頬を撫でる風は生ぬるい。つい最近まで厚いコートを着て寒風に震えていたのが嘘のようにここ数日で急に冬の寒さがゆるんできたようだ。
「ねえ未生くん、知ってる? 東京は昨日春一番が吹いたんだって」
並んで歩く優馬が誇らしげに言う。前に会ったときからいくらか背が伸びただろうか。同じ家に暮らしていた頃には歳の離れた弟の成長を意識することは少なかったが、年に数度しか顔を合わせなくなると、見るたび成長の速さに驚かされる。こんなことを感じるのも自分が年をとったからかもしれない――などと言ったら尚人は「君だって若いのに」と笑うだろうか。
「優馬は春一番って何か知ってるのか?」
「知ってるよそのくらい、馬鹿にしないでよ」
「してねえよ。優馬の方が俺より賢いもん」
「そういうのが馬鹿にしてるっぽいんだよ。僕だって来月には六年生なんだからさ」
ぶつくさと大人ぶったことを言いながらも優馬の表情は明るい。
ときは三月上旬。未生は大学生の特権である長い春休みの最中。優馬の学校はまだ休みに入っていないが、未生の時間に余裕があるうちにというわけで土日を利用して両親と暮らすN県から泊まりがけで遊びにきている。
こうして慕ってくれるのも、あと何年だろう……頭をよぎる思いを振り払う。弱気はいけない。
一年前までは弟が成長すれば、兄がどれほど不出来な人間かに気付いて失望するに違いないと決めつけていた未生だが、最近はいくらか気持ちを改めた。
相変わらず自分は未熟だ。落ち着いて分別のついた年上の恋人と一緒にいるととりわけそう感じることは多い。でも、未生は未生なりに成長したいと願って、変わろうと努力してきた。猛勉強の結果国立大学に合格したし、一度はあきらめた相手への思いも実らせたことは未生にいくばくかの自信を与えた。だから、このまま前を向いて進んでいけば優馬の兄として、誇れるとまでは言えなくとも見下されないくらいにはなれるのかもしれない。いや、なりたい。
「……どうしたの未生くん」
「え?」
「なんか、ぼんやりしちゃって」
勝手に物思いにふけっていたことを指摘されてあわてて顔をあげて、未生は笑顔を作った。
電車が好きな優馬は以前一緒に訪れた大宮の鉄道博物館をいたく気に入っていた。とはいえせっかく東京まで来てくれたというのに何度も同じ場所に連れて行くわけにもいかないので、冬休みには行列に並んで国立博物館で大恐竜展を見た。そして今日は葛西にある地下鉄博物館に行ってきたところだ。
「楽しかったなあ。カレーも美味しかったし、いろんな地下鉄見られたし」
未生自身は電車になど一切興味はないが、可愛い弟の満足そうな表情を見るとそれだけで嬉しくなる。と同時に、行き先に悩む未生にアドバイスをくれた尚人に心の中で礼を言う。いや、今夜にでも電話で直接感謝を伝えるし、次回会ったときにしっかり「体のご奉仕」でも礼はするつもりだが。
葛西にはインド系の外国人が多く住んでおり、本格的なカレーショップが多いという情報を教えてくれたのも尚人で、優馬は驚くほど長くチーズが伸びるチーズクルチャや、高い場所から滝のように注がれる甘く濃厚なチャイに目を丸くして舌鼓を打った。おかげで未生は兄としての面目を保てた。
「優馬は、他にどっか行きたいところあるか?」
腕時計を見ると、夕方四時過ぎ。まだ空は明るく、いつの間にか冬が終わっていることを改めて思い知る。
博物館で買ってやった地下鉄グッズの入った袋を大事に抱えた優馬は首を左右に振った。
「ううん、もう十分。それより未生くんは行きたいとこないの? 僕の好きなとこばっかりじゃ退屈なんじゃないの」
こういう「子どもらしくない」気の遣い方が、いかにも「優馬らしい」。弟らしいわがままを通せばいいのに、未生が無理して時間を作って、無理して彼の趣味に合わせているのではないかと気にしているのだ。行き先もやることも関係なしに、未生はただ弟と過ごすだけで楽しいのだが、そういうおっさんくさい喜びを知るには優馬はまだ幼すぎる。
「全然。むっちゃ面白かったって」
「本当?」
まだ不安そうな優馬につけこむわけではないが、未生は密かに温めていた計画を口にする。
「本当本当。でもさ、もし優馬がまだあんまり疲れてないなら、夕飯の前にひとつ付き合ってもらっていい?」
「いいよ! 何!?」
ぱっと優馬の顔が明るくなる。子どものくせに妙にものわかりがよく大人びたところのある優馬には、ちょっとくらい未生もわがままを言ったほうがいいのだ。それに――実のところ今日の未生は本心から優馬の助けを必要としている。
というのも。
「ちょっと、誕生日プレゼントを選ぶの手伝って欲しくて」
未生の言葉に、優馬が目を丸くする。
「僕が手伝うの? 僕、大人のプレゼントなんかわかんないよ」
キラキラ光るどんぐり眼には、兄に頼られて嬉しいという気持ちと、大人のプレゼント選びを手伝うという予想外の任務への不安が入り交じっている。
