未生がミニスカナースのコスプレをする話(4)

 大歓迎されるとは思っていなかった。むしろその逆で、勝手なことをするなと叱られることを覚悟していたくらいだ。だが、尚人の目の前で繰り広げられているのはそのどちらとも違う、想像から果てしなくかけ離れたものだった。

 何が問題なのか。瞬時に理解することもできない。というか何もかもが問題すぎる。未生が妙なコスプレをしていること、見知らぬ男を押し倒してキス寸前の距離まで顔を近づけていること。そしてただひとつ、確かなことは――見てはいけないものを、目にしてしまった。

 ずいぶん大人になったつもりでいても、尚人はこの手の想定外にうまく対処できるだけの器用さを身につけてはいない。

「え? なんで尚人が……」

 男を押し倒した姿勢のままで、未生が顔を上げる。決まり悪そうな表情。ますます自分は来てはいけない場所に来てしまったのだという確信が強まった。 

「ご、ごめん」

 呟いて、一歩、二歩、三歩と後ずさる。コツンとかかとが壁にぶつかった感触を合図に、尚人はくるりと体を反転させた。

「あれ? どうしたんですか?」

 異様なシチュエーションにも平然としていた篠田が、ようやく空気の変化に気づいたようだ。でも、そんなの尚人にはどうだっていいことだ。とりあえず、ここにいてはいけない。頭の中はそれだけだった。

 未生から逃げるのは何度目だろうか。

 出会ったばかりで、まだ彼のことを無礼で悪意の塊のような若者だと思っていた頃。彼に特別な感情を抱くようになって、けれど惹かれてはいけないのだと理解してから。再会して再び体を結ぶまで。何度も逃げて、逃げて、ようやくもう逃げる必要のない関係になれたはずなのに、想定外のことが起これば尚人はまた、同じことを繰り返してしまう。

 決して速くない脚でしばらく走って、行きも限界になって振り返ると誰もいない。祭りの人混みに阻まれて尚人を見失ったのか、そもそも追ってきていないのか。

「どうしよう」

 思わず呟いた。いつだってそう、逃げてしまえば事態は深刻さを増す。わかっているのに繰り返してしまった。自分の学びのなさを改めて噛みしめて尚人はため息をついた。

 さっきの場所にのこのこ戻る気にもなれない。そもそもの待ち合わせ場所に行けば、未生はそこに来るだろうか。重い気分でそんなことを考えていると、ふいに背後から肩をつかまれた。

「おい!」

「うわあっ」

 振り返ると、未生がいた。見失った尚人を探して走り回っていたのか、髪も呼吸も乱れている。周囲の視線がこちらに集まっているのは決して気のせいではなく、未生はさっきのままの衣装を着ていた。

 おもちゃのような安っぽい布地でできた、体の線をあらわにする白衣。短いスカートから伸びる素足。やっぱりこれは、見てはいけない――尚人は思わず目を伏せる。

「なんで逃げるんだよ」

「なんでって……」

 問われて改めて考えてみるが、答えは難しい。だから正直に答える。

「わかんないけど、なんだかいけないものを見てしまったような気がして」

「それは……確かに」

 指摘されて、未生も自分がどんな格好をしているかをようやく思い出したようだ。

 周囲の視線も二人に向けられたままでいる。学祭というのは通常、多少の妙な振る舞いは許容できる程度の高揚感にあふれているものだ。だがいくらなんでもミニスカナースのコスプレをした長身の男子学生が、もはや教員に近い年齢層の男を猛烈な勢いで追いかけて、追い詰めて、恫喝している光景を見過ごすことのできる人間は少ない。

 ここでさらに、痴話げんかでも繰り広げようものなら――。

「ちょっとここは、場所が悪いな」

 未生は尚人の手を引いて歩き出した。

 大学の敷地内で手をつなぐなんて、それはそれでどうなのか。不安と同時に湧き上がるかすかな喜び。客観的に見れば単に尚人は怪しげなコスプレ男に連行されているだけで、誰もそこに色恋の気配など見いださないのだろうが、それでも尚人の鼓動は激しくなった。

 未生は尚人を連れて、人の気配がない建物の裏手までやって来た。

 つないだ手を離して、ひとつため息。視線が疑わしげに思えるのは、尚人がまた逃げだすことを警戒しているのだろうか。

「逃げないよ?」

 念のため告げると、安堵と脱力が混ざった様子で未生はその場にしゃがみこんだ。

「いまさら何だよ。逃げたじゃん」

 確かにそれは事実だ。だが尚人には尚人の言い分がある。

「いや、だからさ……あまりに予想外の光景にびっくりしちゃって。未生くんがそんな格好してるなんて知らなかったし」

「俺だって、こんな格好させられるなんて知らなかったよ!」

 未生は噛みつくように反論した。

 どうやら未生がナース服を着ていることには事情があるようだ。篠田という学生も似たような格好をしていたことから考えると、突然今朝になって、この衣装がユニフォームだと差し出されたといったところか。だが、尚人が逃げ出した理由はそれだけではない。もっと複合的で、複雑な――ただうまく説明できないだけで。

