羽多野が足を怪我した話 (08)

 手の中には一枚のタオル。目の前には素っ裸の恋人。そして、過去三週間にわたる禁欲。羽多野と比較した場合は当然として、一般的な男性と比較しても圧倒的に理性的で抑制的な人間であると自負している栄にとっても、明らかにこれは悩ましい状況だ。

「……なんて大げさに痛がってみせてるだけで、実は背中拭くくらい自分でできるんじゃないですか?」

 動揺を隠してさりげない抵抗を試みるものの、羽多野は再度腕を上げるジェスチャーをした後で、さも辛そうな表情を作る。

「ひどいな。この期に及んで俺が嘘をつくとでも?」

「普段の行いが悪いから、信用できないんですよ」

 それに、浴室から出て早くも十分近くが経過している。衛生的に好ましいとは言いがたいが、すでに羽多野の体に付着した水分の多くはシーツに吸収されている、もしくは自然に蒸発してしまった。果たしていまさら背中を拭いてやることに意味はあるのだろうか。

 この場をなんとか切り抜けたとして明日の晩にはまた、風呂に入れないことを理由にさらなる厄介な要求が突きつけられるのだろう。それでも栄はもはや骨まで染みついたあきらめの悪さを発揮して、目の前の火の粉だけでも振り払えないものかと考える。

「変なこと言うんだな。普段は濡れた体でうろうろするなってうるさいくせに。背中くらい拭いてくれたっていいだろ」

 栄の真意を知ってか知らずか、羽多野は食い下がった。そうだった。恋愛や色事の面倒から逃げようとするのが栄の習性であるならば、相手が逃げようとすればするほど追いかけ捕らえる欲求が強まるのが羽多野という人間なのだ。

「……わかりました」

 これ以上寝室で裸の男と押し問答というのも、あまりに間抜けだ。

 申し訳程度に背中を拭ってやればとりあえず今夜のおつとめは終わる。そして明日羽多野の肌に触れる前にはしっかり「自己処理」をして挑むなど、後で作戦を考えよう。

「やりますよ、やればいいんだろ」

 栄は小さく息を吐いて覚悟を決めると、右手にほんのり湿ったタオルを持ち左手で羽多野の肩に触れた。どうすると痛むかがわからないので力は入れず、軽く前傾するよう促す。

 栄が折れたことに満足したのか、羽多野は素直に体を前に倒して背中を差し出した。

 もうほとんど濡れてなんかいないのに、ポーズだけでも背中を拭って欲しいと言い張る羽多野。栄が羽多野からの謝罪と懇願の言葉を欲しがったのと同様に、羽多野がこだわっているのも結局は、栄に奉仕させてやったという事実そのものなのだろう。冷静に考えればおとなげないし、くだらない。そして――笑えるほどに、お互い様だ。

 まずはうなじ、肩から肩甲骨へ申し訳程度にタオルでなぞっていく。

 広くて、適度な硬さと弾力のある筋肉に覆われた男の体。運動習慣があるせいか張りがあり滑らかで、質感は十歳近く年下の自分とはほとんど変わらないようにも思える。

 セックスのとき、栄は部屋を暗くすることを好む。毎度希望が聞き入れられるわけではないが、灯りを消してもらえない場合は目を閉じるから羽多野の素肌をまじまじと見つめる機会は多くない。しかも――どのような体勢を選ぶにしても、栄が「受け入れる側」である限りは彼の背中を見つめて交わることなどありえないのだ。

 普段は羽多野のトレーニング自慢を鬱陶しく感じている栄だが、新鮮な気分で眺めるとバランス良く鍛えられた後ろ姿は美しい。

「俺の背中に何かついてる?」

 声をかけられて、タオルを持つ自分の手が止まっていることに気づいた。

「いえ、何でも」

 慌てて背中を拭う動きを再開するが、声には動揺が混ざった。

「ふうん」

 対する羽多野は、思わせぶりな返事。そして義務は果たしたとばかりに手を離そうとした栄は気づく。背中側からでも、そしてタオル越しでもわかるほどあからさまに羽多野の鼓動が早まっている。

 いや、最初からわかっていたことではないか。栄ですら平静ではいられない渇きを感じているのに、羽多野がこんな状況で無心でいられるはずがない。栄は再び手を止める。

 しばしの沈黙。無言で、どちらがこの先に切り込むかを探り合う。そして、肩越しに目に入る股間が兆していることを確認してから、覚悟を決めた栄はごつんと羽多野の頭を小突いた。

「いて、何するんだよ怪我人に」

「怪我人を自称する割に、すごくじゃないですか。やっぱり最初から俺をそういう風に使うつもりだったんですか」

「は? 疑心暗鬼もいいかげんに……いててて」

 反論の言葉と同時に後ろを向こうとして、痛みに呻く羽多野。だがもはや転倒が先か後かはどうだっていい。問題は、満身創痍の羽多野と本来ならば彼にブレーキをかけるべき栄のどちらも、自制の効かないほどの衝動を感じはじめているということだ。

「仕方ないだろ、三週間もご無沙汰してるんだから。これでぴくりともしない方が心配だろ」

 羽多野は声色にいくらかの甘さを滲ませる。

 栄としてもこの状況で甘えられれば、心が揺れないわけでもない。かといって現実には困難が立ちはだかっている。

「背中さえ長引かなきゃ、あと一週間でしょ。第一、脚は動かない、首も回らない、腕も上がらない状態で何するっていうんですか」

 いくら飢えて渇いたところで肝心の羽多野がこうして座っているだけで精一杯な状況なのだ。

 だが、栄の心の揺れを敏感に察した羽多野は調子に乗って、予想外の提案をする。

「だったらさ、手を貸すだけでも」

 

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