エピローグ

「……ここの住所、俺が誰に聞いたんだかわかりますか?」

 ふてくされた声色で栄が言い返すと、羽多野は「保守連合の誰か?」と間の抜けた返事をする。我慢できずに栄は声を荒げた。

「まさか! 俺がこの世で一番嫌いな相手ですよ」

「それは、俺のことじゃなくて?」

 わざとしらばっくれる羽多野はどこまでも狡い。羽多野の居場所を探すために駆けずり回り、最終的には天敵中の天敵である未生に頼むに至った。あの憎たらしい若者に直接頭を下げたわけではないにしても、栄にとって未生の力を借りること自体にどれほどの妥協や屈辱を伴うかもわかっているはずなのに。

「だったら、そういうことにしておいてもいいですけど」

 羽多野が栄にとっての「この世で一番嫌いな相手」であり続けたいというならば、望むようにしてやろうではないか。すると、やけっぱちな返事の何が面白いのか羽多野は破顔した。

「いや、是非ともその汚名はそそぎたい」

 それから完全に機嫌を損ねてそっぽを向いた栄を首ごと抱き寄せて髪を撫でながら「ごめん、ありがとう」と囁いた。率直な謝罪と感謝にいくらか気が晴れて、栄はそっと羽多野の体に腕を回す。

 薄闇の中、ふたりはしばらく黙って抱き合っていた。やがてカーテンの向こうが少しずつ明るくなってきたことで朝が近いのだと知る。昨日ここに来たのが昼過ぎで、ベッドにたどり着いたのは夕方くらいだろうか。どうやら思った以上に長く眠っていたようだ。

「もう朝なんですね。前の夜もかなり眠ったのに、半日近くも寝るなんて。俺、まだ時差ぼけが残っているのかも」

 学生時代は勉強のため、就職してからは激務に対応するため、栄の体は短い睡眠に慣れている。これだけ長く連続して眠ったのは物心ついて以来はじめてかもしれない。

「言っただろう、軽い運動は快眠の秘訣だって」

「軽いなんてもんじゃありませんでしたけど」

 近い場所から見つめる羽多野の顔には相変わらず無精ひげ。こういうのが好きだというタイプもいるのかもしれないが、清潔感を重視する栄にワイルド系を気取られたって一切響かない。しかし顔色が良く目の周囲の黒々とした隈が消えている様子には安堵した。

 普段は図太い男もあまりにまじまじと顔を見られれば照れくさいのか、珍しく羽多野が先に目を逸らした。そして、ゆっくりと切り出す。

「なあ、谷口くん。俺たちはお互い訳あり過去ありの身だ。俺は元妻にも勤務先にも不要だと切り捨てられた。……そして君は大切にしたかった恋人への接し方を間違えた挙句にやんちゃな若者に奪われた。もちろん悲劇一辺倒ってわけじゃなく、互いに性格だって良い方だとは言えない」

 しんみりとした口調と不似合いな自虐にまみれた内容をどう受け止めて良いのかわからず栄は苦笑いする。

「やめてくださいよ。改めて言葉にすると惨めじゃないですか」

 軽い口調で諌めれば羽多野も普段のふざけた調子に戻るだろうという栄の予想は裏切られた。羽多野はくすぐったい囁きを栄の耳に注ぐ。

「どこからもあぶれてこぼれ落ちた俺みたいな奴を、君は救ってくれた。そして俺は、俺なら……君がどれだけわがままで見栄っ張りで強情でも……」

 饒舌な男にしては珍しくまどろっこしい言葉。栄は馬鹿ではないからその意味するところは理解している。人間性にはおおいに問題あり。恋愛、結婚、仕事、それぞれに失敗ばかりを繰り返してきた自分たちだが、一緒にいれば少しだけ楽になれる。

 羽多野は栄の取り繕った外向きの姿ではなく、不器用さや愚直さに救われたのだと言う。そして、押し付けるばかりの若い恋にしがみついていた栄は、羽多野と過ごす中で人の弱さや欠点を受け入れることや、受け入れられることについてわかってきたような気がする。

 わがまま、見栄っ張り、強情。どれも正しく栄の性格を言い当てていて、と同時に普通ならば欠点でしかない特徴だ。そんなところに惹かれて求めてくるような酔狂な人間、そうそうお目にはかかれない。

