いつもより長い入浴を終えて、脱衣所に立った尚人は改めて例のものと対峙する。
前身ごろは薄いとはいえ一応は透けない布地でできているようだが、尻側を覆う部分は穴だらけのレース。こんな儚い布切れで下着本来の機能を果たすのかも怪しく思える。下手に触ると破ってしまいそうで触れることすら怖いくらいだ。女性というのは皆が皆こんなものを着用しているものなのだろうか。
罪悪感につけ込んでまで未生は尚人にこれを履かせたがった。尚人からすればアブノーマルなプレイとしか思えないが、未生にそういった嗜好があるのか、それとも毎度の栄への対抗心ゆえなのかはよくわからない。
それでも尚人にとって女性用下着を身につけるなどというのは到底受け入れがたい要望で、「絶対に嫌だ」と断言して未生の手からむしりとったそれを奪い返されないようポケットに入れて――入浴のため服を脱いだときに存在を思い出したのだった。
未生はと言えば、「ケチ!」と幼稚な言葉で尚人を責めはしたものの深追いはしてこなかった。尚人の気持ちを尊重しようという努力の表れなのか、それとも拗ねてあきらめただけなのか。どことなく気まずいまま映画を見て、買い物に出かけて夕食をとった。
一緒に過ごすときは自炊をすることが多い。尚人としては外食時に全額払うことに抵抗はないのだが、未生はどうしても割り勘でないと気が済まない。そうなると、学費と生活費を稼ぐために日々アルバイトに勤しんでいる未生の懐具合が気にかかり、だったら家で食べたほうが気が楽だということになる。
未生はそつなく家事全般をこなし、料理だって尚人より上手いくらいだ。栄も料理は上手かったが、どちらかといえば素材にこだわった非日常の「男の料理」を作ることを好む。一方の未生は顆粒だしや市販の合わせ調味料なども気にせず使い、尚人の実家でも出てきたような、ごく普通の家庭料理をさらりと作る。飲食のバイト長いから――本人はそう言うが、満足な金も置かず母が留守がちだった少年時代をサバイブするために止むを得ず未生が家事を身につけたのだろうことは想像に難くない。
そういえば栄がいない大晦日に未生に呼び出されて家に行ったとき、慣れた手つきで朝食の準備をする未生を意外だと思った。あの頃はまだ未生の背負っているものを知らず、多少複雑な家庭環境ではあるものの、ただの甘えたわがままな青年だとばかり思っていたのだ。思い出して、少し申し訳ない気持ちになる。
ともかく夕食を終え、夏の長い日も落ちた。
尚人は未生に風呂の順番を譲った。事後の甘い雰囲気のままに一緒に汗を流すことはあるが、冷静な状態で未生と風呂に入るというのは尚人にとってまだまだハードルが高い。
同様にセックスの前の雰囲気にもいまだに慣れない。自分が先に風呂に入ればどんな顔でどこに座って待てば良いのか悩むし、今のように後から入れば、服はどこまで着込むべきかどのタイミングで出ていくべきか――諸々、とにかく考えすぎてしまう癖はなかなか治りそうになかった。
加えて、今は目の前に大問題が鎮座している。
未生もあれ以上なにも言わないのだからいいじゃないかという気持ちもある。一方で、先週からわだかまっている罪悪感もあり――これ一回で少しでも心の重荷を下ろすことができるならば。尚人はじっと頼りない布切れを見つめ、覚悟を決めた。
*
「どうしたの、長風呂だったけど」
「いや、何でもないよ」
尚人の緊張感とは対照的に、ベッドで寝転がってスマートフォンを眺めている未生は完全にくつろいでいる。性格の違いなのか慣れの差なのか、羨ましいような気もするけれど、きっと尚人は永遠にあんなふうにはなれない。
下肢が普段と異なると思えばいつも以上に落ち着かなくて、尚人は肌に触れるレースのくすぐったさから逃れるように左右の膝を寄せた。普段のボクサーショーツは適度なフィット感で尻や股間を包んでくれるが、今身につけているものは安心とは程遠い。それどころかもしかしたら裸より心許ないのではないだろうか。
「どうせ終わったらまたシャワー浴びるのに、そんな念入りに風呂入らなくたってさ」
