僕と機械仕掛けと傷痕(4)

 何が起きたのかは、覚えていない。

 ふわっと体が浮いたような気がしたけれどそれはほんの一瞬のことで、気づいたら僕はサーシャの腕の中にいた。何かにぶつかるような衝撃はあった。でも僕の体はどこも痛くない。だからきっと、大丈夫だったんだと思った。

 恐怖からぎゅっと閉じていた目を、そっと開く。

 雨樋から手を離して落下したはずの僕はどこも怪我していないし、どこも痛くない。――でも代わりに、アスファルトの敷かれた地面にはサーシャが背中を下にして倒れていて――僕は、自分が彼を下敷きにしたおかげで無事だったのだということに気づく。

「サ……サーシャ、サーシャ!」

 サーシャは地面に倒れたまま動かなかった。動かないのに腕の力だけは強く、強く、僕を抱きしめていた。決して落とさない、決して地面にぶつけたりしない、サーシャは全身でそう言っているみたいだった。

 白い顔はいつもよりもっと白くて、ほとんど閉じているところを見たことがない瞳はまぶたに覆われている。完全に動きを止めたサーシャの姿は僕に、病院のベッドで動かなくなったお母さんのことを思い出させた。

 僕はサーシャに馬乗りになったまま、その体を揺すった。それが傷ついた彼により大きなダメージを与えるかもしれないという想像なんか、まったくできなかった。ただサーシャに動いて欲しくて、目を開けて欲しかった。呆れた顔で「まったく、あなたはいたずらばかり」とため息をついて欲しかった。いくら叱られたっていい。でもサーシャが壊れて動かなくなってしまうのは嫌だ。

「ねえサーシャ、目を開けてよ。ねえってば」

 動きを止めたサーシャをしつこく揺さぶっていると、玄関からポピーを抱いた管理人さんが出てきた。もしかしたらサーシャが、家の中からポピーを助けるように頼んでくれたのかもしれない。さっきまで窓枠で心細い様子で鳴いていたポピーは「にゃあん」と一声あげるといつも通りの気ままさで管理人さんの腕をすり抜けてどこかへ遊びに出かけてしまった。

「アキくん、大丈夫かい」

 管理人さんはそう声をかけてくるけれど、無事なんかじゃない。僕は首を振って大きな声をあげた。

「大丈夫じゃないよ! サーシャが、サーシャが壊れちゃった! 死んじゃった! どうしよう、サーシャが死んじゃったよ」

 だって、サーシャがいなくなれば僕はまたひとりぼっち――。

「……死にませんよ」

 僕の体の下から、普段と同じ調子の、でも普段より小さな声が聞こえた。

「サーシャ!」

「私は人間じゃないから、死んだりしません」

 今度はもう少ししっかりした声だった。サーシャはしかめっ面をして、でもしっかりと瞳を開いて僕を見た。僕は安堵と喜びでサーシャに抱きついて、彼が痛みを感じたような表情をしたことに気づいて慌ててその体から離れる。

「おい、腕が裂けているじゃないか。大丈夫かい?」

 管理人さんが呼びかける声につられて、僕の体のちょうど下敷きになっていたサーシャの左手に目をやると、シャツが破れ、その下の腕の皮膚が大きく裂けているのが見えた。不思議なことに、僕が怪我したときのように赤い血は流れない。ただ、ぱっくりと裂けた場所の痛々しさはロボットも人間もあまり変わらないような気がした。

「……サーシャ、腕を怪我してるよ。救急車を呼んで」

 焦った僕の言葉に、よろよろと体勢を整えながらサーシャは返事をする。

「私は人間の医者にはかかれませんよ」

「だったら、ロボットのお医者さんを呼んで!」

 しかし、サーシャはロボットのお医者さんのことも断って、弱々しく笑ってみせた。

「アキ、大丈夫。私は自動修復機能がついているんです。少し休めば直ります」

 そしていつもよりぎこちない姿で立ち上がり、管理人さんに丁寧に「お騒がせしてすみません」と頭を下げて、サーシャは集合玄関をくぐると、僕たちのアパートメントへ向かう階段をゆっくりと上りはじめた。

