僕と機械仕掛けと傷痕(5)

 お母さんと眠っているときと似ているけれど、どこか違っている。でも、あんなに泣いて、あんなに怖くて、あんなに不安だったはずなのに僕はサーシャの腕の中で気づけばぐっすりと眠っていた。

 目を覚ましたのは、周囲がすっかり明るくなってから。ゆっくりを目を開けるまではそこが僕のベッドだと疑わず、その狭さにおかしな感じがして、目を開けるとそこにはサーシャの白く端正な顔があった。

「サーシャ!」

 僕は思わず大きな声を上げた。サーシャの体は昨日の夜とは違って、いつものようにひんやりと冷たくなっていた。

「サーシャ、冷たい」

 びっくりして声を上げると、サーシャは少しだけ笑う。

「大丈夫、それが普通です」

 昨日は笑う元気もないくらい苦しそうだったから、それだけで僕はサーシャが元気になったのだと思ってほっとしてしまう。

「でも、昨日はすごく熱かったよ」

 熱いのと冷たいの、どっちがサーシャにとって良いことなのか僕にはわからない。でも僕が熱を出しているときはいつだってすごく苦しくて何も考えられなくなる。だからサーシャもいつもどおりの冷たい身体の方がいいのかなと思う。

「自動修復機能が出力を上げると、その間は温度が上がるんです。さあ、もう起きて。あなたが眠ったままだから動けなくて、私まで寝坊してしまいました」

 サーシャはそう言って、僕を抱き上げると床に降ろした。僕はサーシャの腕の中でくっついて眠ることを少し気に入っていたので、突然引き離されてしまってなんとなく寂しい気持ちになる。でももう十分寝坊しているみたいだし、ずっとソファで寝たままでいるわけにもいかないから、仕方ないのかもしれない。

「もう腕は大丈夫なの?」

 立ち上がり、乱れた髪を撫でつけているサーシャに僕はきく。

「ええ」と、サーシャはうなずいて、僕に向けて左腕を差し出した。

 確かにそこはくっついていた。けれど痛々しくぱっくりと割れていた場所は魔法のように元どおり――とまではいえず、サーシャの白い腕の真ん中には縦に走る大きな傷跡が目立っている。

「治ってないよ」

 僕の不満げな声に、サーシャは首を振って答える。

「大きな損傷だったから、表面には多少跡が残るだろうと思っていました。機能には問題ありませんよ」

 でも僕は何だか悲しくなってしまった。僕のつけた傷。いくら機能には問題がないと言われても、サーシャは完全に良くなったわけではないのだ。もしかしたら我慢して笑っているだけで、本当はまだ痛いのかもしれない。そんなことを考えると胸の奥がぴりぴりした。

 サーシャはいつも通りに身なりを整え、朝ごはんの支度をしてくれた。でも僕の気持ちは何だかすっきりしなくて、サーシャの作るホットサンドはいつもと同じように美味しいはずなのに口の中でもそもそしてあまり味がしない。

 今日は日曜日だからもうすぐベネットさんが迎えにやってきて、おじいさんのところへ連れて行ってくれる。週に一度おじいさんと会うのも楽しみだし、何より今日は自転車の練習もできるはずだったのに、それもあまり楽しみではない。サーシャはシャツの袖を下ろして澄ました顔をしているけれど、僕はずっとその下の傷のことばかり気にしている。

 やがてやってきたベネットさんは、僕のしょんぼりとした顔を見て何かあったのかときいた。

「僕が危ないことをしたから、サーシャが怪我しちゃったんだ」

「アキ、余計なことを言うんじゃありません」

 サーシャは怖い顔をしたけれど、僕はどうしても心配だった。お母さんみたいにサーシャが「優しい嘘」をついているかもしれないという不安を消しきれなくて、だから他の大人にサーシャの傷のことを知って欲しかった。

 ベネットさんは「後見人の責務だ」とか何だとか言って、嫌がるサーシャを説得して、シャツの腕をめくらせた。

「ふむ、確かにくっついてはいるようだが、ずいぶんとまあ」

 驚いたような顔。当然サーシャは不満そうだ。

「くっついているのだから、問題はないでしょう」

 やがてベネットさんは僕に、ソファで絵本を読んでいるように言った。そしてダイニングテーブルに向かい合ったサーシャに声を潜めてサーシャに囁く。でも、うんと耳を澄ましている僕には全部聞こえてしまう。

「金の心配をしているのか。特別メンテナンスは包括契約の対象外だから、そのダメージだと一千ポンドはくだらないな?」と、ベネットさん。

「弁護士の割に、機械にもお詳しいんですね」と、サーシャ。

「そりゃあ、アキヒコ様の後見人はラザフォード様で、ラザフォード様の法律顧問は私だからな。アキヒコ様の生活に関係することは色々と調べさせてもらったよ」

 ベネットさんがそう言うと、サーシャは一番機嫌が悪いときの声で質問をする。

「私がリストア品であることをアキに伝えたのもあなたですね?」

 そうだ、サーシャが前にもどこかの家にいて、別の人と暮らしていたということを僕が知ったのは、ベネットさんが「契約書で見た」と言ったからだ。書いていることが難しくてわからなかったけれど、サーシャは僕にも契約書を見せてくれた。だから、ベネットさんがそこに書いていることについて僕に話したからってサーシャが怒る理由はない。でもサーシャはあからさまに不機嫌だった。

