羽多野が足を怪我した話 (03)

 機密事項があるからと、栄は持ち帰った仕事とともに食後すぐに自室に引きこもってしまった。もちろん、羽多野が浴室で苦労して体を清める間も一度として様子を見にくることはない。

 もやもやと面白くない気分のままではとても眠れそうにない。入浴を控えるところまではなんとか理性が勝っていたが、羽多野は結局アルコールの誘惑に負けてウイスキーのボトルに手を出した。

 ロックグラスで一杯だけと決めていたのだが、広々したリビングにひとりきりでギプスに包まれた左足を見ているとますます気分が腐って、結局二杯……いや、三杯ほど飲んだかもしれない。酒には強いので、特に足をふらつかせることはなく日付が変わる前には不慣れな松葉杖を操って寝室に向かい、冷たいシーツに潜り込んだ。

 

 

 酔いの力を借りて気持ちよく眠りに落ちて数十分、もしくは数時間経っただろうか。羽多野は異変で目を覚ます。

 異変というよりは――痛みと、熱。

 寝ぼけた頭で一瞬ひどい風邪でも引いたかと思うが、左足の重さに、そういえば自分は骨折したのだと思い出す。

 確かに医師は「炎症がひどくなって痛んだり、高熱が出るかもしれない」と言っていた。だが怪我をして数時間たっても鈍痛程度の痛みしかなく、それすらアルコールで飛ばしてしまったため、羽多野はすっかり医師の忠告のことなど忘れていた。

 ギプスで覆われているのは脛から足指の根元まで。その全体がぱんぱんに腫れ上がって、炎症の痛みとギプスの圧迫による痛みの相乗効果で膝下を万力で締め上げられているようだった。枕元の灯りをつけてから上掛けをめくると、膝側は比較的ましであるものの、ギプスから突き出た左足の指は患部に近いせいか、真っ赤に腫れ上がってひどい有様だった。体中が熱いのも炎症による発熱に違いない。

 病院では頓服の鎮痛剤と解熱剤を処方された。あれは、どうしたっけ?

 せめて、夜中に痛みが出ることを想定して薬と水はベッドサイドに準備しておくべきだった。今になって後悔するが後の祭り。薬は羽多野の通勤鞄の中で、その鞄はリビングに置きっぱなしにしてきた。

 ちらりと壁に目をやる。

 栄の寝室と羽多野の寝室を隔てる壁。栄はもう寝ているだろうか。壁を叩けば羽多野の不調に気づいて来てくれるだろうか。発熱で朦朧として――ついでに少しばかり弱気になっているせいか、少しだけ栄を頼ろうかと考える。が、壁に立てかけてある松葉杖が目に入った瞬間に、冷酷な現実を思い出した。

 壁を叩いた場合、考え得る最悪のパターンが「完全無視」。もうちょっとましなシナリオとして、死ぬほど不機嫌な顔をして「何でも自分でやるって言ったくせに」と今後数日顔を見るたびにぶつくさ言われるといったものを思い浮かべる。いずれにせよ愉快ではないし、羽多野自身も、つい数時間まえに啖呵を切っておきながら、すぐに栄に頼ることには抵抗があった。

 普段ならば何も考えずに立ち上がり、リビングに向かうだけ。わずかな距離が今はやたらと遠く感じる。とはいえこのまま火のついたような体と痛みで引きちぎれそうな足に苦しみ続けるのはあまりに辛い。羽多野は意を決して、松葉杖に手を伸ばした。

 だが、熱で朦朧とした頭では正しい距離をはかることが出来なかった。指先は目標と数センチずれた――つまり羽多野の手は松葉杖をつかむことに失敗したどころか、それを床に倒してしまった。

「……くそっ」

 思わず小さく舌打ちをする。

 床に倒れた松葉杖を拾うくらい、平時であればたやすいことだ。だが、今の羽多野にとって体を裏返してベッドに腹ばいになり、そこから腕を伸ばして松葉杖を拾い上げ……さらに姿勢を変えて立ち上がるというのは果てしなく面倒な道のりなのだ。

 体が熱を持っているのとは裏腹に、背筋には寒気を感じる。たかが足の甲を折ったくらいで、人間の体というのはどこまで過剰反応するようにできているのか。切実に薬が欲しいと思った。

