1. 手の鳴る方へ

 誰かが手を鳴らしている。大きな月が明るく照らす夜、遠くから聞こえてくる小さな音に気づいたセスは立ち止まった。

 そこは普通であればたやすく迷ってしまうに違いない夜の森。しかし代々この山深い場所で暮らしてきたセスの集落の人間にとっては、複雑な地形も夜の暗さもほとんど問題にはならない。彼らにとってこの森は庭のようなもので、月明かりさえあれば昼間と変わらず軽やかに動き回ることができる。

「おい、何ぼやぼや立ち止まってるんだ。邪魔だ」

「言っても無駄だ、そいつにゃわからんよ」

 足を止めたセスを嘲笑しながら集落の若い男たちがどんどん追い抜いていく。きっとあの音は自分以外の人間の耳には聞こえていないのだとセスは思った。セスは耳の良さには自信があって、他の誰より敏感に遠くかすかな音を聞き取ることができるのだと自負している。

 セスは生まれつき声を出すことができない。

 何の根拠もないが、自分ではこの聴力の鋭さは口の不自由さを補うために発達した能力なのだと信じている。口がきけないことを除けば体も頭も至って健康で、他人の話していることはちゃんと聞こえているし、物事を理解し考える能力も人並みにあるつもりでいる。

 とはいえ自分の考えを声に出して人に伝えることができないというのはなかなかに厄介だ。狩りに出るには邪魔なので今は外しているものの、普段のセスは常に首から重い石の板をぶら下げて、ポケットには柔らかい石灰を忍ばせて生活している。これはいつでも筆談できるように工夫を凝らした結果ではあるのだが、集落の人間の多くは読み書きができないためセスがコミュニケーションを取れる相手はほんのわずかだった。そのせいで家族以外の多くの者はいまだにセスは白痴だと信じているようだ。

 周囲が自分をどう思っているかを知りながら、それでもセスはできるだけ他の人々と同じように生活し、自分の所属する集団や仲間たちに貢献したかった。だから今年成人に達すると同時に、他の成人男子同様に狩りに参加したいと申し出たのだが、当初は誰一人賛成してくれる者はいなかった。

 両親や兄弟は「おまえが獲物を見つけても、それを人に知らせるすべがないだろう」と言ってなんとかセスをあきらめさせようとした。だが、獲物の発見を知らせるのに声が必須であるとは思えない。笛を吹くとか何かを叩くとか方法ならいくらでもあるはずだ。しつこく食い下がってようやく参加が許されたはじめての狩りがこの晩だったが、人々はセスをまるで空気のように扱った。

 もちろん狩りの仲間たちから歓迎されないことは覚悟していた。セスが人々の言葉を理解していることを信じない面々はあからさまに「白痴なんか連れて行ったって、ただの足手まといだ」と口にする。そして案の定、誰ひとりとして立ち止まったセスのことなど気にせず、置き去りにしていってしまったのだ。

 仲間たちが去ってしまうと、取り残されたセスの耳に再び手の鳴る音が聞こえてくる。ひとつ、ふたつ……。

 誰だろう、どこかではぐれた集落の仲間が呼んでいるのだろうか。それともごくまれにこの森に迷い込む旅人が助けを求めているのだろうか。どうせいまさら追いかけたところで狩りをする仲間に追いつけるはずもない。セスは心惹かれるままに手の鳴る音がする方向を確かめに行くことに決めた。

 大木の枝をくぐり、藪を抜け、その先には集落の人間はほとんど近寄らない断崖がある。地面が崩れやすい上にしばしば山の上の方から落石もある危険な場所で、過去には獲物を深追いして迷いこんだ仲間が崖から落ちて死んだこともあるらしい。セス自身も幼い頃から「決して近づくな」と言われて育ったので、一度もその周囲へ足を踏み入れたことはない。

 果たして禁を破ってまで確かめに行く必要があるだろうか。少し躊躇ちゅうちょしたものの結局は興味が勝った。一歩進む度に鼓動が激しくなるのは、恐怖と緊張はもちろん冒険の高揚心も影響しているのだろう。

 藪を抜けると、草木のない場所に出た。

 絶壁と断崖に囲まれた決して広いとは言えない場所には見たことのない男が立っている。セスの集落の人々とはまったく似ていない、褐色の肌に肩まで伸びたぼさぼさの黒い髪。背中や腕、脚にはたくましく鍛えられた筋肉が盛り上がり月の光に輝いている。

