羽多野が足を怪我した話 (04)

 同居する羽多野貴明が、足の甲を骨折してから三週間が経った。

 普段から羽多野のやることなすことのほとんどが気に入らない栄ではあるが、今回の怪我については苛立たしさ八割、「ざまあみろ」的な嘲笑を伴う爽快感が二割といったところだろうか。もしも仕事が多忙な時期でなければ、後者の割合がもっと高かったかもしれない。

 ざまあみろ、という意地の悪い気持ちを持ってしまうのは、筋トレ信者の羽多野が普段から栄をしつこくトレーニングに誘ってくることに心底辟易していたからだ。

 栄だって筋トレが有用であることは認める。霞ヶ関勤務の忙しさの中で手軽な水泳をファーストチョイスにしていただけで、学生剣道に打ち込んでいた頃は体力作りのためにしっかり筋トレにも取り組んでいた。今だって――羽多野には勘づかれていないはずだが、泳ぎに行けない日は自室で寝る前にストレッチとともに、ちょっとした自重トレーニングくらいはやっている。

 だが、最近の、筋肉こそ正義、シックスパックとバルクアップこそ至高と言わんばかりの風潮は、あくまで知的にスマートに品良く洋服を着こなしたい栄からすれば行き過ぎに思える。それに加えて羽多野がさも偉そうに上から目線で「筋トレはいいものだ」「教えてやるから一緒にマシントレーニングしたらいい」などと誘ってくるのだから、面白いはずがない。

 好きなことだって、羽多野に勧められれば天邪鬼がうずく栄だ。元々はいくらか鼻につく程度だった筋トレ、特にマシントレーニング全般について頑ななまでの拒絶反応を示してしまうのは、何よりあの男への反感が原因であることは間違いない。

 その羽多野がよりによって、トレーニング中のアクシデントで骨折したというのだ。本人は被害者を強調するが、同情の余地はゼロだ。

 とはいえ。

 とはいえ――というのが同居している人間の苦しいところ。これを機に少しくらいは天狗の鼻が折れればいいと思っていたのだが、羽多野はやはり羽多野のままで、栄はやはり栄だった。

 頭を下げて頼まれない限り一切の手伝いはしないと宣言したにもかかわらず、ちょっとした動きにもたつく姿も目障りで、栄は結局、要所要所で羽多野の日常生活を補助する羽目になっている。ときどきに感謝の言葉は述べるし、普段よりは多少おとなしくも見える羽多野だが、それも栄を上手く使うための計算ではないかと疑いたくもなる。

 さらに、三週間も経てば、器用で運動神経の良い羽多野は片足を固定された生活にずいぶん慣れてしまった。当初と同じイメージで栄が手を差し伸べると、「大丈夫」と固辞されることもある。それはそれで、面白くない。

 昨日は、怒濤のような仕事が一区切りついて栄はほぼ一ヶ月ぶりに大使館を提示に出た。ここ三週間は完全在宅勤務の羽多野がほとんどの家事を担当していたが、きっと苦労していたことだろう。たまには腕を振るってやろうと材料を買って帰ったが、すでにコンロにはスープの入った鍋がかけられており、冷蔵庫にはマリネ済であとは焼くだけの肉が鎮座していた。「昼休憩のうちに準備しておいた」と涼しい顔をする、そんな手際の良さすら無性に腹立たしい。

 

 

 怪我したのだから、ギプスが外れるまではもうちょっとくらい苦労すればいいのに。そんな倒錯した考えすら生まれつつある夜のこと――。

 がたん。大きなものが落ちるような、もしくは大柄な人間が倒れるような音が、栄のいるリビングまで響いてきた。

 羽多野は十分ほど前にシャワーを浴びると言って部屋を出て行ったところだった。そして音の発生源もおそらくはバスルーム。

 反射的に立ち上がり、ドアに手を掛けたところで一瞬だけ躊躇する。これまで三週間、頑なに入浴の手伝いだけは断ってきた栄をからかおうと羽多野が悪ふざけしているのではないかと頭をよぎったのだ。

「一番困るのが風呂なんだよな」

 怪我をした翌朝、羽多野はわざとらしくそうつぶやいた。確かに片足での入浴は簡単ではないだろう。だが栄はこの点だけは譲歩しないつもりでいた。

「入浴できないなら、体を拭くための濡れタオルくらいは準備しますよ?」

「髪も気持ち悪いし」

「だったら洗面台の前に椅子を置いておきますよ。そうすれば自分で洗えるでしょう」

 羽多野は、冷酷な恋人を恨みがましい目で見つめるが、ここで仏心を出して風呂や体の清拭を手伝ってやった場合、その先の展開は想像するまでもない。

 肌に触れれば羽多野はきっと、よからぬ悪戯を仕掛けてくる。羽多野の骨がきっちりくっつくまで四週間は足に負荷をかけるべきではないのだが、おおざっぱな羽多野はきっと、欲望に負けて自身の体をないがしろにするだろう。ここでブレーキをかけるのは栄の務めだ。

 それに、たとえ羽多野が奇跡的な自制心を発揮したとしても、しばらくの禁欲が必要とされているなかで恋人の素肌を見て触れながら、それ以上何もなしというのは――死んだって羽多野本人には言わないが――栄にとっても酷な状況に違いない。

 同衾を拒んだときに「そっちは平気か?」と、からかい半分に問われた。まるで栄が羽多野と寝たくてたまらないかのような言われようには羞恥心と反発を覚えて、自分は今後四週間何があっても平気な顔をしていようと心に決めた。

 その後、キスもスキンシップもなしで平然としている栄に羽多野が悪戯を仕掛けてきたのだとすれば?

 だが、数秒の迷いの後で栄は結局廊下に踏み出す。しょせん片足を固定された男なのだから、くだらない悪戯であれば無視して歩み去ればいいだけ。いつものように好きにはさせない。

 それより、もしも本当に羽多野が転倒していたならば――洒落にはならない二次災害だ。

 

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