羽多野が足を怪我した話 (10)

 ゆるく勃起したものに手を触れた瞬間、びくっと大きく脈打つ感覚が伝わってきた。

 照れくさくて正視したくない気持ちと、それが自分の愛撫にどう反応するのか知りたくてたまらない気持ち。さらには、こういった自分のこなれていない反応すべてを羽多野はおそらくじっくり観察して楽しんでいるのだろうという羞恥心。複雑な感情が栄の体を満たし、やがて熱となる。

 だが羽多野の反応は栄の想像とはいささか異なっていた。そっと様子をうかがうと切れ長の目はぎゅっと閉じられ、こちらを見てはいない。

 余裕のない反応からは、本人なりに抑制していたというのも、栄との接触を渇望していたのも嘘ではないのだということが伝わってくる。

「……っ」

 息をのむ低い声が、張り詰めた寝室の空気を震わせた。

 優越感はいつだって、栄の心のわだかまりを溶かす。「手を貸せ」とか「別腹」とか、言葉遣いひとつに文句をつけていた自分が冷たい人間だったように思えてきて、栄は羽多野の欲望の茎をそっと握り、さらなる勃起を促した。

 触れるたび、最初はこんな行為にすら強い抵抗を持っていたことを思い出す。よっぽど特別な相手でもない限り他人の性器に素手で触れるなんて……と躊躇する栄を、羽多野はなだめてすかして、ときには半ば強引な手段で彼のやり方に引き込んできた。いや、いつの間にか栄にとっての「特別な相手」の位置に滑り込んで、居座ってしまったというべきか。

 軽くこするだけで手の中のものは熱くなり、硬さと質量を増す。完全に反り返ったタイミングを見計らって、浮き上がった血管をなぞりながら先端まで指先を滑らせると、すでに濡れているそこは隠微な音を立てた。

「やばい……」

 羽多野がつぶやく。ちらりと目をやると先ほどは閉じられていた目は薄く開き、苦しさと恍惚が入り交じった表情。

「やばいって、何が?」

「君に触ってもらってると思うと、すぐいきそう」

「普段が遅いんだから、それくらいでちょうどいいでしょ。俺の手間も省けます」

 意地悪な言葉を口にしながら、先端をなぶってやる。普段は余裕ぶっている男を簡単に高めていることへの満足が半分――でも残りの半分は、自分ひとりが置いていかれることへの物足りなさ。

 このまま行為を続ければ、そう時間はかからず羽多野は達するだろう。そして今夜の行為は終わり。恋人に触れてもらって、欲望を解放して、羽多野は満足する。だがこっちはどうなる。

 手の中には濡れた音を立てる恋人の勃起。表情も声も吐息も、何もかもが栄を煽る。

 意識すればスウェットの下の股間がぐっと硬くなった。

 きっと栄が望めば、羽多野は与えたのと同じだけの快楽を返してくれる。脚が使えず背中を痛めた男だって、右手を使うくらいのことはできるだろう。だが――「嫌々」羽多野の欲に付き合ってやっているポーズをとってしまった故に、口に出してお返しをねだることはハードルが高い。

 気を逸らすためなのか、それとも羽多野に気づいて欲しいからなのか、自分でもよくわからないままに栄は腰をもぞもぞと動かした。

 羽多野はやがて腹を震わせて、小さなうめき声とともに達した。

 勢いよく飛び出した白濁が栄の手を濡らし、青くさいにおいが鼻をつく。紛れもない、セックスのにおい。栄はきっちりと部屋着を着込んだままで、指一本だって触れてもらっていないのに。

「……はぁ」

 大きく息を吐き出して羽多野はベッドサイドのティッシュボックスに手を伸ばそうとするが、背中の痛みを思い出したのか、途中ではっと動きを止める。

「いいですよ、俺取りますから」

 栄には羽多野のように、いくら恋人のものであろうが精液をなめたり飲んだりする趣味はない。いつだってすぐにティッシュペーパーで手を拭うし、何なら本当は洗面所まで洗いに行きたいくらいだ。

 だが今日はなぜだか、手の中でぬめる液体の生暖かさすら手放すことを惜しいと感じてしまう。

「……どうした?」

 自分でティッシュを取る、と言いながら動かない栄を奇妙なものを見るような目で羽多野が見つめる。その視線にはまだ欲情の熱っぽさが残っているが、きっと時間をおけば羽多野はやがて一人勝手に満足し、賢者タイムに突入してしまうのだろう。

 して欲しいと、ただひと言。それだけ。

 だがティッシュボックスに手を伸ばすだけでも顔をしかめる羽多野に、姿勢を変えることは苦痛を伴うだろう。前に腕を出している分には問題なさそうだから、このまま自分が彼の腹にまたがって、手の届く範囲に腰を差し出せば――柄にもなく生々しくいやらしい想像を巡らせながら体の熱は増し、もはや冷水でも浴びない限り収まりそうにはない。

「なんでもないです。やっぱり手を洗ってきます……」

 本気で冷水浴を思い浮かべて立ち上がろうとした栄のシャツを、羽多野がぎゅっとつかむ。

「おい、待てよ」

「言われたとおり手を貸したんだから、もういいでしょう」

 それとも一度では足りないとでも言うつもりだろうか。でもこれ以上続けたらそれこそ栄の方が持たない。

「本当に手を洗いに行くつもりなのか?」

「それ以外に何が」

 うっとうしさもあからさまに睨みつけると、羽多野は笑う。

「いや、俺に遠慮して、バスルームかどこかでを自分でおさめるつもりなのかなと思って」

 まあ、半ば予想していたことではあるのだが――やはり栄の欲情はすっかり羽多野に見透かされていた。

 

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