開店直後の高級イタリアンのレストルームがいかにピカピカに掃除されているとはいえ、トイレはトイレである。そんな場所に逃げ込んだことに自己嫌悪しつつも、やっとあの厄介な面々の視線から逃れられたと思うだけで、栄は息をつくことができた。
――と同時に、湧き上がるのは後悔だ。
なぜ未生が「デート」と言ったときに、さらりと受け流すことができなかったのだろう。イエスともノーとも明言せず大人の余裕を見せることはできたはずだ。
栄の自尊心はそれで保たれるし、尚人や未生が内心で「イエス」の意味だと受け取るのなら、それはそれで構わない。というかむしろ、曖昧なまま詳細を問われることもなく自分と羽多野との関係が彼らの中で既成事実化するのは、落としどころとしては最適だったのではないか。
頭を冷やしながら考えれば考えるほど、自分の判断が誤っていたようでたまらない気分になってくる。
「……何に意固地になってるんだろうな、俺は」
ぽつりと、鏡の中の自分に向けてつぶやく。
ここ一週間、毎日毎食の美食三昧で、少し頬がふっくらしただろうか。いや、体重の変化が顔に出るタイプではないから、きっと気のせいだ。そこにいるのはいつもどおり、髪も服もきっちり決まったいい男。……ただし、みっともない動揺が顔にまで出ているだけで。
仕事に関する利害関係がなく、栄が同性愛者であることも知っている彼らに、自分が羽多野と付き合っていると思われた場合に生じるデメリットとは何か。気を落ち着けるために改めて栄は考えてみる。
まず、男の趣味が悪いと思われる。これは大きな問題だ。未生あたりは「尚人を寝取られたせいでおかしくなった」と、内心で栄をせせら笑うかもしれない。もしくは、すでに笑っているのかも。
いやいや、待て。とはいえ羽多野だって、元悪徳議員秘書かつパワハラくそ野郎であることを除けば、そこまで悪い男ではない。しゅっと背が高く見栄えは良いし、頭だって悪くない。というか、いわゆる高学歴ハイキャリアの部類に入る。栄にとってはそういう部分もまた腹立たしいのだが、一般的には恋人として隣に立たせるには悪くない人間だろう。
栄の頭の中で羽多野の良い面と悪い面、羽多野との関係を知られることのメリットとデメリットがめまぐるしく現れては消える。
そして、最後の最後に出てきたのは、実に下世話な発想だった。
――羽多野と付き合っていると知られたら、自分が「抱かれる側」に回っていることを勘づかれてしまうかもしれない。
羽多野という男と肌を触れ合わせるようになり、惹かれるようになった頃、栄にとってそれはひどく大きな問題だった。
だが、それも時の流れとともにある程度は解決した。栄は羽多野を抱きたいと思ったことは一度だってないし、抱かれること自体が嫌なわけではない。受け身でのセックスで快感を得ることに慣れた今では、羽多野と自分二人にとっては、これが自然なのだと受け入れてもいる。
ただし、「栄と羽多野」の関係のなかで受け入れることと、「第三者」にそれを知られることの間には大きな違いがある。
自分という人間が、男に組み敷かれて挿入されていいように喘がされているだなんて――この世の誰にも知られたくない。三十年以上にわたって作り上げてきた「谷口栄」という人間像に「羽多野みたいな男に夜な夜な……というほどの頻度ではないが、ともかく抱かれている」というイメージが加わることを想像すると、それだけで舌を噛み切って死にたくなるのだ。
しかも、尚人は栄にとって、羽多野以外で唯一肌を重ねた経験のある相手だ。しかも栄が「抱く側」として。その尚人に、今は栄が男に抱かれていると勘づかれることには耐えがたい苦痛が伴う。
悶々と嫌な想像ばかりたくましくしていると、気分が悪くなってきた。さっきはマナーがどうこうと水を頼む未生を馬鹿にしたが、虚勢を張ってワインなど頼むんじゃなかった。洗面台の余白に手をついて、うつむいたまま栄はもう一度大きなため息を吐いた。
どんどんテーブルに戻りたくない気持ちが大きくなり、いっそこのままひとり店を出て行こうかと考える。そのとき背後で小さくドアがきしむ音がした。
てっきり羽多野が自分を追ってきたのだと思った栄は、鏡で相手の顔を確かめることもしないまま声を上げる。
「放っておいてください!」
沈黙。それから小さな声で「ごめん」と尚人の声が聞こえた。
「尚人!?」
はっと顔を上げて振り向いた栄は、そこに尚人の姿を見つけてぎょっとした。未生の手前、まさか尚人が栄を追ってくるとは思わなかった。慌てて「よそ行き」の顔を作る。
「わ、悪い……勘違いした」
誰と勘違いしたかは言うまでもない。つまり羽多野に対して栄は「そういう態度」をとっていることを、自ら白状してしまったことになる。
今の栄は羽多野相手には怒りっぽい本性を丸出しにして、尚人相手には本心を隠して場を取り繕うことを選ぶ。その距離感が何を意味するかは言うまでもない。激しく動揺しながら栄は、尚人が本当に自分にとっては「外側」の人間になってしまったこと、そして今「内側」にいるのが誰なのかを心底思い知った。
何を勘違いしたかを問うことはせず、尚人は心配そうに栄に歩み寄った。
「それより大丈夫? 具合でも悪いのかと思って」
近づきすぎないように一歩後ずさって、栄は首を振った。
「いや、何でもない。ちょっと時差ぼけが治りきってないだけ」