Chapter 1|第1話

 半身をもがれたような痛みを抱えて、ずっと生きている。

 傷は乾き、痛みが和らいだように感じるときもある。しかしちょっとした拍子にかさぶたは剥がれ、生々しい傷跡がむき出しになり、ときに血を滲ませる。

 だから、できるだけ傷を隠して。

 誰にも気づかれないように。

 誰にも触れられないように。

 終業のチャイムが鳴ると同時に校門に向かって子どもたちが勢いよく駆けだしてくる。普段のラインハルトならば、この時間はできるだけ目立つ場所にいないよう気をつけているのだが、校門脇の花壇が野良犬に荒らされていると報告を受け、修復作業をしているうちに時間の感覚をなくしていた。

 しまった、と思ったときはもう遅い。

「さようなら、用務員さん」

「さよなら、また明日ね」

 耳をくすぐるにぎやかな高い声、そのひとつひとつにラインハルトは「さようなら」と返す。

 こうして相対してみれば、別になんということもない。なんならうっすらと笑顔を浮かべて「目立たず無害な若い用務員」は子どもたちと挨拶や会話を交わすことすらできる。でも――遠ざかる彼らの小さな背中や頭を眺めているうちに、無邪気な笑い声を聞いているうちに、やがてちりちりと胸の奥が痛みはじめる。

 そろそろ限界かもしれない。ラインハルトは修繕用具をまとめると子どもたちの波に逆らうように校舎へと向かって歩きだした。

 教室をひとつひとつ見て回りながら掃除をする。無精な教師が担当する教室であれば、黒板に書いた文字すら消さないまま放置されていることも珍しくない。散らかすだけ散らかしておけばどうせ後で用務員が片付けると思っているのだろう。もちろんそれがラインハルトの仕事であることは理解しているから、特に不満はない。

 親兄弟を頼ることなく一人で生きていくためには、生活の糧を得る必要がある。淡々と決められた作業をこなすだけで人とのコミュニケーションも最低限ですむこの仕事は自分には向いているのだと思っている。教師たちは遠慮のかけらもなく雑用を命じてくる以外はラインハルトに特段の関心を示さないし、たまに面白がって近寄ってくる子どもたちさえ適当にあしらえば、日々は平穏に過ぎていく。

 すべての教室を見回り、施錠して、業務日報を書き終えるとすっかり日は暮れていた。日報の提出に職員室を訪れると、数人の教師はまだ残って仕事をしているようだった。

「うちのクラスの子なんだけど、どうも面白半分で裏通りに顔を出しているらしいって通報があったんだ。明日にでも呼び出して説教するつもりだけど、高学年はこういうことがあるから参るよ」

「子どもは怖いもの知らずだからな。昼間はともかく、あの辺りは夜になれば同性愛者の溜まり場だって話だぜ。問題が起きてからじゃ遅いから、厳しく言い聞かせるべきだな」

「まったく、本人たちはただの肝試し気分なんだよ。危ない目に遭ってからじゃ遅いのに」

 彼らの会話を邪魔する気にはなれず、ラインハルトは足音を忍ばせ決められた箱にそっと日報を差し込む。しかし、うっかり物音を立ててしまい、その瞬間教師のひとりが振り返った。

「お、用務員くんお疲れさま。今日はもう終わりかい?」

「はい。お疲れさまです」

 小さな声で返事をして、そそくさと職員室を後にした。子どもたちも教員たちも基本的にラインハルトを名前で呼ぶことはない。「用務員」という役割だけがここでのラインハルトのすべてなのだ。

 帰り道、ふとさっき耳にした会話を思い出す。繁華街からひとつふたつ路地を入ったところに、同性愛者が集まる界隈があるというのはラインハルトも耳にしたことがある。小さな酒場や商店の並ぶ裏通りには確かにあまり明るい印象はないが、夜になるとそこに「同好の士」が集まり一晩を過ごす相手、もしくは真剣に交際する恋人を探すのだという。

 同様の性志向を持たない人々がそういった場所を恐れたり忌み嫌ったりするのは当たり前だし、特に教師や保護者が年端のいかない子どもに何かの間違いがあってはいけないと心配するのは当然の義務ともいえる。

 だが、ラインハルトは彼らとは違い、自分自身の性志向を自覚している二十二歳の男だ。そこへ行けばもしかして――、一瞬頭に浮かんだ考えはすぐさま打ち消した。

 だって、そういう場所に出かけていったとして今の醜く歪みきった自分を愛してくれる人間になんて出会えるはずがない。わざわざその事実を再確認して傷つくために出かけていくなんて、あまりに馬鹿馬鹿しいことだ。それに髪が伸びてきたから、今日は家に帰ったら「あれ」をやると決めている。

 そういえば薬剤の買い置きはあっただろうか。一人暮らしを始めてから今まで一度だって切らしたことはないのに、どうしようもない不安に襲われてラインハルトは帰りの道すがら薬局に立ち寄ってヘアブリーチを店にあるだけすべて買い占めた。

 家に帰り着くなり洗面所に向かい、鏡をのぞきながら髪の毛をかきあげる。気にしていたとおり、一見金色に見える髪も根元部分はずいぶんと茶色くなっていた。明日の朝家を出るまで誰にも会わないことはわかっているのに気が急いて、ラインハルトはすぐさま上半身裸になると薬局の紙袋からさっき買った薬剤の箱を取り出した。

 あらかじめ服を脱いだのは、強い薬剤が付着すれば布地が痛んでしまうからだ。最初の数回はコツがつかめずシャツやタオルを駄目にした。ただでさえ余裕のない生活の中、無駄な出費はできるだけ避けたい。

 ツンと鼻を突く独特のブリーチの匂いには慣れている。もう何年も繰り返している作業だから説明書を読む必要もない。薬液をまんべんなく髪にまぶし、洗い流すまでしばらく待つ時間すらもどかしい気分だ。頭皮が少しピリピリするが一晩おけば治まるのはわかっている。今ではこの痛みすら、自分が本当の自分を取り戻すための儀式だと思えて心地良く思えた。

 一連の作業を終えると、鏡に映る自分の姿は完全な金髪碧眼の青年に戻った。裸の上半身は骨格こそ若い男らしくたくましいが、ひどく痩せているせいで弱々しくも見える。

 大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、しかし理想とはほど遠い自分の姿を長く眺めるのは辛くて、ラインハルトはすぐにシャツを着てシャワールームを後にした。

 ――いや、やっぱり少し前よりも筋肉がついたかもしれない。

 キッチンに立ったところで、さっき目にした自分の裸体が頭の奥に蘇って不安に襲われる。二の腕のあたりや胸から腹にかけて、前よりもたくましくなってはいないだろうか。ここのところ仕事で体を使うことが多かったし、そのせいで自然と夕食の量も増えていた。このままではいけないと思い、夕食は茹でた野菜だけですませることにする。もちろん若い男の体がそれだけで満足できるはずはないから、短い食事を終えると空腹を忘れるために早い時間からベッドに潜り込んだ。

 枕元の小さな明かりを消そうとしてサイドテーブルに置いてある十字架のネックレスに手が触れる。何の変哲もない安物で、しかも年季が入っているから金色の表面もすっかりくすんでしまっている。

 毎朝、毎晩、いい加減捨ててしまおうと思うネックレス。しかし実際にゴミ箱に投げ込もうとすると手が震えてそれ以上動けなくなる。

 なぜならこれが、ラインハルトが二十数年の人生の中で唯一手にした真実の愛の証だからだ。