「自虐するのか俺を馬鹿にしたいのか、せめてどっちかにしてください」

 羽多野が照れているのがあからさますぎて、栄もどう返していいのかわからない。曖昧な言葉で濁そうとすると、抱きしめてくる腕にぐっと力が込められた。

「からかうなよ。本気で口説いているんだ、返事をくれ」

 意外にもしつこく返事を乞われてさまざまな言葉が栄の脳裏を行き来する――でも、どれも恥ずかしくてとても口にすることなどできない。だから栄は普段と同じように少しツンとした表情を浮かべて、告げた。

「そんなの羽多野さんのこれからの行い次第です。とりあえず俺はこんな汚い部屋に住んで、汚い無精髭を生やした男なんてお断りですから」

 甘い顔をすればつけ上がるだけの男だ。「ご褒美」なら昨日たっぷり恵んでやった。しばらくはおとなしく栄の言うことを聞いてくれたっていいだろう。第一こんなただの野暮な確認行為、羽多野はすでに栄の気持ちなんて承知しているに決まっている。

 愛の言葉のひとつやふたつを引き出す魂胆だった羽多野はわざとらしく落胆した表情を見せるが、あきらめたように白旗をあげる。

「わかったよ、掃除するしひげは剃るから許してくれ。……ああ、なんかほっとしたら腹が減ったな。近所に美味いモーニングを出す店があるから、顔洗ったら飯食いに行かないか?」

「嫌です」

「は?」

 さすがに朝食の誘いまで断れられるとは想定外だったのか、羽多野は本気で驚いたように動きを止める。栄は手を伸ばすとみっともなく伸びた上に寝癖であちこちに跳ねている羽多野の髪に触れて、次の指令を出した。

「俺がそんなみっともない頭した人間と並んで歩くと思いますか? 朝一番にでも予約をして美容院に行ってきてください。人並みの清潔感を取り戻して、話はそれからですよ」

「ったく、厳しいなあ」

 ぼやきながらも立ち上がると、まずはひげ剃りから済ますことにしたのか羽多野はバスルームへ歩いていく。栄もゆっくりと起き上がりベッドから降りた。尻にはひどい違和感があるし体中痛むが、動けないほどではない。

 まずは羽多野を美容院に送り出して、自分はこの汚部屋の掃除、それから……。今日一日の予定を考えつつ、栄は元々汚い上に、ことに及ぶ最中にあちこちにビール缶が散らばったせいで目も当てられないリビングの惨状を見渡す。そしてふとダイニングテーブルの上、そこだけ聖域のように整頓された一角に置かれた書類に気づく。他人のものを盗み見するような趣味はないが、一番上に置いてある紙は見覚えのある様式で――。

「……ビザ申請書?」

 思わず手に取りめくると、その下には英国での就労ビザを申請するために必要な書類……語学の資格証明や預金残高証明――どうやらリラとの離婚時に得た「和解金」とやらはそれなりの金額だったようで、栄の預金残高よりも大きな数字が印字されていた――そしてロンドン市内に住所を置く政策系シンクタンクの内定通知。

あまりの衝撃に硬直したところに、羽多野が洗顔を終えたのか背後からのんきな足音が近づいてくる。

「おい、ひげ剃ったぞ。これで満足……、あ」

「羽多野さん、これ何ですか」

 栄は鬼の形相で振り返ると、手にした書類を羽多野の鼻先に突きつけた。

「何って、就労ビザ申請」

「そんなの見ればわかりますよ! なんでこんな準備してるんですか! し、しかもちゃっかり内定まで……っ」

 羽多野がひどく落胆した様子でロンドンから姿を消したから、栄はああも心配して居場所を知るために駆けずり回った。いざ見つければ部屋は荒れ放題で本人は隠遁者のような風貌に変わり果てていた。だからこそ同情して、あんな恥ずかしいことまで許したのに――。その裏ではちゃっかりブリテン島再上陸の準備を進めていたと知れば、裏切られたような気分だ。

「だって、君はむちゃくちゃに怒っていたから、あのままの状態で俺が目の前に現れたって許してはくれないだろう。どうせ就職するにはビザ申請のために一度帰国する必要はあったから、順番は狂ったけどまずは日本に戻っていろいろ整えてから、また出直そうと」