「知られて、何か不都合が?」

「いいえ、何も」

 まるでサーシャの気持ちを逆なでしようとするみたいなベネットさんの態度に、サーシャは黙ってしまった。しばらく部屋は静かになって、僕が読んでいるふりをするためだけに絵本をめくる音だけがぱらりぱらりと、やたら大きく聞こえた。

 ついに我慢できなくなったのは、ベネットさん。大きくわざとらしいため息の後、話しはじめる。

「確かに私はまだ、機械が坊ちゃんの世話をすることに完全に納得したわけじゃない。だが、ラザフォード様も認めていることだから、おまえをどうこうしようという気なんかないさ。メンテナンスで数日外しても、ちゃんと後でアキヒコ様はアパートメントに戻すさ。気にせず直してこい」

 僕はソファの背当て越しにそっとふたりの様子をうかがう。ベネットさんが多分「メンテナンス」に連絡をしようとして携帯電話を取り出すが、サーシャはさっと手を出してそれを制すると、これで話は終わりだとばかりに立ち上がった。

「メンテナンスは結構です。さあ、今日は大事なアキとサー・ラザフォードの面会日でしょう。彼が家で首を長くしているのではないですか」

「おい、いくら自己修復機能がついていてもそのひどい傷は消えないだろう。修理費用ならばラザフォード様が出す。大事なアキヒコ様の養育係なんだから」

「結構です、表面に多少跡が残ったとしても機能には影響ありません」

 僕は心の中でベネットさんを応援していた。

 だって、直らないわけではないというのだ。サーシャのあの腕の傷は、「メンテナンス」という、多分ロボットの病院みたいなところに行けば、お金はかかるけど元どおりになるというのだ。だったらそれを断る必要なんてないし、それでサーシャの腕がきれいになるなら、僕は数日間彼がいなくたって我慢できる。

でも、僕がいつもサーシャに負けるとの同じで、結局ベネットさんも「頑固なやつだ」と一言つぶやくと、椅子から立ち上がってしまった。

 もう黙ってはいられない。僕はソファから飛び上がった。

「サーシャ! 僕はいいからロボットの病院に行ってきて。何日かなら、いい子で待ってるから! ねえ、お金なら、僕の誕生日プレゼントのお金を使って。僕へのプレゼントは、サーシャの腕の病院にして!」

 ベネットさんは、サーシャの腕を直すにはたくさんのお金がかかるのだと言った。サーシャはもしかしたらそれを気にしているのかもしれない。サーシャはおじいさんと会ったことがないから、知らない人がお金を出してくれると言っても遠慮しているのかもしれない。だから僕のプレゼント代――果たしてそれで足りるのかはわからないけれど――を使ってくれればいい。

 僕は、どんなおもちゃより、どんな可愛い子猫より、サーシャに元気でいてもらいたい。

 サーシャはそのまま僕のいる場所まで歩いてくると、手を出して僕の髪を何度か撫でた。それから器用に左手手首のカフスボタンを外すとシャツの袖を捲り上げて大きな傷を僕に見せる。

「アキ、私はこの傷を直しません。このまま残します。なぜだかわかりますか?」

「わかんない」と、僕は首を振った。

 だって、お金を払えば元どおりきれいになるのに。僕はプレゼント代を使っていいと言っているし、足りなければそんなお金きっとおじいさんが出してくれる。なのになんでサーシャはこんなに頑なに、僕やベネットさんの申し出を断るんだろう。

 サーシャはふわりと笑った。

「これはあなたへの罰ですよ。この傷を見るたびにあなたはもう二度と、あんな無茶をしようなんて思わないでしょう」

 不思議だった。言っていることは厳しくて、まるで怒っているみたいなのにその声は今まで聞いたことがないくらい優しかった。そして、僕の髪を撫でるサーシャの手も、とびきり優しいものだった。

 言葉と態度がばらばらで、僕はサーシャのことがよくわからない。でもきっとその理由を聞けば「大人になればわかります」と交わされてしまうんだろう。

 それに――確かに――、あの腕の傷を見るたびに、サーシャがあんなにも一生懸命僕を助けようとしてくれたことや、サーシャがソファで僕をぎゅっと抱きしめて眠ってくれたことを思い出せるならば、それも悪くないかもしれないと思えてくる。

「……うん」

 僕はうなずいた。

 そして、サーシャの怪我の一件は、それで終わり。

 終わりだけど、僕にはちょっとした変化があった。

 ときどきちょっとした例外はあるけど、僕はサーシャの言いつけを大体のところは守るようになった。ポピーを追って高いところに上ったりはしないし、子猫を欲しがったりもしない。僕が危ないことをしたらきっとサーシャが飛んできて、僕の代わりに怪我をして、痛い思いや苦しい思いをする。だから危ないことはできるだけ、やらない。だって、サーシャがいてくれることが僕にとっては何よりものプレゼントだって、今では知っているから。

 僕だけじゃない。サーシャにも変わったところがある。

 それは、サーシャがひとりでいるとき。僕がこっそり見ていることに気づいていないときだけ。サーシャはときどき、カフスボタンを外して左の袖をめくり上げる。そして左腕の大きな傷跡を眺めて、そっと撫でて、なぜだか幸せそうな顔をしている。

 

(終)
2018.07.07-07.19