羽多野が足を怪我した話 (09)

「手、ですか?」

 羽多野の提案は栄をその気にさせる――わけがなかった。

 いつものような触れ合い方ができる状況でないことはわかっている。だからといって「手を貸せ」なんて、完全に性欲処理の道具扱いではないか。うっかり盛り上がりかけた自分が馬鹿のように思えて、栄は羽多野の背に添えていた手を離すと、乱雑に両手を拭ってタオルを投げ出した。

「そんなの、いくらでもひとりでできるでしょう。ていうか、どうせやってるんでしょ」

 自分でも意地の悪い言い方だと思うが、落胆は栄の態度を刺々しくさせる。

「それとこれとは別腹だろ」

 一方の羽多野は、なぜ栄が機嫌を損ねたのかわからないと言わんばかりだ。

「……別腹? って、ずいぶんな言いようですね」

「ひとりでやっている」と決めつけた自分の品のなさを棚にあげて、栄は「別腹」という俗っぽい言葉選びに憤慨した。

 それに羽多野の答えは、怪我して以降、日常的にひとりで性欲を処理していたことを否定していない。栄だって男だから、セックスの欲望と射精欲がイコールではないことなど重々承知している。羽多野のような旺盛な男が三週間も自己処理すらなしにいるというのは、まずありえないことだってわかっている。絶対安静の中無茶な求め方をするのではなく、おとなしく自慰ですませていたのは本来褒めたっていいはずだ。

 だが、あえてそれを「別腹」などという下品な単語を用いてアピールする必要はない。パートナーに対しては少なくとも表向きだけでも、性欲と愛情がイコールであるふりをしてみせるのがマナーではないだろうか。

 自分でも、三十路男としてはあまりに幼稚かつロマンティックな考えだとわかっているが、栄はそういう自分を捨てきれないし――できれば一緒に生活する相手には理解して欲しい。たとえ相手が羽多野のような曲者であっても。

 とはいえ羽多野は栄の面倒な性分を理解しすぎるほど、理解している。問題は「理解すること」がそのまま「配慮すること」を意味しないことだ。機嫌が良ければ、軽く呆れたりからかったりしながら栄の気持ちに寄り添ってくれる。一方で彼の側に余裕がない状況では、わざと栄の気持ちを逆なでするようなことを平気でやってのける。どちらの反応が返ってくるか読めないからこそ、栄はつい過剰な防御姿勢をとってしまう。

 つんと顔を背ける栄に、羽多野は言う。

「どういう表現がお好みだか知らないが、怒るほどのことか? ただの生理現象を処理するのと、君が介在するのじゃ別物だって言ってるんだ」

「だったら最初からそう言えばいいじゃないですか。手を貸せなんて言われたらまるで道具扱いされてるみたいで」

「まったく、神経質だな」

 今日の羽多野の反応は――ちょうど両者の中間だろうか。栄の言い分に理解を示しながらも、誘い文句ひとつとってもご機嫌伺いを求められることにうんざりしている気持ちが声ににじむ。そして、いくらか恨みがましい様子で続ける。

「だったら谷口くん、君こそどうなんだ」

「え? 俺?」

「ああ。君はこの三週間どうしてた?」

「どうしてたって……」

 何を聞かれているかは明らかで、栄は言葉に詰まる。

 「してない」と答えれば良かったのだ。ストレスが大きくなると――とりわけ仕事が忙しいと、性欲など忘れてしまうタイプだということは羽多野だって知っている。だが、即答できなかったことで、ささいな嘘へのハードルが一気に上がってしまった。

 実際は、仕事が落ち着いて以降の栄は人肌恋しさを感じるようになっている。それでも壁ひとつ隔てた向こうに羽多野がいると思えば自分の寝室で処理に及ぶことは気が咎めて、できるだけ我慢しながらも、二度ほどは入浴中にこっそり自分で自分を慰めた。

 別に、自慰くらい恥ずかしいことでもなんでもないはずなのに、売り言葉に買い言葉で羽多野を責めてしまったがゆえに、栄は本当のことを言いづらくなってしまう。

「別に、あなたには関係ないです」

「関係なくないだろ」

 どう考えてもここは羽多野が正論だ。一緒に暮らす二人が、喧嘩しているわけでもないのに三週間も触れ合っていない。それについての話をするのに「関係ない」は無理があると栄もわかってはいる。

 それに――本心は、触れたいし、触れられたい。それを素直に言葉や態度に出すのが苦手だから、羽多野の側からできるだけ穏当な、栄が受け入れやすい言葉で誘って欲しいというのは高すぎる望みだったろうか。

「……ったく、わかりましたよ。手でやればいいんでしょ、やれば」

 触れられたい、などと望んだところで、体勢や動作の限られる羽多野が栄に対してできることなどない。それでも羽多野が自慰だけでは物足りないと、やっぱり栄に触れて欲しいと望んでいるならば、応じてやることにはやぶさかではないのだ。

 栄はさも面倒くさそうな振りをしながら羽多野の下半身に手を伸ばす。その心臓は割れそうに高鳴っていた。

 

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