「冨樫さんって、奥さんの過去に嫉妬したりします?」
「は?」
打ち合わせが一区切りついたタイミングでふと尚人が口にすると、正面に座っていた冨樫はすっとんきょうな声をあげた。考えてみればそれもそのはずで、学生時代に出会ってずいぶんな年月が経つが尚人が自分から恋愛に関する話題を振ったことなどこれまで一度としてなかった。
驚いた視線を向けられると途端に恥ずかしくなって、あわてて顔の前で手を振ってみせる。
「……あ、いや。そういうことあるのかなあと思っただけで、深い意味は。気にしないでください」
いくら否定したところで、すでに手遅れだ。尚人の先輩であり雇用主である男はニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべながら身を乗り出してくる。
「そんな風には見えないけど、相良ってけっこう嫉妬深い方だったんだ」
どうやら尚人が自身の嫉妬心を気にしていると思われたらしい。かと言って「交際相手が嫉妬深くて」と打ち明けるのも惚気と思われそうなので、やんわりと否定しようとする。
「っていうか、あの……」
だが面倒見の良い冨樫は尚人が照れていると思ったのか、皆まで言うなとばかりに一方的にうなずいて話しはじめた。
「まあ、最初の頃はそういうこともあったけど、今はガキもいるしな。仕事以外でよその男とふたりきりで密会されればさすがに気になるだろうが、過去までは」
言われてみれば、学生結婚ですでに子どもまでいる冨樫と、付き合いはじめてほんの一ヶ月の自分たちを比べるのが間違いだったかもしれない。いくら前回会ったときの未生の様子が気になっているとはいえ、相談すべき相手を間違えた。
先週末、尚人の高校時代の写真を目にした未生はなぜだかそこから思考を飛躍させて、久しぶりに栄への嫉妬を爆発させた。要するに髪型や服装含め「尚人の今のセンスやライフスタイルが栄の影響を受けていることが気に入らない」と言いたいらしい。
もちろん恋人が自分に対して独占欲を抱いてくれること自体に悪い気はしない。だがいまさらどうしようもない過去へのこだわりには戸惑いもする。
尚人だって未生の過去の交友関係が気にならないわけではないけれど、深く考えても仕方ないので意識して割り切っている。肉体関係を持つのが初めてでないのはお互い様だし、未生の過去の相手に外見的な魅力で立ち向かおうとしたってそもそも勝負にならない。むしろ未生がなぜこうも自分に執着してくれるのかが不思議なくらいだ。
例えば未生の髪形やファッションが誰かを倣ったものだとしても尚人は嫉妬しない。だがその理由を深く考えてみれば、自分が未生の自我を信頼しているからなのだと思い至る。たとえ人の影響を受けているにしても、その過程で未生は自ら取り入れるべきものとそうでないものを判断しただろう。
未生が尚人の身の回りのあれこれに栄の影響を見出して不快感を表明するのはつまり、過去の尚人がそのくらいあやふやな自我しか持たない人間だと看破しているからに違いないのだ。
だからといって、尚人にとって東京での生活は栄と一緒に作り上げてきたもので、すでに体に染み付いているといっていい。買い物をする店を変える程度の譲歩はできたとしても、未生が嫌がるからという理由で髪形や服装を変えたりするのも何か違っている。
未生は怒っているわけでもないし、何らかの対応を求められているわけではない、しかし尚人の中で週末のやり取りは小さなしこりとなって残っていた。
経緯としては仕方ないとはいえ、未生は栄へ激しい対抗意識を持っている。それは尚人が栄と別れて今は未生と一緒にいるからといって一切和らぐことはないようだ。
少し前に尚人の元に栄からメールが届いた。個人的な連絡ではない、イギリス赴任の日程が決まったと友人知人にまとめてBCCで送られたただの一斉メールだったのだが、それでも未生は不機嫌になった。ひとりきり言い争って「返信しない」ことを約束したものの、尚人の中には今もいくぶん栄への申し訳なさが残っている。
別れを切り出したのは栄で、今回のメールにも一切色恋じみた気持ちなど含まれていない。別れた後で新生活をはじめる際にも世話になった以上、栄の新たな旅立ちに一言くらいはなむけの言葉を贈るのが礼儀だというのが尚人の考えだが、それをすれば未生の機嫌はてきめんに悪くなる。黙ってこっそり返事するという方法もなくはないものの、恋人に嘘をつけば決して良い結果にならないことは身にしみていた。
未生の嫉妬は尚人の気持ちゆえなので、これも贅沢な悩みではあるのだ。だが、二度目の恋は初恋とは別の難しさを持つものなのだとため息のひとつくらいは吐きたくなる。
憂鬱な顔で黙ってしまった尚人を眺めながら、しかし冨樫はむしろ楽しそうだ。
「なんだよ、おじさんに相談してみろ」
