サマータイム・マシン(4)

 


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 その後は仕事が立て込んで、未生の機嫌を直す方策を探す暇も誤って配送された封筒を廃棄する暇もないまま気づけば次の週末になっていた。

 昼過ぎにやってきた未生は無事レポートの提出を終え本格的な夏休みに入ったのだと解放感にあふれた顔をしていた。休みの間は昼間にも短期アルバイトを詰め込んで次期の授業料を稼ぐのだと張り切っている。

「何のバイト?」

「運送会社の荷物の仕分け。けっこう体力使うし外国人留学生が多いけど、人手不足だからか時給も悪くないんだ。で、居酒屋のシフトは夏休み中は平日のみにしてもらうから、休み中の土日はずっとこっちにいられる」

 ふうん、とつぶやきながら尚人は内心ではもったいないと感じている。

基礎学力の部分で欠落は多いものの、尚人の目から見ても未生は賢いし、本気になったときの集中力は凄まじい。だからこそ短期決戦で再受験にも成功した。だったら汗水垂らして肉体労働やサービス業に精を出すよりも、時給が高い家庭教師や塾講師のアルバイトを探した方が効率も良いし、未生自身の学力向上にも役に立つ。そう思って何度かアドバイスをしたこともあるのだが、本人は決して首を縦に振らない。

「何だよ、嬉しくないの?」

 未生の不満げな問いかけにはっとする。どうやら休暇中は一緒に過ごす時間を長くとれるという言葉に対して気のない返事をしたと勘違いされたらしい。尚人はあわてて首を振って否定した。

「そんなことない、嬉しいよ。ただ……ほら、夏休みだと夏期講習とかもあるから、そういうバイトの方が割がいいんじゃないかなって思っただけで」

 控えめに意見を述べると未生の表情は瞬時に白けたものになった。

「あー……」

 心底面倒くさそうなため息。こういう反応が返ってくるとわかっているから、あまりうるさいことは言わないようにしているのだ。

 未生は教師に言い訳する生徒のように続ける。

「いつも言ってるけど、尚人と違って俺はそういうの向いてないから。説明とか苦手だし気も短いし、ガキ嫌いだし。それにジムに通う金ももったいないから、バイトくらい体動かしてたいじゃん。尚人だって俺の体力が落ちたら寂しいだろ?」

 最後の部分はわざとらしく意味ありげに、未生は声を潜めてみせる。こうなるともちろん尚人に返す言葉はない。

 説明下手とか馬鹿だとか未生はいつも自虐的なことばかり言うが、こういう口の上手さを見ているととてもそんなふうには思えない。とはいえ本人がやりたくないということを無理矢理押し付けるわけにもいかないので尚人はそこでアルバイトについての話を打ち切った。

 なんとなくいつもの習慣で、アイスコーヒーのグラスを置いたテーブルに向かい合って座ったまま、沈黙が訪れる。

 特段の予定もない土曜日の昼過ぎだ。エアコンの効いた部屋は快適で、外の暑さを思えば日が沈むまでは出歩く気にもなれない。恋人同士水入らずの穏やかな時間のはずなのに、尚人は妙な居心地の悪さを感じてしまう。

 普段の未生はこの部屋に来ても大学の課題や復習に追われている。だから昼間にやってきても、夜が来るまではテーブルで向かい合い尚人は仕事や研究会の準備、未生は勉強というのがふたりの定番の過ごし方だった。だが今日はちょっと様子が違う。はじまったばかりの夏休み満喫モードの未生はどうやら一切の勉強道具を自宅に置いてきたようだし、尚人もどうしても今ここでやらなければいけないような仕事はない。

 要するにふたりは手持ち無沙汰で、するとどことなく気詰まりな雰囲気が漂う。こういうとき何を話して、何をすればいいのか尚人にはよくわからない。もちろん栄との交際当初もそういうことはあったのだろうが、あまりにも昔のことなのでどうやって切り抜けたのかはすっかり記憶から消えている。

