僕と機械仕掛けの不在(7)

 そして、長いような短いような一週間は過ぎた。水曜から金曜はちゃんと学校に行ったし、心配そうな顔のベンには「サーシャにはバックアップがふたつあるから大丈夫」と笑ってみせた。

 毎晩寝室に戻ってから少しずつ「契約書」を読んだ。難しい言い回しばかりでいくら辞書を引いても理解できないことが多かったけれど、サーシャが前に言っていた「十八歳まで」というのが本当であることだけは間違いない。

 マーサは約束したとおり、最後の日にサーシャのエプロンをきれいに洗って畳んでくれた。

「じゃあ、また来週」

「うん。マーサもおじいさんも、またね」

 ぴかぴかの黒い車の後部座席に乗り込むと僕は黙ってしまう。ベネットさんが怖いからではない。顎をたたいたり、学校をずるやすみしたり、辞書を買いに行かせたりしたことを怒っているのかと心配だったけど、水曜の朝に会ったベネットさんは普段の姿に戻っていたし、ボードゲームに付き合ってくれさえした。

「口数が少ないですね」

 ベネットさんは心配そうにこちらを見た。

「あんなにサーシャと会いたがっていたのに、嬉しくないんですか? 心配しなくたって、点検もメンテナンスも無事に終わったと聞いています」

「……ちょっと疲れちゃったのかも」

 それ以上話をしたくなかったから、僕は目を閉じた。

 疲れたというのは本当。十八歳までの契約のことも気になっている。もちろん実際に会わないうちは本当にサーシャが無事かもわからない。家に帰れることが嬉しいのか怖いのか、それともただドキドキしているだけなのか、自分でもよくわからない。

 車はよく見知った道を走り、渋滞にも出会わないままに家についた。普段は僕を車から下ろすだけのベネットさんは、今日は一緒に階段を上って呼び鈴を押した。

「おかえりなさい」

 ドアを開くと、そこにはサーシャがいた。一週間離れていたなんて嘘みたいにいつもどおりの顔といつもどおりの格好。法定点検なんて嘘で実はずっと家にいたと言われたら信じてしまいそうなくらい、サーシャは完璧なだった。

「……ただいま」

 あまりに普段どおりの出迎えに僕は拍子抜けしてしまった。同時にこの一週間抱えていたもやもやがすうっと溶けていくような気がした。

「重いでしょう、荷物は私が片付けます」

 サーシャは僕の持っているかばんに手を伸ばす。指と指が触れた。いつもと同じようにひんやりと冷たいサーシャの指。

「検査証明を預かっているだろう。アキヒコ様の後見人としてラザフォード様に確認義務があるから持ち帰る」

「ええ、お待ちください」

 サーシャは僕の手を離すと、玄関脇の台に置いてある封印された大きな封筒をベネットさんに渡した。

 受け取りながら、ベネットさんはひとつため息を吐く。

「おいサーシャ、しっかり全部検査してきたんだろうな。法定点検以外での修理なんて勘弁してくれよ。俺は、おまえみたいなロボットとアキヒコ様がふたりで暮らすのはよくないと思っていたんだが、この一週間で気が変わった」

 サーシャは怪訝な顔をする。

「どういう風の吹き回しですか? 気味が悪いですね」

 すると心底うんざりした顔のベネットさんは身を乗り出して、少し声をひそめた。

「……ラザフォード様はアキヒコ様の夜更かしを許したし、火曜にはただの寝不足を腹痛だと言って学校を休ませた。あの方がこうも典型的な『孫に甘いおじいちゃん』だなんて思わなかった」