 絶望と苛立ちを抱えて、それでもしかたなしに動き出したところで、ドアが開く音がした。

「……うるさい」

 そこには、寝間着姿の栄が立っていた。幸い腹ばいの間抜けな姿勢をとる寸前だった羽多野は、さもなんでもない振りをして顔を上げた。

「悪い。起こしたか」

「まだ寝てませんでした。集中力は途切れたけど……」

 丑三つ時というのに栄はまだ仕事をしていたらしい。羽多野の部屋で物音がしたので様子を見に来たのだ。

「壁に立てかけてた松葉杖が倒れたみたいで。気にするな」

 思わず虚勢を張ると、薄闇の中で栄はじっと、羽多野の顔と床に転がった松葉杖を見比べてため息を吐く。

「勝手に倒れたわけじゃ、ないんでしょう」

 どう返事するか迷ったが、最終的にプライドより苦痛が勝った。

「……痛み止めの頓服を、鞄に入れっぱなしだった」

 体裁の悪さから小さな声で答えると、栄は黙って羽多野に背を向けた。ドアは閉じないまま、リビングへ向かう足音。思っていたほど怒っても不機嫌でもないような気がする。時間が経って冷静になったのか、それとも強情な栄が仏心を見せるほど今の羽多野が苦しそうな顔をしているのか。

 ほんの数分だったはずだが、痛みに苛まれる羽多野にはそれすら永遠のように感じられた。

 寝室に戻ってきた栄は水のグラスと薬袋を手にしていた。ベッドサイドに腰掛けるとグラスを羽多野に手渡し、親切にも錠剤をシートから取り出してくれる。

「なんだ、口移しで飲ませてくれるのかと思った」

 これで苦痛が楽になるという安堵から、錠剤を受け取りながら思わず羽多野は軽口を叩く。いくらか心配そうだった栄の表情が瞬時に険しくなった。

「なんだ、元気そうじゃないですか。痛み止めいらないなら戻して来ましょうか」

「おい、冗談だってば」

 取り上げられないうちに、さっと錠剤を飲み込んだ。

「偉そうなこと言って、薬はリビングに放置。骨折したその日に飲酒。子どもじゃないんだから、もうちょっとしっかりしてくださいよ」

 片付けが面倒で置きっぱなしにしてきたロックグラスにも気づかれてしまった。案の定嫌みったらしい説教――とはいえ栄の声色は思っていたよりずっと柔らかくて、羽多野を安堵させる。もしかしたら栄本人も、怪我人相手にひどい態度をとったと後悔していたのかもしれない。

 これは悪い癖なのだが、栄が本気で怒っていないと知れば、すぐに悪戯心が頭をもたげる。心配そうにその場にとどまっている栄の腰にタックルのように腕を回し、体勢を崩したところで唇を奪う。

「ちょっと……」

 軽い、ほとんどポーズのような抵抗だけで栄は「仲直りのキス」に応じた。熱い唇と冷たい唇が、舌が、唾液が触れ合って絡み合って溶け合う。どんな鎮痛剤よりよく効く甘い薬に、痛みなどすぐ消えてしまう。

 だが、ついいつもの癖で手を服の中に差し入れたところで、栄はつれなく体を離した。

「何考えてるんですか? よ」

 頭ごなしに無理だと言われると面白くない。羽多野は自分の左足を指し示す。

「固定されてるのは膝下だけだ」

 関節は動く。多少ぎこちないが膝立ちで腰を使うことくらいできるだろう。

 だが羽多野が前のめりで迫れば迫るほど栄はのけぞり、後ずさって逃げを打つ。

「筋や筋肉って全部つながってるんですよ? 無理に動けば足の甲にも障りますって。怪我が長引いたり、後遺症が残ったりしてもいいんですか?」

 興奮しかかった頭に冷や水を浴びせる言葉。まったく同じような忠告は医者にもされていた。わかっている、学生レスリングをやっていた頃、怪我を押して試合に出たせいで故障が慢性化する例はいくつも見てきた。

 若い栄と付き合うのだから、体力維持には必要以上に気を遣っている。いっときの欲情に負けて後々に引きずるような不調を抱えては本末転倒だ。羽多野は渋々ながら引き下がることにした。

「良くない。……今日のところはおとなしく寝るよ」

 そう言って上掛けを引き寄せると、栄はほっとしたように表情を緩めた。

「そうしてください。俺は戻るから、用事があれば携帯鳴らして」

「……用事って、添い寝のオーダーとかもあり?」

 いい加減にしてください、と軽く頭をはたかれながら、まあ添い寝は当面やめたほうがいいだろうと羽多野も理解している。隣で寝ていればついつい欲情してしまうだろう、足の回復を優先するならばリスクはできるだけ小さくすべきだ。

 だが、痛みがきつい数日間はそれでしのぐにしても――。

「あーあ、四週間絶対安静って、けっこう長いよな。俺もだけど、そっちは平気か?」

「え? 俺? 何が……」

 しばし真顔で考え込み、何が「平気」かを問われているのか察した栄は闇の中で顔を赤らめた。

 

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