 旅人だろうか──、そこまで思いを巡らせたところでセスは奇妙なことに気づいた。

 男は、泣いていた。

 誰もいない場所にたたずみ、呆然と涙を流していた。

 セスは大人の男が泣くところをはじめて見た。集落では男には勇敢で強くあることが求められている。小さな子どもの頃からとにかく男は泣かないようにとしつけられ、涙を流すのは女だけだと決まっている。なのに、今目の前では自分よりはるかに強そうな大人の男が泣いているのだ……驚きのあまりセスは立ちすくんだ。

 見てはいけないものを見た。それは本能的な思いだった。彼に気づかれる前にここをそっと去らなければいけない。そろそろと後ずさりしようとしたところで何かを踏みしみしめる感触。続いて足下でポキリと枝の折れる音がする。

 褐色の男が顔を上げ、鋭い瞳がセスの姿をとらえる。涙に濡れた目は真夏の空よりももっと深い青色をしていて、吸い込まれてしまうのではないかと思った。

「誰だ?」

 問われたセスは一気に現実に引き戻され、驚きと恐怖で全身が硬直する。怪しいものではないこと、敵意はないことを伝えたいのだが、口がきけないから男にそれを告げる術がない。だったら逃げるしかない。そう決めたところで、しかし思いのほか素早い動きで男はセスに歩み寄り腕をつかんだ。

「聞こえなかったか。おまえは誰だと聞いているんだ」

 問いかけは繰り返される。さっきよりも強く、激しい苛立ちをにじませた口調。静かに涙を流していた姿とは別人のように男は険しい表情を浮かべていた。

 セスはぱくぱくと口を開け閉めしながら、拘束されていない方の手で自らの唇を指し示した。どうにかして彼に自分が口をきけないのだとわかってもらえないだろうか。だが、男はますます眉間の皺を深くしてセスの腕をつかむ力を強くする。

 恐怖で体中が震え出す。彼は怒っているのだろうか。泣いているところを見てしまったからだろうか。一体何をする気なのか。だが、セスが怯えきっていることに気づくと、褐色の男は少し困ったように手を離した。

「そう怯えるな、傷つけるつもりはない」

 この男は悪い人間でも凶暴な人間でもない。そう確信したセスは安堵した。それから改めて自分の口と喉を交互に指さし首を左右に振ってみせた。その動作に男はようやくセスの言いたいことを理解したらしい。

「なんだ、おまえ口がきけないのか?」

 セスはうなずく。そして「いったいあなたは何者か」と訊ねようと男に指先を向けようとした瞬間、背後から近づいてくる声に気づいた。

「音がするぞ。こっちにいるんじゃないか?」

「おい、セス。いるのか!」

「まったく世話が焼ける奴だ。あいつがおさの息子でなければ放っておくんだがな」

 どうやらセスを完全に取り残したことに気づいた仲間たちが探しに来たらしい。騒々しい声と足音はどんどん断崖へ近づいてくる。

 集落の男たちがこの見知らぬ男を見つけたとき何が起こるのかセスには想像もつかなかった。道に迷った哀れな旅人を正しい場所まで送り届けてやるのか、それとも身ぐるみ剥いで放り出すのか。セス自身はこの男になんとなく興味を引かれていたし、何より彼が悪い人間ではないはずだと思っている。できることなら助けてやりたい。

「おまえの仲間なのか?」

 近づいてくる声に警戒して、男はセスの背後に広がる森をじっと見つめる。セスが素早くうなずくのとほとんど同時に藪を抜けて集落の男が現れた。それはカイと呼ばれる若者グループのリーダー格の男だった。

「おい、こんなところで何勝手なことをしてるんだ! この白痴!」

 セスに向けて怒鳴り声をあげたところでカイは見知らぬ男の存在に気づいたようだ。すかさず狩りのために持っていた弓をつがえて褐色の男に向ける。続いて現れた仲間たちもカイに続いて武器を構えた。慌てたセスはカイに駆け寄り両手をばたばたと振りながら「彼は敵ではない」とアピールをするが、一切相手にしてもらえない。

 カイは弓をつがえたまましばらく月明かりに照らされた男とにらみ合っていたが、やがて不敵な笑みを浮かべてつぶやいた。

「こりゃあ、今日は運が良い。まさか『神の使い』に巡り会えるなんてな」

 セスにはその言葉の意味がわからなかった。