 いつもの何倍もの時間をかけてようやく部屋にたどり着いたサーシャは、リビングのソファにへたり込むと、僕に向かって「しばらく自分のお部屋で遊んでなさい」と言った。その顔は白を通り越して透けてしまいそうなほどで、声は今まで聞いたことないほど弱々しかった。

 僕が雨樋から落ちて踏みつけてしまったから。僕を受け止めたときに地面に倒れこんで腕にひどい裂傷を負ってしまったから。はっきりとは言わないけれど、サーシャがこんなにも辛そうな顔をしてろくに動けずにいるのは、僕のせいであることは間違いない。

 僕がひとりで勝手に部屋を出て、勝手にポピーを助けようとして無茶をして、そのせいでサーシャがこんなに苦しんでいる。サーシャは自分はロボットだから死なないと言うけれど、お母さんがいつも使っていたミシンはある日突然動かなくなったし、僕が気に入っていた電気じかけのおもちゃだって突然壊れてしまい、修理屋さんに持って行ってもさじを投げられた。

「嫌だよ、絶対に離れない」と、僕はソファに横たわるサーシャの隣に座り込んだ。

 お母さんだって、すぐに治ると、大丈夫だと言って、でも少しずつ衰弱してついには完全に動かなくなった。サーシャはお母さんと同じように「優しい嘘」を吐くロボットだから、僕にはこういうときの彼の言葉はまったく信用ができない。

「ねえサーシャ、こんなところじゃなくて、ベッドで寝たほうがいいよ。お母さんのベッドを使いなよ」

 夜、僕を寝かしつけた後でサーシャがいつもこのソファで休んでいることには気づいていた。このアパートメントには僕の部屋の他にもうひとつ、お母さんが使っていたベッドルームがあって、そこにはお母さんの使っていた大人用のベッドがある。でもサーシャは掃除をするとき以外その部屋に入ろうとはしなかったし、絶対にお母さんの持ち物に手をつけようとはしなかった。

 そして今も、僕の言葉にゆっくりと左右に首を振る。

「アキ、あれはあなたのお母様の寝台です」

 僕だって、なんでもないときにサーシャがお母さんのベッドを使おうとしたら、きっとすごく嫌な気持ちになって、怒っていただろう。でも今は違う。サーシャはお母さんの部屋をいつも大切にしてくれていて、こんなに怪我をして辛い気持ちでいるときも窮屈で硬いソファの上で我慢しようとしている。――そんなサーシャだからこそ僕は、大好きなお母さんの部屋を、お母さんのベッドを使ってもいいと思った。

「いいよ。僕がいいって言ってる。お母さんもきっといいって言うから」

 僕は必死に訴えかけるが、サーシャはただ首を振って断るだけだった。やがて僕は、サーシャがただ遠慮しているだけではなく、ここからほんの少し移動することすら苦しいのだということに気づいた。

 サーシャはやがて、疲れ果てたように再び目を閉じた。普段はベリーの実みたいに赤い唇さえも真っ白くなっていて、僕はどうしようもない恐怖に襲われた。

 僕はソファの横にひざまずいて、泣きながら神様に祈った。神様、どうかサーシャを連れて行かないで。お母さんだけでなく、サーシャまでいなくなったら僕はもうどうしたらいいのかわからないから。

 人間の神様にお願いするだけでは足りないかもしれないから、ロボットの神様にもお祈りした。子猫なんかいらない。誕生日プレゼントなんかいらない。わがままなんてもう一生言わないし、あのぴかぴかの緑色の自転車だって、お店に返したって構わないから。だから神様お願い、僕からサーシャを取り上げないでください。

 いつの間にか部屋の中は真っ暗になって、僕はお祈りしているのか泣いているのかわからなくなっていた。

 ふと、ソファから二本の腕が伸ばされる。そのうち一本にはまだ大きな傷が残っているけれど、しっかりと僕の体を包み込み、ソファの上に抱き上げる。

 普段の冷たさが嘘のように、その手は、体は熱かった。

 そして熱い腕に抱きしめられたまま、僕はその晩はじめてサーシャと一緒に眠った。