 未生が先週の話――栄の趣味がうんぬんというあれを蒸し返さないのは幸いだが、だからといってこのまま沈黙が続けばふとした拍子に思い出さないとも限らない。

「えっと、なんか……映画でも観る?」

 パソコンを引き寄せながら尚人は取り繕うように笑った。

 もちろん夜になればやることはひとつ。ただ、それまでにはまだしばらく時間をつぶさなければならない。若い未生が本心ではすぐにでもベッドに入りたいであろうことは考えるまでもないが、尚人は一応分別ある大人だ。

 先週だって、久しぶりだからとかなんとかいって夕方から明け方まで、意識が飛ぶほど長く深く交わったのだ。さすがに毎週ああいったことをするのは人としてどうかと思う。思い出すとそれだけで体が熱くなるような気がして、尚人は気をそらそうとブラウザを開く。クッションごと近づいてきた未生の体温を感じると胸が高鳴るが、必死で平静を保った。

「あ、これ」

 配信サイトのラインナップを目にするなり未生が子ども向けのアニメ映画を指す。

「え、観たいの?」

「いや、これの続編が今上映中らしくて。優馬が今度一緒に観に行こうって言ってたからさ」

 いくらなんでも自分たちが観るには幼すぎると驚いたが、そういうことならば納得がいく。最後に会って五ヶ月ほどが経とうとする笠井優馬の顔を思い出すと懐かしさがこみ上げた。

「未生くん、休み中に優馬くんのとこ行くの?」

「行かねえよ」

 尚人がたずねると未生は首を振って否定する。不仲の父の地元には意地でも行きたくないようだ。

「優馬が遊びに来るんだって。親父は反対してるけど、初めてひとりで新幹線乗って来て、俺のとこ泊まるって勝手にはしゃいでるみたい」

 呆れたような口ぶりではあるが、まんざらでないのは確認するまでもない。未生が半分血の繋がった弟のことをどれだけ大切に思っているかはわかっている。ある意味では傷ついてばかりだった少年時代の自身の分まで埋め合わせようとしているかのように未生はひたすら優馬に優しい。

 尚人はそんな未生を見ると微笑ましく思うと同時に少し寂しくも感じてしまう。もちろん決して悟られてはいけない気持ちなのだが。

「そっか、楽しみだね。優馬くん元気そうで良かった。僕も会いたいな」

「だったら会う? 優馬がいるときにうちに遊びに来ればいいじゃん。それか、俺があいつ連れてこっち来ようか?」

 未生の言葉に尚人はぎょっとした。優馬に会いたいというのは社交辞令などではない本心だが、だからといって三人で会うというのはあまりにリスクが大きすぎる。

「……いや、それはちょっと」

「勘づかれるかもって心配してる? 俺は別にいいけど。それに友達だってごまかしてもばれないって、あいつガキだから」

 本気なのか尚人を困らせるための冗談なのか、未生はそう言って笑う。しかし尚人は愛想笑いすらできなかった。

「良くないよ。今はごまかせたって……いつか本当のことに気づいたときに、君や僕に嘘を吐かれてたって傷つくだろうし」

 そんなことはしたくない。何より優馬が傷つくということは、未生が傷つくことと同義でもあるのだ。

 真顔で否定する尚人に、未生も笑って「わかったよ」とうなずく。それから耳元に唇を寄せた。

「でも、いつかは」

 それはもちろんそうだ。いつか――できることなら、そういう未来まで、未生と一緒にいられるのであれば。

 優馬についての話はひとまずそこで終わり、パソコンの画面に表示された映画の中から未生は一年ほど前に公開されたハリウッドのスーパーヒーロー映画を選んだ。ずっと観ていたシリーズだが受験勉強で忙しくなったせいで最新作を見逃していたのだという。尚人自身は積極的にその手のブロックバスターを観るわけではないが、若い生徒と触れ合う仕事柄知っていて損もない。

