2. 神の使い

 その晩の狩りは奇妙な終わりを迎えた。カイは断崖にたたずむ褐色の男を「神の使い」と呼び、仲間に協力させて捕まえにかかった。敵意もなさそうな見知らぬ男に乱暴をする意味がわからず、何かの誤解があるのだろうと思ったセスは止めに入ろうとする。だがカイは舌打ちをしてセスを突き飛ばした。

「邪魔するな白痴。おい、誰かそいつを捕まえておけ」

 その声を受け、仲間のひとりがセスを背後から抑えこんだ。動こうとすると腕をねじられ、あまりの痛みにセスはそれ以上抵抗することができなかった。

 月明かりの下、カイは褐色の男に向けた弓をじりじりと絞る。その背後から遅れてやってきた集落の若者たちが、状況をよく理解しないままにカイに追従する。

 褐色の男は険しい顔でカイを睨んでいる。一歩、二歩後ずさると、その背後でぱらぱらと音がして地面から剥がれた岩が崖の下に落ちていく。男は腰に大きなナイフを下げているが、多勢に無勢で意味はないと思っているのか武器を手にすることはしなかった。

 セスは男が崖から飛び降りてしまうのではないかと不安になった。どうやらカイも同じことを考えたようで、男に向かって猫なで声を出す。

「おい、妙なことを考えるな。ただ俺たちの集落に連れていくだけだ。おとなしくすれば傷つけない。それとも毒矢をくらいたいか?」

 十人以上の男たちから弓や槍を向けられしばらく褐色の男は迷っているようだったが、やがて腰のナイフを素早く手に取ると崖の下に投げ捨てそのまま両手を頭の上に掲げた。投降のポーズに、しかし警戒は解かずに集落の若者たちはおそるおそる包囲網を狭めて一気に褐色の男を引き倒すと、その両腕を後ろ手に縛り上げて歓声をあげた。

 セスは一連の流れを理解できないまま眺めていた。確かに自分たちは今夜狩りに来たわけだが、獲物として求めていたのは食料となる動物たちだったはずだ。人間を狩るとは聞いていない。なのに、褐色の男を捕まえたカイをはじめとする若者たちは、柔らかい若い鹿や大きなイノシシを捕まえたとき以上に興奮し誇らしげにしている。

「今度は勝手にどっかに行くんじゃないぞ」

 そう言われて帰りはずっと腕をつかまれていたセスは、集落へ戻るとそのまま家まで送り届けられた。狩りの仲間が迎えに出て来た兄嫁に何やら耳打ちして、彼女は申し訳なさそうに何度も頭を下げた。セスが狩りの途中ではぐれてしまったことを告げ口されてしまったのかもしれない。

 部屋に戻り、ぼんやりと夜の余韻にひたる。

 夢のようだった。どこからか聞こえてきた手の鳴る音。その先にいた褐色の男。月に照らされて涙を流していた青い瞳──そして、彼を狩りの獲物のように捕らえてしまったカイたち。一緒に集落まで連れてこられたあの男は、これからどうなってしまうのだろう。ぼんやりとそんなことを考えるうちに、セスの耳はひたひたと近づいてくる足音をとらえる。この音は、兄のスイ。やがて足音はセスの部屋の前で止まる。

「セス、起きているか。入るぞ」

 いいよ、と答える代わりにセスは壁をこつりと叩く。

 扉を開けて入ってきた兄は物言いたげな様子だった。きっとさっき仲間から告げ口された内容を兄嫁から聞かされたのだろう。セスのことをよく思っていない仲間たちは、セスが勝手な振る舞いをして集団からはぐれたことを騒ぎたて、二度と狩りに参加させないよう頼んできたのかもしれない。

 セスの隣に座った兄は、酒の入った壷と二つの盃を床に置く。盃になみなみと濁り酒を注ぐと、うちひとつをセスに勧めた。

「とりあえず、初の狩りから無事に帰ってきたんだ。祝い酒だよ」

 とても酒を飲みたい気分ではないが、長兄に注がれた酒を断ることはこの家では重罪となる。セスは盃を手にするとぐっと一息に飲み干した。喉を焼くような感覚、そして頭の芯がかっと熱くなる。

 兄はじっと黙ったまま続けざまに盃を空ける。遠く建物の外からは人々が騒ぐ声が聞こえてくる。狩りの興奮のままに野外で酒盛りでもしているのだろうか。

 何か言いたいことがあるのは間違いないのに兄が口を開かないので、しびれを切らしたセスは首からぶら下げている黒い石でできた石板を床に下ろすと、そこに石灰で文字を書いた。

 ——スイ兄さん。何か言いたいことがあるのでは? 彼らに、僕がはぐれて迷惑だったと言われた?

