エピローグ

「本当に手伝いはいらないの?」

「大丈夫だって。近距離だし、荷物の上げ下ろしは全部引越し屋がやってくれるし」

 もう何度目かわからない問いかけに苦笑しながら同じ言葉を返す。母はそれでも不安げで、テーブルの陰に隠れたぼくの左脚にちらりと視線を投げかけた。

「でも、あっくんは脚が」

 つまり、片脚が義足の人間では引っ越し作業は難しいのではないか、と言いたいのだ。だがこの歳になって、ほんの数駅の距離を転居するだけのために田舎の親を呼び寄せるなんて聞いたことがない。

 それに今回の引っ越しは——

「そういうのは一緒に住む友達が手伝ってくれる。いいから母さんは余計な心配しないで黙ってて。あ、父さんはここに判子押して名前書いて」

 賃貸契約書の連帯保証人欄を指先で示すと、父は「ああ」とうなずいて署名押印をした。あとはこれを仲介業者に提出すれば、ぼくと宇田は無事ふたりで住むための部屋に引っ越すことができる。

「それにしても。一緒に暮らしてくれるっていうお友達にもご挨拶しておいたほうがいいんじゃないかしら? あっくんの脚のことでご迷惑もかけるかもしれないし。ねえお父さん」

 こちらのうんざりとした気持ちが伝わったのか、引っ越し作業の手伝いについてはあきらめてくれた母だが、すぐさま他の心配材料を探してぶつくさ言いはじめるからたまらない。

「だから大丈夫だって! 宇田くんもそういうの気にするタイプじゃないから! 第一、母さんはルームシェアの何たるかを誤解してるよ。宇田くんはぼくの介護をするために一緒に住むわけじゃないし、見ての通りぼくはもう普段の生活に人の助けは必要としてないんだから」

 宇田とぼくがふたりで暮らすことを決めたのは一ヶ月ほど前のことだ。

 修士二年目になれば、ぼくはいま以上に忙しくなる。宇田の生活にもちょっとした変化があり、一緒に過ごす時間を確保するためにも生活費の節約という意味でも、同居こそ一番良い選択だという結論に達した。

 男同士のルームシェアということで物件を探すのには少し手間取ったが、無事場所価格共に適当な部屋も見つかった。ただし学生のぼくと、働いているとはいえ契約社員の宇田なので、双方に保証人をつけるというのが契約条件。仕方ないので互いの両親に頼むことにした。

 すでに電話で了承はもらっているし、署名押印など郵送で済ませる手もあったが、久しぶりに両親のもとに顔を出すことにしたのは、順調に社会復帰を進めている自分の姿を見て欲しかったからだ。

 だがイメージというのは怖いもので、動作に多少の制限があることを除いてほぼ元通りに日常生活をこなせるようになったぼくの姿を見てもなお母は、「片脚切断という重い障害を負い、日々不自由な生活を送っている可哀想な我が子」のフィルターを取り去れないようだ。

「本当にあっくんの言うとおりならいいけど、心配させまいと強がってるんじゃないの? ……あら、お茶がなくなりそうね」

 相変わらず落ち着きのない母がキッチンに立つと、これまで黙って難しい顔をしていた父が苦笑する。

「母さんは心配性だからあんなことばかり言うけど、喜んでいるんだと思うよ」

「そうかな?」

あまねが大学に戻って、一緒に住むほど仲良くする友達もいると知って嬉しくないはずがない」

 友達——という表現が適切なのかはよくわからないし、かといって、恋人と呼ぶのも気が早い気がする。いずれにせよそういった事情を親に話す気は毛頭ないので、ぼくは「うん」とうなずいた。

 父は、キッチンに聞こえないように声をひそめて続ける。

「母さんはおまえのことをすごく心配していたんだ。どうして事故に遭ったのが自分じゃなかったんだって毎日泣いて、あちこちの神社やお寺にお参りに行って」

 こっそり聞かされる母の気持ちがくすぐったく嬉しい。精神状態の悪かった頃なら間違いなく「脚が生える奇跡が起こるわけでもあるまいし、そんなお参りに何の意味があるのか」と苛立っていただろうから、改めて自分の心はずいぶん落ち着いたのだと思う。