 いざ再生ボタンを押そうとしたところで、未生が尚人を制した。

「ちょっと待って。その前にトイレ行ってくる」

 ――思えばそれが運命の分かれ目だった。

「あれ、これ何?」

 トイレから戻って来た未生がふとサイドボードの上の封筒に目を留めた。ほんの少しのぞいている中身が目を引いたのかもしれない。透明のビニールに包まれた、白いレース。

「あっ、それは」

 制止しようと手を伸ばしたときには既に遅かった。未生は怪訝な顔をして封筒を手にすると、さらにはビニールの中身を取り出す。

 正直尚人も多少の興味はあったものの、恥ずかしさと罪悪感で触れることができないままでいたそれは――なかなかに可愛らしく、それ以上に煽情的な代物だった。目一杯広げても手のひらほどの大きさしかない純白の総レース――男性用下着であればぐるりとゴムがめぐらされている部分にはリボンのような紐のようなものが使われていて、下着の前身ごろと後ろ身ごろを繋いでいる。

「何で尚人が紐パン持ってんの」

 左右の手で広げて女性用下着を掲げ持つ未生。その光景を目にするだけで尚人は恥ずかしくてたまらないが、当の未生は余裕綽々だ。未生だって尚人と同様、姉妹はいないのはずなのだが――こういうところに女性経験の豊富さがにじみ出るものなのだろうか。いや、問題はそういうことではなく。

「いやそれは……前に住んでいた人に当たった懸賞みたいなものが誤配送されて……」

 しどろもどろになりながら、尚人は何とか事の経緯を説明する。頭の中は「すぐに廃棄しておくんだった」という後悔でいっぱいだ。

「……で、返送しなくていいから廃棄してくださいって言われたんだけど、ばたばたしていてそのままに」

 いやらしい目的で好き好んで手元に残していたのだと思われては堪らない。顔を赤くして背中に汗をかきながら、尚人は必死で弁明した。

 しかし未生にとってこの小さな布切れの入手経緯というのはどうでもよいことだったらしい。「返送しなくていい」という言葉を聞いた彼の耳がぴくりと動いた気がしたのは勘違いではないはずだ。というのも、次の瞬間、未生は満面の笑みを浮かべてその小さな布切れを尚人に差し出してきたからだ。

「尚人、ちょっと履いてみてよ」

「は?」

 尚人の頭は真っ白になった。だが未生は笑顔を崩さず繰り返す。

「だって、返さなくていいってことは、くれたってことだろ? ちょっと履いてみてよ」

「……廃棄してって言われたんだよ」

「だから、廃棄する前にちょっと履いてみたって同じことじゃん」

 そういうことにはならないと思う。いや、なるのか? 未生があまりに自信たっぷりなので尚人はだんだん自分の常識に自信が持てなくなってきた。とはいえ、そもそも目の前にあるのはどう考えても男が身にまとうためのものではない。可愛らしいデザインが不似合いとかそういった話以前に、骨格や身体構造が異なっているのだ。

「入らないよ、そんな小さいの」

受 け取ることを拒否して後ずさりする尚人に向かって、未生は手の中の下着を左右に引っ張って伸縮性をアピールする。

「大丈夫だって、けっこう伸びるし左右は紐で調整できるから。入んなきゃそのときだし、ちょっと試してみるくらいいいじゃん」

 なぜそこまで未生がそれを尚人に履かせることにこだわるのかさっぱり理解できない。女物の下着を後生大事に持ち続ける変態と思われる方が、女物の下着を身に着ける変態になるよりはまだ矜持が保たれるような気がして尚人はただ首を振り続けた。

 だが未生だって尚人の弱みは知り尽くしている。最終的には拗ねたようにため息を吐いて、こう言った。

「なんで谷口が買ってきたパンツは履くのに、俺が頼んだやつは履いてくれないの?」

 尚人は言葉を失った。


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