 率直に訊くと、兄は困ったように頭をかいた。図星であるようだ。

「まあな。でも誰だって最初の狩りのときは上手くいかないものだ。俺だって緊張して、獲物と間違えて仲間に矢を放って危うく殺しそうになった。誰も傷つけず、おまえ自身も傷つかなくて、それだけで上出来だと思ってるよ。俺も父さんも」

 セスの家族は優しい。おさの家系にセスのような息子が生まれて、本来ならば恥ずべきこと思われても仕方ないのに、口がきけないならと早いうちから読み書きを教えてくれ、今もできるだけセスが普通の生活を送れるよう希望を尊重してくれている。だからこそ集落の人々の一部は「おさの子だからといって白痴のくせに優遇されている」とセスに憎しみにも近い感情を抱くのだが、それでもかばってくれる家族の存在はありがたいものだった。

 ——ごめん。音を聞いて、どうしても気になったんだ。

「音?」

 ——そう。はぐれた旅人か何かだと思うんだけど……カイはどうして彼を捕らえてしまったんだろう。「神の使者」と言っていた。

 セスは褐色の男について兄に話すのに、彼が泣いていたことを伏せた。きっと彼はあのことを誰にも知られたくないだろうと思ったのだ。

「カイが見つけたんじゃなかったのか?」

 兄はすでに捕らえられた男のことは知っていたらしい。むしろ最初にその男を見つけたのがセスだと知り、驚いたような反応を見せた。

 仲間たちが集まってきて褐色の男が拘束されたときからカイがセスのことを無視して「自分が一番にこいつを見つけた」という態度を取っていることには気づいていた。褐色の男を捕らえることが一体何の名誉になるのかはわからないし、手柄が欲しいわけでもないのでセスは何も言わなかった。

 こんなことをきっかけにカイを敵に回して良いことなどない。セスは慌てて言葉を濁す。

 ——ああ、捕まえたのはカイだ。それはどうでもいいんだけど、一体よそ者なんか連れてきて、どうするつもりなんだろう。

 焦ったせいかやけに喉が渇いてしまい、壺に手を伸ばして酒を盃に注ぐ。兄は珍しく自分から酒を煽るセスを不思議そうに眺めてから疑問に答えた。

「そうか。前の祭りのときはおまえは子どもだったから、まだ神の使いを見たことはなかったな。驚くのも仕方ない……」

 そして、この集落で五年に一度開催される山の神のための祭りについてぽつぽつと話した。

 遠い昔からこの山は何度も地割れや地震に襲われ、その度に集落は大きな被害を被ってきた。あるとき、厄災は山の神の怒りなのだというお告げを聞いた者がいた。集落の人間の山の神への尊敬や感謝が足りないから、怒った神が罰を与えているのだと。

「そして、俺たちの先祖は知ったんだ。五年に一度、神はこの山に使者を遣わして、俺たちの神への献身を試しているのだということを」

 神の使者は人間によく似た姿をしているから、よっぽどの信仰心と神への敬意がなければ、それが使者だと気づくことはない。だからこの集落の人間は見知らぬ人間を見つけるとそれが神の使者ではないか注意深く観察する。

 使者を見つけると集落に連れてきて、山の神への献身を示すために一年間にわたって手厚くもてなす。働かせず、体はきれいに保ち、狩りの獲物の一番いい部分の肉と、その年もっとも良くできた酒を献上する。そして一年後——。

「山の神のために盛大な祭りを行い、その最後に使者を『神の元へ返す』。一年間の長い儀式を完全に執り行うことができれば、集落は次の五年も平穏でいられる」

 そして、カイは今夜あの褐色の男を「神の使い」と見なしたのだ。

 山の神のための祭り、その存在自体はセスも知っている。五年に一度盛大に行われる祭りでは人々が歌い踊り、存分に飲んで食って、子どもたちも美しい鳥の羽で美しく身なりを飾ってはしゃぐ。この集落では一番のイベントで、人々は祝祭の日を楽しみにしているといって良い。

 だが、スイの話を聞いて改めて思い返してみれば、祭の日にはいつも一定の時間になると女と未成年は先に家に帰された。もう少し遊びたいとごねる子も「ここから先は大人の男だけで行う神聖な儀式だから」と、決してその先を見せてもらうことはできなかった。あの先にあったのが神の使者のための儀式だったのだろうか? 神のもとへ返すとは、どうやって?

 疑問が湧き上がるが、これ以上儀式について訊ねるときっと兄は答えに窮してしまうだろう。

 セスは集落の中で一人前の大人として認められることを願いながらも、いまの自分が人並みに役に立てていないことを理解していた。だから、大人たちにとっての大切な儀式の内容についても、兄が自ら話さない限りはセスから訊ねるべきではないのだと。それはほとんど確信で、優しい兄を困らせたくないセスはすべて心の中に押しとどめた。代わりに、今一番気になっていることを石板に書きこむ。

 ——あの人は、本当に「神の使者」なの?

 兄は再び壺に手を伸ばす。盃の半分ほどを満たしたところで壺の酒は尽きてしまった。それを一息に飲み干すと首を左右に振って言った。

「それは今、父さんや長老たちが見極めているところだ」

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