「しかも、なんか取り込み中だったし」

 取り込み中、というオブラートで幾重にも包んだ言葉に未生は、尚人が部屋に入ってきた瞬間の記憶をたぐっているようだった。そして嫌悪に顔をゆがめる。

「まさか尚人おまえ、俺があんな酔っ払いクソ野郎と……」

 まさか、とは思っている。だが恋人としては一応確かめておいた方がいいのかもしれない。

「一応聞くけど、あれはキスしようとしていたわけじゃないよね」

 反射的に立ち上がった未生が、尚人の肩をつかむ。

「やっぱり疑ってるのかよ」

「いや、そうじゃない。疑ってるわけじゃないけど、念のため」

 いくらかつての未生が奔放だったからといって、公衆の面前で男を押し倒してキスはしないだろう。いや、そういえば女の子との関係を清算したくて、わざと目の前で尚人にキスして見せたことはあったっけ。ふいにそんな過去が思い浮かび、尚人の確信をゆるがせようとする。

 そこに未生が追い打ちをかけた。

「キスしようとしてたっちゃ、してたけど」

「ええ?」

「いや、だから本気じゃなくて脅しだって」

「脅し!?」

 動揺しているのか未生の説明は要領を得ず、それに対する尚人の反応も見当違いなものになる。

「待って未生くん。落ち着いて説明して」

 このままでは埒があかないので、尚人は深呼吸を提案する。二人で少し息と心を落ち着けて、そこでようやく未生はことの経緯を語り出した。

「うちの女子学生に、人工呼吸やってくれって絡んでた酔っ払いがいてさ。だから、だったら俺にしときますかって冗談っつうか、脅してたんだよ。あんな汚くて酒臭い野郎相手に、誰が本気でキスなんかするかよ」

 そう打ち明ける未生は、ナース服姿を見られたことと同じくらい恥ずかしそうだ。羞恥というよりはむしろ「らしくもない」ヒーロー的な振る舞いを尚人に知られることに照れを感じているように見えた。

「女の子を、かばって」

 思わず尚人がつぶやくと、未生は慌てて付け加える。

「言っとくけど、その女とも何もないからな!」

 だが尚人が気にしていたのは、そういうことではない。

「未生くん。偉いし、かっこいいよ!」

「は?」

「だって周りに合わせて嫌々ながらその服着て、ちゃんと行事に参加して、しかも女の子を助けたんだろう? すごいことだと思う」

 拗ねてひねくれて、協調性のかけらもなかった出会った頃の未生を思えば、信じられない変化に胸が熱くなる。

 だがいつものように、尚人が感激を率直に表現すればするほど、未生は引いてしまう。

「そういう保護者みたいな目線でもの言われるのも微妙だよな。あと、まったく嫉妬されないのも、それはそれでちょっと寂しいし」

「なんだよ、それ。コロコロ意見変えられても困るよ」

 さっきは疑うなと言い、今度は嫉妬されないのは寂しいと言うのはあまりに勝手だ。尚人が不満をあらわにすると、未生は慌てて謝った。

「嘘、冗談。ごめん、言ってみただけだよ。実際、全然嫉妬される要素なんかないし」

 俺は尚人一筋だから、と囁かれて、尚人は改めて未生を見る。

 顔立ちは整って、長身で、体格にも恵まれたいまどきの大学生。普通なら自分のような地味な男とは縁のなさそうなタイプ。その未生が「尚人一筋」などと口にするのは夢のようなことで、自分の頬をつねってみたくなる。

 今だって、服装は倒錯しているけれど、それでも隠しきれないくらいに未生は格好良い。短いタイトスカートから伸びた脚はすっと長くきれいな筋肉に覆われている。薄い生地越しに見える体のラインだって。常識のフィルターさえ取り払えば、意外とこれはこれで――。

「改めて見ると、似合ってるよね」

 少なくともさっき尚人を案内してくれた篠田という学生と比べれば、圧倒的に様になっている。

「似合ってる? 冗談やめろよ」

「いや、本当だって。やっぱり未生くんみたいに素がいいと、何でも着こなしちゃうんだなあって」

 素材を褒められれば悪い気はしないようで、未生の表情があからさまに緩んだ。それからにやりと笑って、尚人の全身を眺める。

「でも俺は、どちらかといえば尚人にこういうの着せてみたいけどな」

「は? やめてよ、絶対に嫌だ」

 今未生の頭の中で、自分がミニスカナースのコスプレをさせられている。そのことに気づいた尚人は未生につかみかかって、頭のなかの不埒な想像を消し去ろうとする。

 そして触れた手に、未生の手が重なれば空気は一瞬で色を変えて――ゆっくりと近づいた唇と唇が重なった。一度、二度、軽く。くっついて、離れてから未生は打って変わって柔らかい表情で微笑んだ。

「どうして尚人、あそこに来たんだよ」

 尚人は小さな声で、午前中の仕事の予定がキャンセルになったのだと告げる。

「浮かれちゃって、早く着いたんだ。だから少しでも早く君の顔みたくなっちゃって」

「浮かれるって、そんなに楽しみだった?」

「そりゃそうだよ、だって未生くんの学校に誘ってもらったんだから」

 額を触れ合わせての睦言。人のいない場所とはいえ、野外で、しかも大学のキャンパス内。少し遠くから、楽しげなざわめきが聞こえてくる。

 こんなこと、こんな場所でしてはいけないとわかっているのに、呼吸には次第に熱がこもりはじめた。

「尚人……」

 我慢できないといった様子で未生が尚人のシャツの中へ手を差し入れようとする。尚人は身をよじって避けようとした。

「駄目だよ、こんなとこじゃ」

「じゃあもう、学祭なんかどうでもいいから、二人になれる場所に」

 あれだけ楽しみにしてきた学祭デートも、欲情の前にはもろい。尚人は未生の甘い誘いに、首を縦に振って応じた。

 

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