「時差ぼけか。そっか、遠くから来たんだもんね。時差何時間だっけ?」
「今は夏時間だから、八時間かな」
日本に降り立って約一週間。時差ぼけはすでに解消しているどころか、ロンドンに戻ったときのラグを気にしはじめているくらいだが、尚人は栄の言い訳を疑う素振りなしに受け入れた。
まさか自分が男に抱かれていることに勘づかれたのではないかと鬱々としていたなどとは言えるはずがない。ポーズか本気かはわからないが、とりあえずは尚人の単純さに感謝しておくことにする。
心を落ち着けて、改めて尚人に視線をやる。
特に大きな変化はない。太りも痩せもしていないし、髪型も、服装も。一緒に暮らすマンションを出て行ったあの日から、外見に限った話をするならば尚人は不思議なくらい変わっていない。なのに、なぜだろう。目の前に経つ彼のたたずまいは栄と一緒にいた頃とは別人のように落ち着いて、自信にあふれている。きっと未生との関係だけでなく仕事も順調なのだろう。聞かなくたってわかる。
「本当に、久しぶりすぎて……声かけるまで気づかなかった」
羽多野との会話に夢中で注意散漫だったのは事実だが、尚人の雰囲気の変化もこの悲劇の原因の一端を担っているに違いない。栄が苦笑すると、尚人も困ったように笑う。
「こっちこそ、ごめん。まさか予約がぶつかるなんて思わなかったんだ」
遠慮がちなふたつの笑い声が重なり、ようやく視線を合わせたところで二人は同時に吹き出した。
「俺、思わず硬直した」
「僕だって、頭が真っ白になったよ」
あまりの緊張感と疑心暗鬼にこれまで笑う余裕もなかったが、久しぶりに帰国して足を運んだレストランで元恋人と鉢合わせだなんて、まるでブラックコメディだ。
ろくでもないことを考えているに違いない羽多野も、栄の失態を待ち望んでいるであろう未生もいない空間で尚人と笑い合って、栄はようやく呼吸を取り戻したような気がした。
あんなに長い時間を過ごしたのに、ぷつりと関係は切れて、その後は何度かの文字でのやり取りくらい。――そういえば、突然目の前から消えた羽多野を捜し回っていたときは、なりふり構わず尚人にも連絡をとったんだっけ。あのときも、意外と普通に話ができることに驚いたが、それでも電話越しの会話と対面とは大きな違いがある。自分と尚人はもう一生顔を合わせることはないかもしれないと思っていた。
だけど、偶然にも再会した今、自分たちはぎこちないながらも笑って話をすることができている。
ひとしきり笑ってから、栄は尚人の背後で閉じたままの扉に視線をやる。
「でも、いいのか? こんな」
「どうかした?」
つられて後ろを振り返った尚人は不思議そうに首をかしげる。相変わらずこの調子だから、笠井未生も尚人にはずいぶん振り回されているかもしれない。だとしたって自業自得だ。
「ナオが俺を追うなんてさ。あいつ、血相変えて飛んでくるんじゃないかと思って」
そうじゃなければ、ドアの向こう側で聞き耳立てているとか。
あながち冗談でもない。栄にとっての未生が、尚人を寝取った敵であるならば、未生にとって栄は恋人の元彼――しかも、彼らが知り合ってからの期間よりずっとずっと長い時間を過ごした。
逆の立場なら栄は平常心ではいられないだろう。でも、やっぱり追いかけはしないかもしれない。元彼とちょっと二人になるくらいのことに目くじらを立てるなんて、きっと栄のプライドが許さない。
もし未生が今、尚人を追うことを堪えているのだとすれば、理由は果たしてなんだろうか。大人の余裕を気取ったやせ我慢か、それとも尚人への信頼ゆえか。
「そんなこと、しそうに見える?」
尚人の返事も「するはずない」と「やりかねない」のどちらとも言えない、思わせぶりなものだった。
「見た目はちょっとは落ち着いたけど、まだまだガキに見えるよ。ちょっとからかったくらいでむきになるし」
「それは、栄が意地悪言うから。彼はお酒は飲まないんだ、ご家族のことで辛い思いをしたから」
「ああ……」
尚人は決して栄を責める風ではなかったが、栄ははっとする。
笠井未生の実母が精神の病やアルコール依存の果てに若くして死んだことを、栄はすっかり忘れていた。いや、週刊誌の記事で見かけたそれが事実かどうかすら、栄は知らなかった。
さすがにいくらか申し訳ない気分にはなるが、意地が悪いのはお互い様だ。なんせ未生だって栄が狼狽する姿を楽しみに同じテーブルについたのだ。
気まずそうに視線をそらす栄に、尚人は言う。
「でもさ、驚きはしたけど、僕は会えて良かったとも思ってるんだ。だから、あんまり怒らないでね」
栄の不機嫌は、とっくの昔にばれている。尚人は最初から、謝るつもりで追ってきたのだろうか。思わず怒鳴りつけてしまったことを思い出して栄は気まずく頭に手をやる。
「さっきのは……悪かったって。あれはナオに言ったわけじゃなくて」
わかってる、と尚人がつぶやく。
「びっくりしたけど、ちょっと安心したかな。栄がああいう口きく相手がいるってわかったから」
栄は思わず視線を泳がせた。
やはり、気づかれていた。最初からなのか、栄の乱暴な言葉がきっかけだったのかはわからない。いずれにせよ、栄が厄介な本性を見せる相手が極めて限られていることを知っている尚人が、羽多野が「ただの知人」ではないと察するのはあまりに当然のことだった。むしろ未生も羽多野もいない場所でそっと伝えてきた配慮には、感謝すべきなのかもしれない。
どう答えるべきか少し迷って、栄は言った。
「そんなの、褒められたもんじゃない。ナオだっていつも俺の機嫌で振り回されてうんざりだっただろ」
うんざり、という言葉は決して否定しないままに尚人は笑う。
「でも、栄は自分をさらけ出すのが苦手だからね。確かに僕は十分に受け止めきれなかったけど、あの人は栄が怒った顔してるのに、なんだか楽しそうだったよ」
テーブルでの無言の攻防も、もしかしたらテーブルの下でさんざん羽多野の足を踏んだり蹴ったりしていたことすら気づかれていたのかもしれない。あまりの照れくささに、栄は乱暴に吐き捨てることしかできなかった。
「おかしいんだよ、あいつは」