プロローグ(前編)

「谷口、どうせ暇なんだろ。荷物運び手伝ってくれよ」

 元上司だった友安ともやすが内線電話で谷口たにぐちさかえを呼び出したのは、六月も下旬のことだった。

 友安は栄が「一年生」つまり産業開発省に入省した最初の年に仕えた係長だった。その後アメリカへ遅めの留学をして、戻ってしばらく国内で働いたと思ったら次は開発援助の専門家として国際協力機構JICAを通じてインド派遣。つい最近、三年ぶりに帰国したところだった。

「……人聞きの悪いこと言わないでください。暇じゃないです。このあいだまで法案対応に駆り出されてましたし」

 栄はそう冷たく対応する。実際、ここのところの栄はまったくもって暇ではなかった。役所の人事とは現金なもので、外交官研修が終わってしまえば「ご褒美前には滅私奉公」とばかりにこき使われる。だが、幸か不幸か手伝っていたあちこちの仕事もようやくここ一週間で落ち着きを見せはじめたところだ。このタイミングで連絡してきた友安の慧眼にはため息を吐くしかない。

「いいですよ、ちょうど今日は時間ありますから。行き先はどこですか?」

 栄は「今日は」という部分を強調したが友安は意に介さない様子で三十分後に自分のデスクまで来てくれと告げた。行き先は保守連合の党本部。国際協力の勉強会で、直近のインド事情を話してくれるよう頼まれたのだという。持ち込み資料が多いのでかばん持ちは係員に頼んでいたが、急遽他で人手が必要になり、おかげで栄にお鉢が回ってきたというわけだ。

 帰任時の挨拶回りのときにも顔を合わせたが、黒々と日に焼けた友安の姿には改めて驚かされる。とはいえ周囲の笑いを誘っていたインド風の口髭は、さすがに剃り落としたようだ。

「現地に溶け込むには外見も大事だからな。まあロンドンみたいな大都市は別だろうけど」

 友安はそう言ってガハハと豪快に笑う。コロンビア大学の公共政策大学院で修士号を取って戻ってきた頃はやたらニューヨーカーぶっていたが、今では立派な「インドっぽい日本人」だ。

「谷口は育ちがいいからインドに行けばずっと腹下してそうだし、先進国が似合ってるな。在英大は希望したんだろ?」

「希望なんてしていません。内定辞退で幸運が巡ってきたんです。そもそも俺、純ドメで英語も実用レベルじゃないですし。内心はヒヤヒヤしてますよ」

「はは、最初は苦労するだろうけど大使館の中は小さな日本みたいなもんだし、秘書もつくから大丈夫だろ」

 海外勤務経験者の多くは軽い調子でそんなことを言うが、栄は彼らのいう「大丈夫」ほど当てにならないと思っている。特に友安のような留学経験者には三十路で初めて外国語で仕事をしようという人間の感じるプレッシャーを軽視する傾向がある。

 純ドメ――というのはいわゆる帰国子女でもなければ留学経験も海外勤務経験もない人材を指す。有名一貫校からT大法学部と官僚を目指すに当たって完璧なコースを歩んできた栄だが、正直国際関係は鬼門だった。潔癖で順応性が高くない性格を自覚していたから留学に興味はなかったし、そもそもかつては省内で国際業務の重要性というのはそこまで高くなかったのだ。

 総合職職員のほぼ全員が留学するという恵まれた省庁もあるが、栄のいる産業開発省にはそこまでの留学枠はない。長いあいだ国際系のキャリアを積む人間とそれ以外とで若いうちからぼんやりとルートが分かれる傾向があったし、国際キャリアがなくとも出世は可能だった。むしろ優秀な若手は忙しい部署に回されるので留学準備に割く時間はないとすら言われていたのが栄の係員時代だった。

 だが最近ではそんな風潮にも明らかな変化が見えはじめている。これだけグローバリゼーションが進む中で、完全に国内だけで完結する施策は少なくなってきているし、海外事例を積極的に研究し取り入れることも必要だ。