「いいんだって、俺は優馬の手助けが必要なの」
「それってもしかして、パパかママへのプレゼント? ……でもパパの誕生日はとっくに終わってるし、ママの誕生日はもっと先だよ」
兄があえて自分を頼ってくる理由を考えて、思い当たるのは「両親」だけだったのだろう。真面目くさった顔で優馬はそう言うが、もちろん未生の頭にあるのはそのどちらでもない。
「どっちでもねえよ」
世話になっている真希絵には花かハンカチくらいは贈ったっていいが、あの父親の誕生日など未来永劫祝ってやるつもりなどない。いや、今直面しているのはそういう問題ではなくて――。
「じゃあ、誰?」
優馬にじっと見つめられて、未生は言いよどむ。
相良先生だよ……と正直に言えればいいのだが、自分と尚人が誕生日を祝うほど親しい関係だと告げることには抵抗がある。「なぜ」と問われた場合に多感な思春期の入り口にいる子どもに男同士の自分たちが「恋人」だと言えるはずはない。いや、このままずっと尚人と生きていくならばどこかの段階で優馬にも真実を知らせなければいけないとはわかっている。ただそれは今ではない。
「……おまえの知らない人」
「だったら、どうして僕が一緒に選ぶの?」
こういうとき弟の賢さがちょっとだけ憎い。少し悩んで、未生は言った。
「えっと、それは……その人が俺よりは優馬と似てるから。おまえの方が良いもの選べるかなって」
嘘ではない。優しくて賢くて思慮深く、万事控えめな尚人は未生よりは優馬と似ていて、だからこそ優馬は尚人になついていた。
それに――。
実のところ未生は、柄にもなく尚人へのプレゼントを自分ひとりで選ぶことを怖がっているのだった。
昨年十一月の未生の誕生日に、尚人は通学用のバッグを贈ってくれた。
真面目すぎる性格と自信なさげな態度のせいで垢抜けない印象のある尚人だが、身につけるもののセンス自体は悪くない。そのセンス自体が谷口栄に仕込まれたものだと思うと面白くはないが、そもそも自分が惚れたのが栄との日々を経た尚人であるのだと思えば否定することもできない。
複雑な思いで受け取ったバッグは見た目も使い心地も良く、今もおおいに未生の大学生活を助けてくれている。
そして、来週には恋人になって初めての尚人の誕生日。
問い詰めても決して口を割らないが、憎き谷口が毎年尚人の誕生日には、金と育ちの良さにものを言わせたプレゼントをしていたのは疑うべくもない。すると――苦学生の未生などにどう考えたところで勝ち目はないのだ。ともなれば、卑怯ではあるが「純粋な弟」を使うしかない。
尚人はかつて家庭教師をしていた優馬のことを可愛がっていて、今も常に気にかけている。ということはつまり、たとえセンス品質ともに谷口に劣るにしても、未生が贈るプレゼントが「優馬も一緒に選んだもの」であれば、尚人は絶対に感激するし、満足するに決まっている。それが未生の計算だった。
だが、未生の計算をよそに優馬は怪訝な顔をする。
「え? それって、僕みたいな子どものお誕生日だってこと?」
「いや……違う」
意外な反応だった。てっきり「大好きな未生くん」に頼られたことに舞い上がって素直にプレゼント選びを手伝ってくれると思ったのに、優馬は詳細を突っ込んでくる。
「大人へのプレゼント?」
「……うん」
柄にもなく歯切れ悪い返事、しかも視線をそらす未生をしばらくじっと見つめてから、優馬は言う。
「もしかしてそれ、未生くんの好きな人なんじゃない?」
「えっ!?」
色恋の概念などないと思っていた弟からの意外な突っ込みに、未生は完全に言葉を失った。どうやら未生が知らないうちに優馬は体だけでなく情操の面でも成長していたようだ。思えば優馬ももう十一歳、好きな子のひとりやふたりいたところで不思議はないのだ。
「……ああ、まあ、そんなもんかな」
仕方なしに未生は優馬の指摘を認めた。さすがに相手が優馬もよく知る相良先生だとカミングアウトするつもりはないが、完全な言い逃れは難しそうだ。
だが、未生の逡巡になど素知らぬ顔で優馬は言う。
「だったら、未生くん自分で選ばなきゃ駄目だよ」
「は?」
「だって、ホワイトデーのプレゼント選びに行ったときにママが言ってたもん。義理はともかく、本命の子へのプレゼントだけはちゃんと自分で選んだ方がいいんだって」
その言葉はぐっさりと未生の胸に刺さった。
小学生如きに――いや、そもそもその言葉を発したのは真希絵なのだが――説教されてしまうとは。そして何より、「万が一喜んでもらえなかった場合に、自分が選んだものではないから」と言い訳しようとした浅はかさを指摘されたことが恥ずかしい。
可愛い可愛い弟に「ホワイトデーにお返しをする本命の相手」がいることに思い当たりショックを受けるのはもう少し先のこと。ひとまず未生は頭を垂れて、恋人へのプレゼントはやはり自力で選ぼうと決心するのだった。