人の良い笑顔は虚無の地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようで、尚人はついすがりたくなってしまう。
「本当にこれは僕のことじゃなくて。ただ……なんていうか、前の恋人の形跡とかって嫌がられるものなのかなと、思って」
微妙なフェイクを交えながらぽつぽつと悩みを告げる。
「あ、相良じゃなくて彼女の嫉妬ってことか。……まさか元カノの持ち物が家に残ってたとか?」
「そんなんじゃないです。ていうかその顔、冨樫さん経験あるんですか」
一気に笑いが消えた冨樫はうなだれた。
「かみさんと付き合いはじめたころにな。今思えば叱られてしょうがないんだけど、キッチンの調味料や調理用具も、前の女が買い揃えたんだろうって疑われて根こそぎ捨てられたっけ」
「ああ……やっぱりそういう面影ってだめなんですね」
尚人もつられてうなだれる。言われてみれば尚人の衣類や持ち物はほとんど栄と付き合っている頃に買ったもので、家具家電の多くも麻布十番から運んできた。未生としてはそんな部分も面白くないのかもしれない。
しばらく過去の傷を味わっていた様子の冨樫だが、ようやく立ち直ってきたのか顔を上げる。
「まあでも逆の立場になればわかんなくもないんだよな。自分色に染めたいなんて馬鹿みたいなことは思わないにしろ。俺、結婚してけっこう経つけど一緒に生活してると買い物の趣味とかも似てきて、そういうのって親密さの証みたいなとこあるからな」
その感覚は尚人にも経験がある――ただし栄との生活において、の話ではあるが。
「……そうですね」
尚人はうなずいて、わがままな年下の恋人の顔を思い浮かべた。
もちろん、独占欲も嫉妬も嫌ではない。ただ、経験値の少ない尚人は未生の気持ちにどう応えればよいかわからないだけ。
未生はセックスでも「栄がやっていないこと」をやりたがるから、要するはそういうことなのだと思う。でも今さら服を捨てるわけにも、髪形を変えるわけにもいかない。第一、下着ひとつ見て「これは栄が選んだものか」と問い詰めてくる面倒な相手に何か譲れば、きっとその後は際限なくなる。
とはいえ未生の読みは正しくて、特段のこだわりなく量販店で売っている三枚千円のトランクスを履いていた尚人の下着を買い替えたのは栄だった。よくわからないプリント柄の下着はどうやら栄のお気には召さなかったらしく、付き合いはじめてしばらく経ったころ、最初は「サイズを間違えて買ったから」と言い訳しながら、栄が履いているのと同じメーカーのボクサーを渡してきた。そのうち履き心地がいいだろうとか、値段は高いが長持ちするはずだとか営業マンのようなことを言い出して、気づけばシェルフのなかの下着は全部入れ替わっていた。
尚人としてはそのまま習慣的に同じものを買い続けているだけなので、下着を変えること自体特に抵抗はない。かといって未生好みの下着に変えますというのもなんだか気持ち悪いし、そもそも未生のボクサーブリーフだって尚人のものと大差はない。
何かしら未生に譲歩はしてやりたいが、いい方策が浮かばない。ぼんやり考えているうちにあっという間に数日が経ち、ある夕方帰宅した尚人はポストに奇妙なものを見つけた。
ろくに宛名も見ずに開いたメール便の封筒から小さく畳まれたファンシーな布が出てきたのに面食らい、あわてて宛名を確認する。透明ビニールに包装されているが、それは間違いなく女性用の下着だった。
よくよく見ると封筒の住所こそ尚人の部屋のものだが、宛名は面識のない女性のもの。おそらく尚人の前にあの部屋に住んでいた人物なのだろう。メール便には送付状も同封されていて、その文面によると前の住人である女性が下着ショップのモニター登録をしていて、なんらかの抽選に当たってこれが送られてきたらしい。
尚人は動揺した。とりあえず返送――と思うが、開封してしまったのでどうも気まずい。かといって勝手に捨ててしまうのも良くない気がする。しばし悩んだ挙句、送り状に書かれているお客様センターの番号へ電話をかけてみることにした。
「あの、そちらのモニターキャンペーンの商品が、間違って届いてしまったのですが……」
商品が商品だけに説明するのも恥ずかしい。女兄弟もいなければ女性と付き合ったこともない、しかも実家で洗濯はもっぱら母まかせだった尚人は女性用下着が手元にあるというだけで完全に動揺していた。
「大変ご迷惑をおかけしました――」
しかし、返送を求められるとばかり思っていたのに、オペレーターは丁寧に誤配送を謝罪した上で「商品はそのままでいい」と言い出した。
「え、でも……」
「お手数ですがそのまま廃棄していただけますか。わざわざご返送もお手間でしょうし」
ショップとしても、わざわざ煩雑な返品処理を受け付けるよりそのままにしたほうが楽と言うことなのだろうか。ともかく、迷惑この上ない話ではあるが、こうして尚人の部屋には女性用ショーツが残された。