「……違います」
回答までの沈黙が、何よりも雄弁に欲望を語っている。だが、どうしてもここで首を縦に振れないのが栄だった。
先に一発抜いてもらって余裕を取り戻した男は、にやにやと楽しそうにうろたえる栄を見つめている。
「違わないだろ、ほらちょっとこっち向けよ」
「離してください!」
シャツを強く引っ張られて栄は思わず声を荒げた。体を羽多野の方に向けたらスウェットの股間が張り詰めているのも丸見えだ。「どうせ気づかれているに決まっている」と「実際に醜態をさらし観察される」の間には大きな溝がある。
「素直じゃないな。ほら」
「やだっていってるでしょ!」
さらに力をこめられて、苛立ちと動揺から強く羽多野を振り払おうとしたところで思いのほかあっさりとその手は離れる。代わりに――。
「痛っ! いてて」
「え? すいません俺っ……」
乱暴に振り払ったせいで傷めた場所に触れただろうか。迫真のうめき声に思わず栄は振り返り、次の瞬間にしまったと思う。羽多野の顔は痛みに歪むどころか、満面の笑みを浮かべている。
「ほら、やっぱり興奮してるんじゃんか。手を洗いに行くなんて嘘ばかり」
見え見えの演技にまんまと引っかかった。一瞬とはいえ本気で心配した自分と、それを利用されたことが悔しくて恥ずかしくて顔が熱くなった。
「ひ、卑怯ですよ」
目を合わせるのも恥ずかしくて視線を落とすと、羽多野は長い手を伸ばし栄を呼び寄せる。栄は逃げるように腰を引きながら言い訳を紡いだ。
「俺は本当にただ手を洗いたくて……あとは、気持ちを落ち着けようと」
「これを落ち着けるって、廊下で座禅でも組むつもりか? んなわけないよな」
これ、といいながらじっと膨らんだ股間を見つめられ、何も答えることができずにいると羽多野はさらに追い打ちをかける。
「いいよ。行きたきゃどこにでも行ってこいよ。その間、俺はここで『ああ、谷口くんは今ごろオナニーしてるんだな』って思いながら待ってるから」
「……最低。品性下劣の極み」
「ちょっとくらい意地悪なことも考えるさ。この状況で甘えても頼ってもくれないんだから」
甘えるとか頼るとか、それは可愛く擦り寄っておねだりのひとつでもしろという意味だろうか。栄にそんな真似できないことは百も承知だろうに、あえてこんなことを言ってみせる羽多野が憎い。
「大体は、あなたが」と、口からこぼれるのは恨み節。
「俺が?」
「怪我なんかするから」
「そうだな、俺が悪い」
珍しく素直に非を認める羽多野だが、もちろんそれは本気の謝罪ではない。
「でもまあ、脚を固めて背中が動かせなくたって、手も口もこのとおり立派に動くわけだから。ほら、脱いでこっちに尻向けろ」
おねだりの言葉を強要することはやめたらしいが、ある意味より不穏なことを言われ、栄は眉をひそめた。
「羽多野さん、何考えてるんですか?」
「あー、もちろん谷口くんに口でやれなんて言わないから。手でいいよ。ほら君が頭をあっちにむけて腹ばいになればさ……」
手であちらこちらを示され栄は、羽多野がいわゆるところの「シックスナイン」の体勢を提案していることに気づく。積み上げた枕を背に横たわる羽多野の顔にまたがれという指示――だがそんなのは絶対に無理だ。
「嫌です。死んでもそれは」
「なんだよ、もったいぶらなくたって、たいして変わらないことやってるだろ」
「う……」
言われてみれば普段の行為でも羽多野は頻繁に栄の性器を含んだり尻に顔を埋めたりしているので、栄が彼の顔をまたいだって「今さら」ではある。だが、セックスの高揚の中でわけがわからないうちにいいようにされるのと、興奮しているとはいえ理性が残っている今の状態で――しかも体を自由に動かせない羽多野を相手に自主的にそういう姿勢をとるのは大違いだ。
「やっぱりそれは、できません」
栄が改めて断りの意思を示すと、羽多野はほんの少しだけ残念そうな表情を浮かべたが、すぐに第二の提案をしてきた。
「そっか、仕方ないな。じゃあ、ここ座れよ」
ぽんぽんと、代わりに示されたのは羽多野の腹のあたり。向き合う形でまたがって座れという意味だ。
「……どうしてあなたは、そういう五十歩百歩なことを」
「人を変態みたいに言うなよ。君が俺の腹の上に来てくれれば脚にも触れないし、腕を正面に伸ばすだけだから背中も痛まない。俺は今の状況で君に奉仕するために一番合理的な提案をしてるだけだ」
「合理的?」
そんなの、いつもの詭弁じゃないか。と思いつつ栄は頭の中でふたつの選択肢を天秤にかけていた。
羽多野の腹にまたがって手で性器を愛撫してもらう。もしくは羽多野に痴態を想像されながら、惨めにバスルームもしくは寝室で自慰にふけるか。どっちも醜態ではあるが――自分で触れたところで根本的な欲求不満が解消しないであろうことを思えば、答えは自ずと導かれる。
そう、栄はただ射精したいわけではなくて、羽多野に触れて欲しいのだ。
「で、どうする?」
逃げ場のないところまで恋人を追い詰めて何がそんなに楽しいのかわからないが、羽多野はすっかりごきげんだ。
この嗜虐的な喜びをいつまでも味わわせるのも悔しい。だったら、できるだけ堂々と振る舞った方が精神的なダメージもまだ少ないだろう。栄は腹をくくると、さっとスウェットを脱ぎ捨てた。
さっき羽多野に触ってやったのだから、その分を奉仕させるだけ。何も恥ずかしがる必要などない。自分に言い聞かせる。
とはいえ、下半身裸で恋人の腹をまたぐ姿を凝視されるのには抵抗がある。栄はリモコンに手を伸ばし、部屋のメイン照明を落とした。間接照明のぼんやりとした灯りの中で、ほんの少しだけ心が落ち着く。
抵抗しつつも受け身のセックスを受け入れてきた栄だが、「受け入れる側」で「積極的に動く」ことには依然として高いハードルがある。セックスは羽多野に導かれるもので、上に乗る体勢をとらされることはあるが、それも基本は抱えられ揺さぶられる体位。栄がまたがる――身も蓋もない言い方をすれば騎乗位のような体勢をとるのははじめてだ。
「俺、けっこう重いですよ」
座位で体重を預けることはあるのだから、羽多野は栄の重さくらい承知しているはずなのだが、なんとなくそう声をかけてからそろそろと体をまたぐ。
羞恥と不安は大きいが、同時に倒錯した興奮が栄を包みつつあった。