 醜いひげがなくなり、以前と同じそれなりの色男ぶりを取り戻した羽多野は悪びれるどころか開き直った。栄は唖然とするばかりだ。

「で、電話も解約して連絡がつかないから人が心配して……」

「あー、俺、英国発行のクレジットカードないから日本からトップアップできなくて。残高少ないの忘れてたんだよな」

「じゃあ、あなた最初からっ」

 つまり、このままだと二度と会えないかも知れないとか、何とか救ってやらなければ憔悴した羽多野が下手すれば死んでしまうかもとか、それらすべては栄の取り越し苦労だったと。同情心に流されて昨日の栄が羽多野の狼藉を許したのも、何もかも。

「谷口くん、無職の男は嫌いだろう? まあ、君の方から俺を探し当ててくれたおかげで許しを乞いに出向く手間は省けたな」

 言っておくけど、へこんでたのも眠れなかったのも本当だからな、と申し訳程度に付け加えられた言葉はもはや栄の耳には届かない。

 しかるべきクールダウン期間を置いてから仕事を得て、栄の前にさっそうと現れようとしていた男の抜け目なさには脱力するばかりだ。その程度で栄が羽多野を許すと思っていたというのならば、どこまで甘く見られているのだろう。内定書の発行元はアジア系の政策研究で有名な栄ですら聞き覚えがある会社だし、記載されている給与額だって――。

「……帰ります」

 栄は低い声でそうつぶやいた。

「谷口くん?」

「心配して損しました。語学試験受けて就活してビザ申請する元気があるなら、俺が手助けする必要なんてどこにもないですよね。ロンドンの年末年始がどんなだか興味あるんで、すぐにでも帰ります。まだ年末の出国ラッシュ前なんで航空券もそう高くないはずですから」

 ソファの背にかけてあったコートのポケットからスマートフォンを取り出して航空券の金額を確認しはじめる栄。その腕をつかんで羽多野が焦ったように止めにかかる。

「おい、そんなに怒らなくてもいいだろ。そもそも君が無職は嫌だっていうから……」

「うるさい、触るな」

 栄は羽多野の腕を乱暴に振り払い、チケット検索を続ける。振り回された怒りはもちろんあるし、いざその気になれば簡単にそれなりの仕事を見つけてしまう羽多野に嫉妬を覚えているのも事実だ。だが、もちろん今の栄の心を満たすのは負の感情だけではない。

 羽多野は栄をあきらめたわけではなかった。足先に口付けて忠誠を誓った男は、栄が彼を探さなくたって再び許しを乞うためにロンドンまでやってくるつもりだった。しかも、ちょっとやりすぎではあるが本人なりに栄にふさわしい男であろうと身辺を整えてまで。

「羽多野さんがまたすぐにロンドンに来るなら、わざわざ今ここで一緒にいる必要ないでしょう。俺には俺の生活があります」

 あわてた様子の羽多野を見るのが愉快で、栄はこみ上げる笑いを噛み殺しながらそっけない言葉を続ける。だが、嬉しさを隠し続けることはそう簡単ではないようだ。

「すぐって言っても、年明けにビザを申請して手続きには数週間かかる。引っ越しの準備もあるし……」

「そんなのあなたの事情だから、俺には関係ありません。それに」

 そこで一度、口をつぐむ。

 続きは少し小さな声で、早口で。

「今度はスーツケースひとつってわけじゃないでしょう? あなたの部屋に置きっぱなしの引越し荷物、片付けておかなきゃ」

 はにかんで背を向けるが、そのまま後ろから抱きしめられる。

「〈俺の〉部屋?」

 わざわざ聞き返さなくてもいいのにと思いながらうなずき、栄は羽多野の腕を振り払わない。背中に体温を感じながら、ふと顔を窓側に向けるとカーテンの隙間からは朝の光が細く差し込んでいる。

「……羽多野さん、窓を開けましょう」

 栄がそう言うと、羽多野も小さな声で「そうだな」と囁いた。ふたりはゆっくりと窓辺に歩み寄ると手を伸ばし、一気にカーテンを引く。瞬間、まばゆい光が部屋を満たした。

 長いこと続いた暗がりに慣れきった目には、新しい一日はあまりにもまぶしい。目を細めて、こめかみに押し付けられる唇の感触に酔いながら、栄は柄にもなく希望などという言葉を思い浮かべた。

 

(終)
2019.06.16-2019.11.02