Chapter 1|第2話

 朝になってから、ラインハルトは玄関近くの床に一枚のメモが落ちていることに気づいた。ドアに紙が挟まれていたのに気づかず、昨晩帰宅したときに飛ばしてしまったのだろう。

 この部屋に電話は引かれていないから急ぎの連絡はアパートメントの大家宅の電話にかかってくる。そして大家は代わりに電話を受ける都度、こうして伝言を部屋のドアに挟んでおいてくれるのだ。もちろん好意でやってくれていることだが、伝言の内容によっては迷惑に感じることもある。例えば、今日もそうだ。

 手にしたメモ用紙には少し癖のある文字で〈明日、帰りに実家へ寄るようにお父上から電話あり〉と書かれている。紙切れを目にした時点で嫌な予感はした。わざわざラインハルトに連絡をしてくる相手なんて片手で足りるほどだから、メモが挟まっている場合その相手はまずもって市内に住む家族の誰かであるに決まっている。

「よりによって、父さんか……」

 そうつぶやくと、朝からひどく憂鬱な気分になった。

 ラインハルトと実の父親との関係がぎくしゃくするようになってから十年近くが経つ。丸太のようにたくましい腕も、頑固な性格そのままの厳しい顔も、思い出すだけで気持ちは落ち込んだ。

 子どもの頃のラインハルトにとっては、腕が良いと近所でも評判のパン職人である父親は誇らしく、憧れの対象だった。将来の自分は父に弟子入りして跡を継ぐのだと疑いもしないくらいに、ラインハルトは父を尊敬し慕っていた。そして父も同じように、たった一人の息子であるラインハルトを姉以上に大事にしてくれていたと思う。

 だが、十四歳の冬に何もかもは変わってしまった。ラインハルトと幼馴染のオスカルが部屋で抱き合っているところを、父に見られてしまったのだ。

 息子の恋愛対象が同性であることを知った父は激怒した。クリスマスを間近に控えた冷たい冬の夜に、ラインハルトはあの太い腕で手加減なしに殴られ、懺悔のため教会に引きずっていかれた。保守的で敬虔なクリスチャンである父にとって同性愛はイコール許されない罪だ。自身の息子が同性愛者であることなど、決して認めることができなかったのだ。

 そして、父が息子の存在を否定すると同時に、ラインハルトも父親に対して心を閉ざすようになった。

 ラインハルトの父と同様に、オスカルの親も同性同士の恋愛を不健全なものだと決めつけ、彼らは共謀して幼い二人を引き離した。オスカルはスイスの寄宿学校に半ば無理やり編入させられ、最初のうちこそ密かに手紙のやりとりをしていたものの、やがてそれも途絶えた。

 幼い初恋を父親の手で砕かれた恨みはラインハルトの中でいまだに消えずくすぶっている。

 もちろん何もかもが父のせいというのは言い過ぎだろう。ラインハルトが最終的にオスカルをあきらめた理由は、成長期の訪れにより自分の外見が醜く変わってしまったからに他ならない。それでも幸せだった少年時代の崩壊の第一歩となった父の横暴をラインハルトは決して許すことができない。

 父親はラインハルトの性志向を「はしか」のようなものだと思っているようだ。オスカルとの一件の後は、何かと試すように「ガールフレンドはできたか」と口にするようになり、ますますラインハルトを苛立たせた。父との不愉快な関係から逃れるため、ラインハルトは中等教育を終えると同時にほとんど家出同然に実家を離れた。

 安い給料で自活するのは簡単ではないが、実家で父親と生活するよりは貧乏暮らしの方がはるかにましだ。ときおりやむを得ない用事で実家に立ち寄ると、父は理想とほど遠い息子に侮蔑的な視線を向け、不機嫌を隠そうともしない。そして母親や姉はそんな二人にどう接するべきかわからない様子でおどおどしている。

 父の呼び出しなど、ろくな用件ではないに決まっている。学校用務員なんかではなくもっとまともな職業につけという説教か、もしかしたら見合いの話かもしれない。ラインハルトはメモ用紙を皿の上に載せるとライターで火を着ける。薄い紙切れはすぐに燃え尽きてしまった。

 大丈夫、何も聞いていない。管理人はうっかりメッセージを伝え忘れたのだ。だから今日実家に立ち寄らなくても何も問題はない。そう自分に言い聞かせて一日を過ごすが、夕方になると落ち着かない気持ちが湧き上がる。そして仕事を終えたラインハルトは迷いながらも実家へ足を向けてしまう。ろくなことはないと頭ではわかっているのに、父に呼ばれると無視することができない。それが一体どういう感情のせいなのかは自分でもよくわからない。

 トラムの停留所で降りて、しばらく歩く。かつて通ったカトリックの教会――あのとき父が「悪魔に憑かれた」息子を懺悔させようとした建物の前を通り過ぎる。

 もちろんラインハルトは長らく教会に足を踏み入れてはいない。最初のうちこそ、たとえ教義に背く内容であろうと真剣な態度であれば神は自分を理解してくれるのだと信じていた。だがことあるごとに同性愛者を否定する講話を聞かされて、次第にミサからも足は遠のいた。自分自身を罪人だと決めつけてくる場所に堂々と通い続けられるほど図太い神経は持ち合わせていなかった。もちろん神はラインハルトにオスカルを戻してもくれなかった。

 さらに歩くと、かつて何度も通った小さな住宅が見えてくる。少年時代の数年間、ラインハルトが友人だと思っていた年上の男が間借りしていた家。

 庭は相変わらずきれいに剪定されているものの、カーテンの柄は記憶しているものとは変わっている。そういえば、ここに住んでいた老婦人はとうとう一人で暮らすのが難しくなり福祉施設に行ってしまったのだという話を前に実家に戻ったとき母から聞いたような気がする。この家は誰かに貸しているか、もしかしたら売り払ってしまったのかもしれない。

 あのじめじめとした薄暗い半地下の部屋はどうなってしまっただろうか。ベッド二つと小さなテーブルだけでほとんど埋まってしまう部屋を思い出すと、同時に懐かしい顔が浮かんでくる。

 父と揉めて、初めての恋人を失い孤独だった少年時代に居場所を作ってくれた友人の顔。だが心の支えになってくれた彼らもまた、何も言わずラインハルトの前から姿を消した。誰かに好意を持った結果得られるのはいつだって、あっけなく去られる寂しさだけ。恋人だろうと友人だろうと、ラインハルトが想うほどの気持ちを返してくれる相手はいない。

 やがて見慣れた家が目に入る。それだけで喉の辺りがぎゅっと苦しくなり、まだ敷地に入ってもいないのに動悸が激しくなった。

 この家の中に父がいる。理想とかけ離れた息子に失望した父が、不機嫌な顔で座っている。そう思うだけで心臓が破れそうになる。だが、恐怖を顔に出してはますます父に付け込まれるだけだからラインハルトは必死に平静を装った。

「ただいま」

 声をかけて扉を開けた。返事がないのはいつものことなので、気にすることなく足を進めリビングの扉を開けたラインハルトは――驚いて足を止める。

 そこには、見知らぬ少年がいた。