「……仮病ですって?」

「ああ。しかも夕食の後にマーサにチョコレートミルクを作らせているところも見た」

 ふたりは顔を見合わせてから僕の方をじっとみた。告げ口するなんて聞いていない。でも全部本当のことだから何も言い返せなくて、僕は気まずく目を伏せた。

 まだお説教と嫌味が続くのかと身構えていたから、ベネットさんのポケットから電話のなる音がしたときは心底ほっとした。

「なんだ、メンテナンス業者じゃないか」

「きっと私の受領確認ですよ。あなたずいぶんしつこく業者に進捗確認の電話をかけていたらしいじゃないですか」

「……アキヒコ様が心配するからだよ。まあいい、じゃあまた来週の日曜、いつもの時間に迎えに来るから」

 そう言ってベネットさんは、通話ボタンを押しながら部屋を出て行った。僕も一緒になって出ていきたい気持ちだったけど、サーシャに襟首を捕まえられてしまう。

「まったく、仮病だとか夕食後の甘いものだとか。そのくらい自分で断るくらいの分別をつけなさい」

「だって……」

「だってじゃありません」

 僕を置いてメンテナンスに行ったサーシャがいけないんだ、と言い返したかったけどがまんした。ベネットさんがサーシャに「依存」するのはおかしいことだと言ったからかもしれないし、マーサが「大人になるにつれて気持ちが変わる」と言っていたかもしれない――ともかく僕ははっきりとサーシャへの気持ちを口にすることをためらった。

 それに、僕はサーシャと離ればなれで一週間ちゃんと過ごせたことが誇らしい一方で、とても悲しかった。一週間離れていても平気なら、次は十日大丈夫かもしれない。その次は半月、一ヶ月、そして――もしかしたらマーサの子どもたちが家を出て行ったみたいに。

 だったら僕はずっと大人になんてならなくてもいい。サーシャが僕のものじゃなくなる日も、僕がそれを平気に思う日も永遠に来なければいいのに。もう朝のカフェオレだっていらない。ダイニングテーブルで、コーヒーを飲むサーシャの向かいでずっと麦芽ミルクやミルクティーを飲んでいたい。

 僕がそんなことを考えているのを知ってか知らずか、サーシャはダイニングテーブルに置いたかばんを開けて荷物を片付けはじめる。最初に取り出したのは黒いエプロンだった。マーサが洗って、アイロンをかけて畳んでくれたサーシャのエプロン、この一週間、僕は毎晩それをぎゅっと抱きしめて眠っていた

「あれ、キッチンに置いたはずのエプロンがないと思ったら、あなたのカバンに?」

「……あ! それは。えっと」

 思わず大きな声をあげると、サーシャの黒い目が僕をじっと見た。なぜ自分のエプロンが僕の荷物に混ざっているのか心底わからないと言いたげな顔だった。

「ま、間違えて入っていたのをマーサが洗ってくれたんだ」

 それ以上荷物を見られたくなくて、僕はテーブルに駆け寄るとかばんを取り返した。そういえば中には「契約書」のファイルも入っている。僕がおじいさんの家でそれを読んでいたことは知られたくない。

 サーシャは不思議なものを見る顔をしながらも僕を止めようとはしなかった。普段から「自分のものは自分で片付けなさい」と言っているから、僕が彼の言いつけを守ろうとしていると思ったのかもしれない。

「そうですか。じゃあ私は夕食の準備をしますから、あなたは荷物を片付けて、手を洗っていらっしゃい」

 キッチンに向かってシャツの袖をまくり上げると、サーシャの腕の真ん中には見慣れた大きな傷跡が現れる。前に、高い場所から落ちた僕を受け止めた拍子に負った傷。戒めのために消さずに残すのだとサーシャは言っていた。

 きっとサーシャがである限り、あの傷は消えない。だったら、もしも十年経ってお母さんとサーシャの契約が終わってしまったら。サーシャが僕のものではなくなるときがきたら――あの傷は消されて――そして僕じゃない誰かの家で、僕の知らない誰かのためにごはんやケーキを作ったり、もしかしたらその子を守るために別の新しい傷を負ったりするんだろうか。

 考えただけで嫌な気持ちになったから、僕はかばんをその場に投げ出すとサーシャに駆け寄って、後ろからぎゅっと抱きついた。

 シャツ越しに背中に顔を擦りつけると、石鹸と花と蜜を混ぜて薄くしたようなにおいがかすかに香る。これまでいくら注意してもわからなかった、もしかしたらこれがビビの言っていた「ロボットのにおい」で、サーシャのにおいなのだろうか。

「どうしたんですか? 料理中にまとわりつかないでください」

 僕がふざけていると思ったのか、サーシャは玉ねぎを剥く手を止めないままくすぐったそうに身をよじる。けれど今は何を言われても離れたくなくて、僕は離すどころか腕に力をこめて、体いっぱいにサーシャのにおいを吸い込んだ。

 

(終)
2020.02.27-2020.03.16