「……は?」
一応は大人らしく、不愉快と不機嫌をギリギリまで押さえ込んだ態度を維持していた谷口栄の仮面に大きな亀裂が入る。
そのまま羽多野の胸ぐらをつかんだっておかしくないくらいの迫力を感じさせるひと言と、冷たい視線。だがそれも一瞬のことで、いくら人通りの少ない裏通りとはいえ、銀座の路上で凶悪な本性を明かすことを躊躇したのか、栄はなんとか踏みとどまった――ように見えた。
代わりに一歩踏み出して、尚人に向かって身を乗り出す。
「でも、俺がいるんじゃ、せっかくのデートの邪魔になるだろうし。なあ、ナオ?」
この男、どうやら羽多野の申し出を却下するために体よく尚人を使おうとしているらしい。
「え? いや、その……」
突然話を振られた尚人は目を白黒させて、助けを求めるようにちらりと未生を見た。
尚人は羽多野とはほとんど面識がない。つまり、飄々とした雰囲気を持つ年上の男は、尚人にとってはあくまで「不祥事の責任を押しつけられた、未生の父親の元秘書」で「栄の仕事上の知り合い」に過ぎないのだ。
長い交際期間、尚人は栄の家族にも、友人や同僚にもほとんど会わなかったと言っていた。世間体を気にするエリートが同性の恋人をひた隠していたのは自然なことで、だからこそ尚人にとってはなぜ羽多野という「他人」の面前で、栄が過去の自分たちの三角関係を匂わせるのかが理解できないのだ。
一方の未生は、おぼろげながらも事態を把握している。羽多野は自分たちの過去を知っているし、それを明かしたのは他の誰でもない谷口栄。だからこそ、動揺した栄は尚人の前でも当たり前のように三人の禍根を前提にした台詞を口にしてしまったのだ。
視線を下に向けると、これ以上余計なことを言うなとばかりに栄の高級な革靴が、同じくらい高そうな靴を履いた羽多野の足を踏みつけていた。
「あー……えっと」
救いを求める尚人の視線に負けて、未生は口を開く。
さて、どう答えるべきか。
もちろん未生は、谷口栄と同じ空間で食事などしたくない。普通に考えれば栄に同調すべきだし、多分尚人だってそれを望んでいる。
意思決定が未生に委ねられていると気づいた栄もまた、視線で強烈なプレッシャーをかけてくる。お互いのため俺に同意しろ、無駄に偉そうな声が脳内に響いてくるようだった。
確かに栄の考えは正しい。不倶戴天の敵である自分たちだが、今だけは完全に利害が一致している。だが悲しいことに、栄の言い分が正しければ正しいほど、未生の中には「谷口栄の思い通りにさせたくない」という子どもっぽい意地が湧き上がってくるのだ。
栄がこんなにも動揺しているのはつまり、それなりの理由があるからだ。羽多野がなぜわざわざ四人で過ごす時間を作ろうとしているのか。栄がなぜこんなにも立ち去りたがっているのか。
導かれる答えはひとつ――彼らは「そういう関係」にある。そして栄は、羽多野との関係を尚人に隠そうとしている。
未生の頭にふと不穏な考えがよぎる。確かに羽多野のような得体の知れない男を選ぶのはお世辞にも趣味が良いとはいえないが、だからといってわざわざ隠す必要があるだろうか。
もしや、栄は尚人に気持ちを残しているのではないか。隙あらば未生から奪い返そうという下心を持っているのだとすれば、冗談ではない。
そこまで考えたところで未生は、尚人からの助けを求める視線と、栄からの刺々しい視線の他に、もうひとつの視線にこちらを向いていることに気づいた。
なんと羽多野もまた、未生を見ていた。こちらはまるで、いたずらに誘うような視線。海千山千の元議員秘書は、谷口栄に思いきり足を踏みつけられながらも、一切気にする様子はない。
羽多野は一筋縄ではいかない男だ。彼が四人での食事を望むにはそれなりの理由があるに決まっていて、栄がそれを拒もうと必死になっているのは、きっと彼らの利益が相反しているからだ。
新しい恋愛関係を見せびらかしたい羽多野と、それを嫌がる栄。この考えが正しいのだとすれば、四人での食事は未生にとっても決して悪い話ではない。
羽多野が彼らの関係をはっきりと明かしてくれるのなら。いや、明言まではせずとも、尚人が、谷口栄に新しい恋人ができたと察するならば、それは未生が抱え続ける不安のひとつを軽くするだろう。
それに、未生にはかつて六本木の喫茶店で谷口栄に言い負かされ、逃げ出した敗北の記憶がある。あのときの悔しさを思い起こせば、みっともなく動揺した栄の姿を見るのは痛快だ。
調子に乗るのは悪い癖。だが、過去の雪辱を果たす貴重なチャンスに乗らない手はない。
「俺は気にしない。偶然予約がかぶったんだから、仕方ないだろ」
未生がうっかり口にした返事に、反応は三者三様だった。
満足げな羽多野。驚きと戸惑いを隠せない尚人。そして――栄の視線には明確な殺意。
栄にとっては間の悪いことに、予約の時間になっても現れない客を気にしてか、ちょうどレストランの扉が開きスタッフが顔を出す。
「あ、お久しぶりです谷口さん。お待ちしておりました……あれ? ご予約はたしかお二人で……」
どうやらそのスタッフと栄は顔見知りのようで、こうなっては後には引けない。四人の男を不思議そうに見回す視線に、観念したように引きつった笑みを浮かべた。
「ああ、偶然ここで会ったんだ。ちょっとした知り合いなんだけど、彼らもちょうどランチの予約をしていたみたいで」
未生も、そして尚人もぎこちない笑顔で会釈した。
さあどうぞ、と促されて店内に入ろうとするとき、ふっと栄が未生の横に並ぶ。そして前を行く尚人には聞こえないよう低く小さな声で囁いた。
「空気読めよクソガキ、調子乗るんじゃないぞ」
これぞまさしく、未生の知る谷口栄だ。