Chapter 4|第70話

「あっ、ルーカス」

 キスに夢中になってぼんやりとしていた頭の中に、ふっと電気が走る。前回やけになったルーカスに押し倒されたとき、混乱のせいか身に染み付いた潔癖のせいかラインハルトの体は一切反応しなかった、そのことを思い出したのだ。

「何?」

 耳元に吹き込まれる声は甘く濡れて、熱っぽい。この間のような懇願する響きではなく、完全に恋人を求めるときの声色だった。ルーカスはそのまま右手をラインハルトの腰にやると、シャツの裾を引き抜いていく。

「何じゃなくて、そういうのはまだ、ちょっと……っ」

 滑り込んできた熱い手に直接背骨をなぞられて、思わず声が裏返った。またこの間のようなことになってルーカスを失望させたくないという不安と、予想外の行為への戸惑い。ラインハルトはルーカスの体を押し返そうとする。

「ちょっと、なんだよ。大丈夫、今日は怖がらせたりしない。だからほら」

「あ、っ」

 不満げに唇を尖らせたルーカスが布の上からつうっとラインハルトの股間を撫でる。そこでラインハルトは初めて自分のそこが硬さを持ちはじめていることに気づいた。わずかばかりの安心、でも、それでも今はまだ――。

「やっぱり、まだ駄目っ!」

 思わず大きな声を出してのけぞったラインハルトを、ルーカスがキョトンとした顔で見つめる。

「……どうして?」

「こういうのはやっぱりちょっと、まだ早い」

 いくらルーカスが一緒に地獄に落ちてくれる覚悟すらしているにしても、彼はまだ中等教育真っ最中の未成年だ。さすがに今の段階で深い関係になることにはラインハルトの理性がストップをかけた。

「まだ早いって何。やっぱり子ども扱いするんだ」

 もちろんルーカスはひどく不満な様子で、再びぐいぐいと体を寄せてくる。これ以上くっつかれるとどこまで理性が保てるか自信のないラインハルトはとうとう力いっぱいにルーカスの肩を押して体を引き離した。

「違うって。ただ、そういうのは全部ちゃんと話をしてからにしなきゃいけないだろ」

「話って何、誰と」

「おまえの伯父さんか、もしくはあの弁護士の先生とだよ。身柄が今向こうにある以上、ちゃんと話をつけてからじゃないとここに戻るわけにもいかないだろ」

 ルーカスの顔が紅潮しているのは触れ合った興奮が残っているからなのか、突然のお預けへの不満ゆえなのかは不明瞭だ。だが、一応は年長者としてラインハルトもこの部分について引くつもりはない。

「最初から世間体だけの関係なんだから、勘当でもなんでも大歓迎だよ。父さんと母さんの遺産だって欲しければくれてやるよ」

 子どもっぽい無謀さで威勢の良いことを口走るルーカスに、ラインハルトは笑う。

「悪いけど学校を出してやるだけの金は俺にはないよ」

「奨学金だってアルバイトだってなんだってあるだろう」

 もちろんラインハルトにとっても、再びハウスドルフ氏やミュラー弁護士と会うことは楽しくはない。しかも内容が内容だ。どんな言葉をかけられ、どんな条件を付けられるかもわかったものではない。だが、ここで面倒を嫌って自分たちだけの殻に引きこもるのでは、きっと過去の失敗の繰り返しになる。

「そういうことも含めて話をしたいんだ。俺はずっと対話を恐れて、自分の中だけで物事を完結させようとしてきて、その結果いろいろなものを駄目にしてきた。今では思うんだ。物別れに終わるにしても傷つくにしても、それでも話をしなきゃいけないことがあるんだって。……それに、何があったっておまえは俺のところに戻って来てくれるんだろう?」

 そう言って宥めるように金色の髪を撫でてやると、ルーカスはくすぐったそうに目を細めた。子供扱いするなと叱られるかと思ったが、まんざらでもないようだ。

「うん……まあ、ラインハルトがどうしてもって言うのなら」

 渋々ながら了承の返事をして、それから素早く一度、掠めるような口付け。

「その話が終われば、全部許してくれるの?」

 不意を突かれて顔を赤くしたラインハルトに、ルーカスはいたずらに成功した少年の顔で笑った。頰に熱さを感じながら、仕返しの気持ちも込めてラインハルトは言う。

「そうだな、おまえが俺の背を追い抜いたら」

 出会った頃に比べるとずいぶん縮まったとはいえ、二人の身長差はまだ頭半分ほどある。ルーカスの背がラインハルトを追い抜くまでどのくらいかかるのか、本当にそんな日が来るのか、そんなことわからない。

 ルーカスが今のままの自分を大切にしてくれているのはわかっている。それでもできることならば少しでもルーカスに抱きしめられて様になる自分でいたいなんて口に出したらルーカスからは馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばされるだろうか。

だが、ルーカスは何でもない顔をしてむしろラインハルトへ聞き返す。

「いいの? そんな条件で」

「どうして?」

「だってすぐだよ、そんなの」

 あまりに自信に満ちた言葉。でもルーカスが言うのならば、きっとその通りの将来がやってくる。不思議と今はそう思えた。

 過去は変わらないし傷が消えることはない。ラインハルトの劣等感は完全には消えないだろうし、ルーカスはこれからも複雑な生い立ちを抱えて生きていく。それでも今は、ひとりではない。お互いがお互いを求めれば、それがかけがえのない居場所になる。

 後で、大家の部屋に行かなければいけない。やっぱりここを引き払うことをやめたいと言ったら嫌な顔をされるだろうか。新しい仕事先に、住み込みをやめて通いにさせてもらえないかと相談もしなければいけない。

「……そういえばルーカス、学校は?」

 ふと今日が平日だったことを思い出し、ラインハルトは尋ねる。本当ならばルーカスは学校へ行っている時間だ。するとルーカスは急に体裁の悪そうな表情になって、後ずさった。

「いや、昨日あいつを殴った手前、もしかしてここに来るんじゃないかってどうしても気になって」

 オスカルにラインハルトとの復縁を考えるよう懇願したものの、その先が気になって仕方ないので学校をさぼってここへやってきたと言うのだ。もちろん普段のラインハルトならば、そんなことのために授業を抜け出すなんてと叱りつけるところだが、状況が状況だけに気持ちは複雑だ。

「ただでさえ色々あるんだから、問題起こすなよ。ほら、これからなら午後の授業には間に合うだろう」

「うん」

 ラインハルトに促されてルーカスは玄関のドアへ足を向ける。そして、ドアノブを握ったところで振り返り、笑う。

「じゃあ、行ってきます」

 さよならではない。ルーカスはまた戻ってくる。出かけるたびに何度でも、ラインハルトと暮らす場所へ戻ってくる。ささやかな挨拶に胸の奥からにじみ出すのは、愛おしさと温かさ。

 だから、ラインハルトも泣き腫らした顔で笑い手を振った。

「ああ、行ってらっしゃい」

 

(終)
2018.03.18 – 2018.11.25