そして、残酷なる通告。

「安島くん。君、もう来なくていい。クビだよ、クビ。制服は回収しておくから、ロッカーの鍵は今ここで返して。最終月の給与は口座に振り込むから、後で確認して。もう二度と君の顔は見たくない」

「そんなぁ」

 へなへなと膝下から力が抜ける。だって、バイトなしでは家賃も光熱費もケータイ代も払えない。それどころか先月はうっかりスマホゲームにもはまってガチャで数万円分課金してしまったから、その支払いも上乗せ請求されてくるはずだ。圭一はアルバイトだけで糊口をしのぐ二十一歳フリーター、自慢ではないが生まれてこの方貯金というものをしたことはない。

「あの、反省します! 今度こそ、もう二度と遅刻しませんから!」

「そういうのはもう聞き飽きた。悪いけどお客さん溜まってきたみたいだから、僕はレジに行くよ。君はもうここのスタッフじゃないから、バックヤードからは出て行ってくれ。ほら」

 取りすがろうとする体は拒まれ、結局そのまま店外にまでつまみ出されてしまった。もちろん着替えに行こうとして手に持っていたロッカーの鍵は奪われた。

 まさか遅刻くらいでこんな目にあうなんて。信じられない気持ちで圭一はしばらくガラス越しに店内を見つめていたが、しばらく経ってレジ待ちの客が捌けてしまうとオーナーは雑誌棚の前までやって来て、ちょうど圭一の顔の真ん前あたりのガラスに嫌がらせのように洗浄スプレーを吹きかけた。

 そして日も暮れた頃、圭一のアパートを訪れた和志が床に座ってため息をつく。

「まさか、あそこから二度寝してるとは……。せっかく起こしてあげたのに」

「うるさい。おまえの不愉快な声のせいで寝覚めが悪くて二度寝したんだ。っていうか何しに来たんだよ」

「……虫の知らせだよ。嫌な予感がして」

 部屋は汚部屋といって差し支えない程度に散らかっているが、勝手知ったる和志は器用に獣道を伝って上がりこみ、衣類やゴミ袋の山をかきわけて自分の居場所を作ってしまう。したり顔で説教する幼馴染みと向かい合うのも不愉快で、圭一は背を向けてベッドでふて寝中だ。

 和志は「虫の知らせ」とやらが気になって大学終わりにわざわざ自宅とは反対方向にある圭一のアパートまでやって来たらしい。思えば圭一が実家を出た理由のひとつには、隣に住む圭一と顔を合わせないようにするという目的もあったはずなのに、気づけばこうやって入り浸られて、しかもいつの間にか合鍵まで作られている。

「くそ、やっぱ鍵変えよう」

 悔し紛れに独りごちるが、当然今の圭一にそんな金があるはずもない。来月十日に最後の給与が入れば、しばらく収入は途絶える。それどころか今月は五日間も遅刻した上に途中でクビになったのだから、最終給与の金額自体たかがしれている。

「帰れよ。おまえの顔なんか見たくない」

 悔し紛れのつぶやきに、和志は大げさに驚いてみせる。

「えっ? せっかく弁当買ってきたのに」

「弁当!?」

 思わず起き上がり振り返った圭一の視界に、今日も寝癖を直しただけの無造作な黒い髪で、母親がアイロン掛けしてくれたのであろう折り目正しいシャツに品質だけは良さそうなカーディガンを羽織っている和志の真面目を具現化したような顔が入ってくる。

 そして――その横には確かに近所の弁当屋のビニール袋。

「弁当だけ置いていけ」

「二つ買っちゃったし、もう母さんに夕食いらないって連絡した。どうしても帰れって言うなら、これ全部持って帰るよ」

 相変わらずいけ好かない奴だ。とはいえ目の前に極貧生活が迫っている圭一には一食分の弁当すら喉から手が出るほど欲しい。それに今日は起きてそのままバイト先に行き、あとはクビのショックで呆然としていたから何も口に入れていない。弁当の存在が目に入ると途端に空腹を感じはじめ、圭一は吸い寄せられるようにローテーブルの前に座り込んだ。

「とりあえず、飯食おう。それまで休戦だ」

「うん」

 目の前に置かれたのは圭一の好きなハンバーグ弁当。和志の前にあるのは野菜炒め弁当。栄養バランスだなんだと口うるさい和志だが、頑なに野菜を残し続けているうちに圭一の分だけはハンバーグ弁当を買ってきてくれるようになった。代わりに、弁当容器の隣には一日分の野菜と同様の栄養素が含まれているという野菜ジュースの紙パックが置いてある。まあ、これくらいは飲んでやってもかまわない。

「……圭ちゃん、肉と炭水化物ばっか」

「いいんだよ。草なんか食べてられるか」

 吐き捨てつつも、圭一だって本当は野菜炒めが嫌いなわけではない。自分ひとりで買い物に行ったときは栄養バランスを気にしておにぎりと一緒にサラダを買うことだってある。だが、いちいちやることなすことに文句をつけてくる和志を目の前にするとどうしても意地を張って、彼の言うのと正反対の行動をとりたくなるのだ。

 ――オレ、一体いつからこんな風になっちゃったんだろう。

 少なくとも昔は、こうではなかったような気がする。複雑な気分で圭一はとりあえず、ハンバーグ弁当を頬張った。