プロローグ(後編)

 とはいえ今の羽多野が無職だろうが何だろうが栄には関係のない話で、いつまでも定職にも就かずフラフラしている三十路男を見下しはしても別に近況を聞きたいとも思わない。とっさに場を離れる理由を探すが、それを見つける前に先手を取られる。

「せっかくだからコーヒーくらいおごるよ。去年クビになった直後に酒に付き合ってもらった恩もあるし。っていってもここじゃ缶コーヒーになるけど」

「結構です」

「まあ、そう言わず。谷口くんの近況も聞きたいし。今日は部会? 今なんの仕事やってるんだ?」

 羽多野は質問で栄を引き止めながら自然な流れで自販機コーナーに導き、ポケットからコインケースを出すと何も聞かず微糖と無糖のコーヒーを買い栄に好きな方を選ぶよう告げた。買う前ならともかく、手の中にすでに二本のコーヒーがあればいらないとも言いづらい。いかにもこの男らしい狡猾なやり方の前に栄は渋々ブラックコーヒーの缶を受け取った。

「手伝いで来ただけです。元上司がJICAから戻ってきて、あっちの部屋でインド事情勉強会の講師やってるんです。で、私は――夏からイギリスの大使館に赴任が決まって今はその準備を」

 コーヒーのプルタブを開けながら栄がそう言うと、羽多野は少し驚いたような顔をした。

「へえ、在英大ざいえいたいとは、ご栄転じゃないか」

 在英大、というのは「在英国日本大使館」の略称だ。外務省の所管する在外公館には基本このような略称がつけられている。英国の場合はまだわかりやすい方で、中にはジュネーブ国際機関日本政府代表部、通称「寿府代じゅふだい」などという暗号じみたものまである。国際業務に強い人間にとっては常識らしいが、栄は今回の赴任が決まるまでそんなことも知らなかった。

「ご栄転かどうかはわかりませんけどね。俺、留学経験ないし、英語も上手くないですし。国際業務はこれまで蚊帳の外だったからどうなることやら」

「まあ、知らない場所で言葉もままならない中で苦労するってのもいい機会だよ」

 羽多野は意外にも茶化さず真面目なアドバイスをした。その口振りから羽多野本人にも海外生活の経験があるのではないかと感じたが、聞けば話が長くなりそうなので栄は何も言わない。

 栄はこの男に対して恨みと恩の混ざった複雑な感情を抱えている。仕事でさんざん痛めつけられた苦い気持ちは決して忘れることができず、あの時期に苦しんだEDの原因は絶対この男にあるのだと栄は今も強く信じている。だが何より気まずいのは――家族にも職場にもひた隠しにしている、栄が同性愛者であるという事実を知られていることだ。

 それどころか酒の席で自ら口を滑らせた結果とはいえ、羽多野は栄が当時の恋人だった尚人を、笠井かさい未生みおという学生に寝取られたことまで知っている。要するにその気になれば羽多野は栄を脅して百万、二百万の金を強請り取れる程度の秘密を握っているのだ。そんな男と話をしていて楽しいはずなどない。

 一年近く顔を見ないうちに忘れかけていたことが鮮明に蘇り、だんだん栄は腹立たしい気持ちになってきた。

 第一たかが議員秘書のくせに、何かと偉そうに人を論評して。いや、今の羽多野は秘書ですらないただの無職ときどきアルバイトだ。栄がわざわざ時間を取って付き合ってやるような相手ではない。身長は少しくらいこの男の方が高いかもしれないが、それを除けば顔だって育ちだって学歴だって、栄が羽多野に劣るものなどないはずだった。

 そんなことを考えて溜飲を下げながら缶コーヒーを一気に飲み干す。空き缶をゴミ箱に投げ込めば、それ以上羽多野の話に付き合う理由もなくなった。

「じゃあ、私はそろそろ勉強会に戻ります。コーヒーご馳走さまでした」

 そう言って背を向けかけたところで、羽多野が小さな爆弾を落とす。

「そういえばロンドンって、あの子は付いていくの? それとも遠距離恋愛するつもり?」

 栄は硬直した。

 あの子、というのが尚人を指しているのは間違いない。そういえば最後に羽多野と会ったとき栄はまだ尚人と暮らしていて、浮気発覚後の関係に悩んではいたものの別れようとまでは考えていなかった。羽多野は栄がまだ尚人と一緒にいると思っているのだ。

「……別れました。あなたには関係ないことですけど」

「へえ、そうなんだ」

 微かな笑みに嫌な感じのする返事。栄がそれを振り切ろうとしたところで廊下にざわざわと人があふれてきた。ちょうどインド勉強会が終了したらしい。これ幸いとばかりに栄は友安の姿を探すと小走りで駆け寄った。