何も気づいていない未生は極めて呑気で、尚人の手を取ると待ちきれないとばかりにベッドに引っ張った。
そこで急に恥ずかしさがこみ上げた。やっぱりだめだ。この状態では、絶対に。
「ま、待って! やっぱりもうちょっと髪乾かしてからっ」
尚人は未生の手を振り払い洗面所へ引き返そうとする。今ならまだ間に合う。なにもなかったふりで「あれ」を脱いでしまえば未生はなにも気づかないまま、普段どおりの夜に戻ることができる。
だが未生は尚人の髪をくしゃくしゃと撫でて首をかしげた。
「別に濡れてねーじゃん」
「いや、ちょっとまだ根元が湿った感じが……」
引き止める恋人を何とか振り払おうとするが、尚人の強情な態度はむしろ未生に違和感を抱かせたようだ。
「尚人、何焦ってるの?」
「なんでもないって。十分、五分待ってて。すぐ戻るからっ」
必死で逃げようとする尚人。引き止める未生の手がスウェットに触れ、腰のあたりをむんずと掴む。勢い、腰の部分がずるりと下がってそこからは――可憐な白いリボンが姿を現した。
「あ」
「尚人、これって……」
きょとんとした未生から何とかそれを隠そうと、尚人は全力でスウェットを引き上げた。とんでもないものを見られてしまったという恥ずかしさで、ほとんど正気すら失っていたかもしれない。すでに決定的証拠を押さえられているにも関わらず、まだどうにかして逃げ切れるのではないかと必死の抵抗を試みる。
「な、何でもないって! だからちょっと待ってて」
しかし、こんなことでごまかされる未生ではない。二人はその場でスウェットを上に下にと引っぱりあい、最終的には尚人が力で負ける。
「やだ、やだって!」
抵抗むなしくずるりと腿まで下がったスウェット。そして白いレースの下着を身につけた不恰好な下肢が露わになった。
「……すげえ」
語彙力ゼロの未生は、ただ目を丸くして尚人の下半身に釘付けになっている。尚人はといえば恥ずかしくて情けなくて、どうしてこんなことをしてしまったのかと後悔するがいまさらどうすることもできない。
「ほら、変だろ。だからやだって言ったんだ」
そう喚きながら何か体を隠すものがないかとタオルケットを手繰り寄せる手も未生に阻まれた。笑い出すか、からかわれるか、身を固くして次の展開を待つが、尚人の耳に飛び込んできたのは意外な言葉だった。
「……すっげえ興奮する」
「は?」
予想外の反応に尚人は動きを止める。
「やべえよ。むっちゃいい」
それが冗談でもお世辞でもない証拠に、未生の目はすでに欲情で爛々と輝いている。
「……僕は君がそんな嗜好の持ち主だとは気づかなかったよ」
やや引き気味な尚人の腕を再度未生が引く。促されるままにベッドに乗ると、未生は器用に尚人の両脚からスウェットを抜き去った。
柔らかな女性のラインとはまったく違う、筋張った足腰。そこに白いフリルとレースとリボン――尚人からすれば興奮どころか違和感しかない。未生がよっぽど変わった趣味の持ち主なのか、それとも本当はこういう下着が似合う女の子がいいということなのか。
だが、未生は尚人の足首を引っ張り、くるぶしに口付ける。
「いや、さすがに毎度とは言わないけど、なんていうか非日常の魅力? 尚人がすっげえ恥ずかしそうに履いてるのもいい」
「でもそれってやっぱり、ちょっと変態じみてると思う」
そう言ってため息を吐きながらも近づいてくる体温とまとわりつく視線に尚人の熱もじわじわと高まりはじめる。だが、それはそれで問題があるのだ。薄々気づいていた違和感は危機感に育ちつつある。むずむずする腰を抑えながら尚人は未生に訴えた。
「じゃあ、もういいだろ。脱ぐから」
これを履いてくれという未生の要望には応えた。もう十分なはずだ。だが未生はさも意外そうに聞き返してくる。
「え? せっかく履いたのになんで? もったいない」
尚人からすれば一体何が「もったいない」のかわからない。それに、このままだと。こんなふうに熱い眼差しを向けられて体に触れられると――変な気になってしまう。そうしたら。
「いや、変だってこのままじゃ。そういうふうにできてないんだから」
尚人は必死に訴えた。