羽多野が足を怪我した話 (07)

「はい、着替え持ってきましたよ」

 さっきまでより少しだけ自分の態度が柔らかいのは、きっと脱衣所での「悪戯未遂」への後ろめたさがあるからだ。不自然に思われない程度に、けれど視覚からこれ以上余計な刺激を受けないよう注意しながら栄は羽多野から手の届く場所に着替えを置いた。

「ああ、ありがとう」

 恥じらいという概念を母親の腹の中に置いてきたと思しき男は、せっかく投げてやったタオルで股間を隠すこともなしに、腕や腰をあちこちひねって体の様子を確かめるのに余念がない。

「やっぱり痛みます?」

 一刻も早く羽多野が衣類を身につけてくれることを願いつつ、栄はベッドサイドに腰をかけることで自然に彼の体から視線を外した。

「バスタブの縁で思いきり背中を打ったからな。今は痛みを堪えればなんとか動かせるけど……」

 確かに、腕を肩より高く上げようとしたり背中側に回そうとしたりすると、痛みのせいなのだろう羽多野の動きはぴたりと止まる。しかも今はまだ転んだ直後。長い剣道歴の中で数え切れないほどひどい打撲を負ってきた栄の経験からいえば、きっと痛みの本番は遅れてやってくる。

「きっとそれ、明日は腕上がらなくなってますよ。打ちどころが悪ければしばらく引きずるかもしれませんね」

「やってらんねえな。せっかくあと一週間でギプスともお別れなのに、足の次は背中かよ」

 自業自得であるにもかかわらず、まるで天から降ってきた不幸に見舞われたかのように羽多野は嘆いてみせる。その態度に呆れ果てて思わず軽口を叩いたのがまずかった。

「調子にのるからいけないんですよ。まあ、ちょっと早いけど五十肩の予習だと思って……」

 栄が「五十肩」の「ごじゅ」くらいまで口にしたところで、あからさまに羽多野の顔色が変わる。そこで失言を自覚するが、すでに遅かった。

「ひどいな。さすがに五十肩はないだろ、五十肩は」

 十歳弱の年齢差。大人の余裕を気取られることが多い故に普段は見過ごしがちだが、羽多野は加齢による男性としての身体能力および魅力の低下についてはやや神経質なところがある。

 三十歳が近づいたときには栄自身、なんともいえない感慨と不安に襲われたものだが、四十というのはさらに一段階上――しかも若いパートナーを持っているとなれば、いくら無神経な羽多野にも思うところはあるのだろう。

 セックスの最中にときおり栄が「遅い」と口にするのは、自身が早々に達してしまった恥ずかしさを隠すため。だが、重々それを理解しながらも、羽多野は高確率でむっとした顔をする。結果としてむきになった羽多野からより激しく責め立てられてしまう……というのも、二人の夜にはままあることだったりする。

 年齢を気にしている男に「五十肩」はさすがにひどかったかもしれない。言い過ぎでしたすみません、と謝る代わりに栄は話をそらす。

「それにしても、片脚固定されたままで腕の動きにも制限がかかるってのは、これまでと段違いに困ること多いんじゃないですか」

 さすがにトイレには行けるだろうし、パソコンに向かうことはできるだろうから仕事に支障はないかもしれないが、腕の上げ下げや大きな動きを伴う作業はきっと難しい。幸い繁忙期が終わったところなので料理や洗濯といった家事は栄が負担するとして――。

「すでに困ってる」

 具体的な困難を思い浮かべようとする栄に、羽多野は即答した。

「たとえば?」

「背中が拭けない。シャツも着られない」

 どうせ「谷口くんが冷たい」的なくだらない軽口だろうと想像したが、意外にも返答は現実的、かつ栄を狼狽させるようなものだった。

 言われてみれば、脱衣所に行っている間に一応は濡れた体を拭う努力をしたらしき羽多野だが、背中の側は湿ったままだ。置かれた着替えに手を伸ばそうととしないのも、もしかしたら羞恥心の欠如ゆえではなく、服を着るという動きが今の彼にとっては苦痛を伴うからなのだろうか。

 だとしたら、羽多野が言わんとしているのは――。

「つまり?」

 羽多野の曖昧な物言いを許し、結果「見かねて」自分が手を出すことになる。そんな過ちを二度も繰り返すほど馬鹿ではない。栄がじっと顔を見つめると、羽多野は数秒の間を置いて、言った。

「悪いけど、しばらくは君の手を借りないと生活が立ちゆかない」

「……もう一声」

 さすがに今の状況で、三つ指ついて土下座しろとは言わないが、この二週間の苛々を晴らすにはまだ足りない。表情を変えずに冷たく告げると、羽多野は悔しそうに言葉を継いだ。

「俺の不注意続きで谷口くんには迷惑をかけてばかりで、本当に申し訳ない。後で必ずこの恩は返すから、痛みが取れるまでしばらくは助けて欲しい」

 普段なかなか聞くことのできない、嫌味でも皮肉でもない羽多野の謝罪と懇願の言葉。栄は今度こそ満足した。

「最初からそうやって頼んでれば、こんなことになってないのに」

 久々の完全勝利に酔いしれる栄だが、「じゃあ早速」とタオルを押しつけられてはっとする。

 濡れた背中を拭けない、着替えもままならない、もちろん自力ではシャワーも清拭も難しいであろう男への手伝いを請け負ってしまった――つまり、これまで三週間避けてきた肌と肌との触れ合いが避けられないということだ。

 

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