 そういう意味では今回の英国赴任は栄にとって数少ない仕事上のコンプレックスを解消するいい機会ではあるのだが、いかんせん受験レベルの英語には自信があっても、実際に外交の――しかも英語を母語とする国の政府と渡り合う語学力を一年弱で身につけるというのは至難の業だ。

 外務省の研修には語学科目もあったが、当然そんなものではとても足りない。この一年、栄は自費でも英会話スクールに通いマンツーマンレッスンに馬鹿にならない金額を払った。さらに会話の機会を増やそうとスカイプ英会話にも挑戦したし、暇があれば英語のニュースを聴くようにしている。だが、やればやるほど足りない部分が見えてきて不安は増すばかりだ。

 官用車で党本部まで送ってもらい、資料を持って指定された会議室へ向かう。ときおり見知った議員秘書や党職員とすれ違い「あら、谷口さんこんにちは」と声を掛けられた。

 搬入作業さえ手伝ってくれれば後は帰って構わないと言われていたが、栄は傍聴席の隅に座り、友安の講演を聞いていくことにした。同じ役所の人間でもこうやってまとまった話を聞くことができる機会は多くないし、正直インド情勢にも興味はあった。

 友安の話術は巧みで、赴任してすぐにデング熱で倒れた話や任期中何度も食中毒に倒れた話、街中を練り歩く象や猿に驚かされた話など、聴衆の興味を引くエピソードを織り込みながらわかりやすく現地情勢を伝える。もちろんこれだけの情報を取り込んで帰ってくるには相応の語学力や順応力が必要なわけで、羨望の思いで栄は小さくため息をついた。

 講演時間が残り十分ほどになったところで、栄のポケットの中で携帯電話が震えた。そっと画面を確認すると引越し業者からの電話だ。まだ正式な渡航時期は決まらないものの、夏場は国際引越しのハイシーズンなので今のうちから数社の業者相手に見積もりを取りはじめている。民間企業と違って公務員の場合こういった部分での職場からのサポートは極めて貧弱だ。

 栄はそっと立ち上がり廊下に出ると電話に応じた。内容は大まかな荷物の量や渡航時期を確認するだけのもので、簡単なやりとりだけで終わる。昨年の夏に相良さがら尚人なおととの同棲を解消したときに大きな荷物は処分済みで、持っていくのは身の回りのものだけだ。安価だが時間のかかる船便は使わずにすべて航空便に任せるつもりだった。

 電話を切って会議室に戻ろうとしたところで、ちょうどエレベーターホールから出てきた人影とぶつかりそうになって栄は立ち止まった。

「すみません」

「いや、こちらこそ」

 その声に聞き覚えがある気がして改めて顔を見る。相手もまったく同じことを考えたのか、二人の視線がかち合った。

「――あれ、谷口くんじゃないか」

「羽多野さん、どうしてここに」

 驚いた声を上げるのも同時。だが正直いって省庁勤務の栄が与党の党本部にいたって何もおかしくはない。一方で仕えていた議員のスキャンダルの責任をかぶる形で事務所を辞めた元衆議院議員秘書の羽多野はたの貴明たかあきここにいるのには違和感がある。しかも職を追われた直後の羽多野は、もう政治の世界にはうんざりしたというような話をしていたのだ。

「あー、ちょっと頼まれて手伝いに。ほら、俺無職だから、たまにイベントの手伝いとかで声が掛かるとバイトしてるんだよ」

「は? 無職?」

 思わず栄は素っ頓狂な声を上げた。だってあれからはもう一年も経つのだ。

 確か公設秘書は公務員扱いだから失業保険もない。人使いの荒い議員のせいで金を使う暇もなかったなどと言っていたが、いくら貯金があるにしても働き盛りの男が一年間も無職のままふらふらしているようなことがあって良いだろうか。こういうふらふらした輩のせいで国の生産性が上がらないに決まっている。

 無職という単語に反応して栄の表情がきつくなったのを見てか、羽多野は「君は、相変わらずだな」と苦笑いした。