「よう、帰ったのかと思ったけどいたのか」

「すいません、ちょっと電話が。最後の方聞けなかったけど友安さんの話面白かったですよ」

「感染症ネタと道端の動物ネタは鉄板だからなあ。体張って取ってきたネタだから笑ってもらわなきゃ救われんよ」

 再び自販機の横を通りすがるときには、まだその場に立ち止まっていた羽多野を黙殺する。忘れて欲しいといった話を、あからさまではないにしても仕事の場で持ち出されて栄は内心で憤っていた。やっぱり羽多野なんかに話をしたこと自体が間違いだったのだ。

「谷口くん――」

 ちょうどやってきたエレベーターに乗り込んだところで、外側から羽多野がひらひらと手を振った。

「頑張れよ、英国暮らし。そのうち遊びに行くからさ」

 含みがあるのかないのかもわからないその言葉が終わると同時に金属製の扉が左右からせり出して、栄の視界から羽多野の姿は消えた。

 そこで首を傾げたのは栄ではなく、なぜか友安だった。

「あれ、今の人……もしかして」

 友安のつぶやきが羽多野を指しているのは間違いない。だが、羽多野が一年前の今頃は、当時彼が仕えていた元衆議院議員・笠井かさい志郎しろうのスキャンダル絡みで毎日マスコミを賑わせていたことを思えばそれも当然なのかもしれない。

「そうですよ、笠井先生の元秘書の羽多野さんです。たまに党の仕事手伝いに来ているそうです」

 栄はそう答えるが、友安の反応は奇妙だ。

「羽多野? そんな名前だっけ?」

「は? 何を言ってるんですか? 間違えるはずないじゃないですか。去年さんざんニュースでも……」

 途中から声をひそめるのはここが保守連合の本部だからで、いくら落選した元議員だからといって今も再起を目指している笠井を揶揄していると思われてはたまらない。

 それでも首をかしげ続ける友安は、どうやらインドに滞在していたせいで例のスキャンダルについて知らないようだ。

「だったらインド行く前にどこかで絡んだんじゃないですか。笠井先生のレクとか行った記憶ありません?」

「あ!」

 インドに行く前、という言葉に刺激されたのか友安が声を上げる。そして喉に刺さった小骨が外れたかのような爽やかな顔で「それだよ」と栄の肩を叩いた。

「あの人、多分コロンビア大にいたわ。何度か日本人会で見たことあるもん。しかも俺たちみたいな院留学じゃなくて、多分普通に受験して学部から修士マスターまで続けてコロンビア。日本人じゃ割と珍しいから覚えてたんだよ」

「は!?」

 今度は栄が大声を上げる番だった。羽多野がコロンビア大学? アイビーリーグの一角を占める、言うまでもない難関大学であるコロンビア大学の出身者だと? しかも留学生にとって比較的入学が容易な大学院ではなく、学部入学。

「嘘でしょう……」

「嘘じゃないって。俺、人の顔覚えるの得意だもん」

 友安の能天気な言葉を聞き流しながら、栄の中では何かがガラガラと音を立てて崩れていく。

 悪趣味だと自覚しながら、気に食わない男のことをこれまで心の中で「たかが秘書」と嘲り、自分より頭脳も学歴もキャリアも劣る人間だと思うことでなんとか溜飲を下げてきたのだ。しかし友安の記憶が確かだとすれば、学歴は……こちらも日本の最難関大学を出てはいるが国際的な知名度では向こうに分があるし、専攻はわからないがマスター持ち。何より語学能力の面では羽多野は栄の上をいっていることになるし、高卒でそのままアイビーリーグを受験するようならば家柄だってきっとそれなりだ。

 それどころか意地の悪いことに羽多野は一度だって自らの経歴をひけらかすことなく「賢い谷口くん」「エリートの谷口くん」とからかいつつ栄を持ち上げてきた。そんな言葉を真に受けて長いあいだ羽多野に対して優越感を抱き続けてきたなんて――これではまるでピエロだ。

「谷口、なんか顔赤いけど、どうした?」

 友安に指摘されれば情けなさも最高潮だ。

 もし今、栄の顔が赤いのだとすれば、それは恥辱のせいだ。これまでずっと羽多野は、狭い日本で受験戦争と公務員試験を勝ち抜いてきただけの栄が鼻を高くしているのを内心であざ笑っていたのだろうか。

「……ちょっとトイレ行きたいんで、友安さんは先に戻っててください」

 とにかく今は一人になって心を落ち着けたい。栄は一方的な言葉を投げつけると友安に背を向けた。こんな惨めで恥ずかしい顔をしているところを人に見られたくなかった。

 唯一救いがあるとすれば、栄が来月にはこの国を離れ三年間は戻って来ないこと。そのあいだに羽多野が他の、政治にも行政にも関係ない仕事さえ見つけてくれれば二度とあの男の見下すような視線にさらされることも、こんな不愉快な目に遭うこともないだろう。今はそれを祈るばかりだ。

 その時点で栄はもちろん羽多野の「そのうち遊びに行くからさ」という言葉を真に受けてはいなかった。