 ——もちろんそれは、宇田のおかげ。

 今朝も電話で話したばかりなのに、思い出すとまたすぐに会いたくなって、ぼくは父が記載を終えた部屋の賃貸借契約書を手に取った。誤りがないか念のため再確認して、汚れたり折れたりしないよう注意深くクリアファイルにしまう。

「じゃあ、引っ越しの準備もあるから、ぼくはもう」

 そう言うと、ちょうど湯のみを持ってキッチンから戻ってきた母が目を丸くした。

「えっ? あっくん、夕ご飯食べていかないの? お母さんもう、とんかつの準備しちゃったわよ」

 えっ、はこっちの台詞だ。長居できないことは事前にしっかり伝えてあったはずだ。だが、母は頑固だ。ぼくがどうしても帰るという意思を重ねて主張すると、最終的には微妙な譲歩を迫ってきた。

「長居できないって言ったって、久しぶりに顔を見せたんだから、せめてご飯くらい食べていくと思うじゃない。だったら三十分、三十分だけ待って。とんかつ揚げるから、持って帰りなさい」

 すると、味方だと思っていた父までも同調する。

「そうだ、駅までは車で送るから」

「父さんまで、そんな」

 でもまあ、揚げ物上手の母が作るとんかつの味を思い起こせば、東京に戻る電車を一本くらい遅らせたっていいかなという気もしてくる。

 やがてキッチンからはぱちぱちと油の跳ねる音と、揚げ物特有のいいにおいが漂いはじめた。そこでぼくは今日わざわざここにやって来たもうひとつの理由を思い出して、隣の部屋に足を向けた。

「どうした? 遍」

 仏壇に近づくぼくに、父が訊ねる。

「うん。これ持っていこうと思って。いいよね?」

 仏壇には、祖父母の写真。その隣には、ぼくの脚の骨が入った小さな骨壺が置いてある。墓に入れるなんて縁起でもないからと、持ち帰った母が置き場所をここに定めたのだ。

 いまとなっては、初めてこの白い包みを見た日のことが遠く思える。まだ手術から間もなくて、脚を失ったという実感はなかった。だから軽い気持ちで骨が見たいなどと言って両親を困らせたのだ。結局あのときは母に叱られて骨壺の中を見ることは叶わず、その後次第に現実の深刻さを知ったぼくは二度と自分の一部が火葬された姿を目にしたいとは思わなかった。

「でも、持って行って、どうするんだ?」

 怪訝な顔を浮かべる父に笑ってみせる。

「だってこれは、ぼくの一部だから」

「そうか」

 言葉少なにうなずいた父の声には安堵が滲んでいるように聞こえた。

 そう、これは間違いなくぼくの一部。そして、ぼくが宇田に捧げた〈欠落〉の残骸。だったらこんな場所ではなく、ぼくたちふたりと一緒にあることが自然なのではないだろうか。

 これを見せたら宇田は何と言うだろう、ふとそんなことを考えた。

 

 ある種の「和解」を果たしたあの雨の日からしばらく経って宇田の脚は回復し、動作の面に限れば完全に元通りになった。凍傷の跡も、もうしばらく時間はかかるものの、おそらく最終的には消えてわからなくなると言われている。残念ながら膝下の縫合の跡だけは残るだろう——と口にする医者は気の毒そうな表情を浮かべていたが、宇田は特に気にしていない。

 そして宇田はきっぱりとアルバイトをやめた。コンビニエンスストアと運送会社の両方とも。昼間のコールセンター勤務は続けながら、最近はよく資格スクールや専門学校のパンフレットを眺めている。

 無茶な働き方を止めたことや、貯金の新たな使い道を探していることは、彼なりになんとか「外国での闇手術」への願望にストップをかけようとしていることの現れなのだろうと思う。

 だからといって長いあいだ付き合ってきた強迫観念は簡単には消えない。相変わらず宇田は左脚への違和感を持ち続けているし、切断願望は少し落ち着いたり急に強くなったりすることを波のように繰り返しているようだ。

 ぼくもまた、同じだ。不完全な脚を認め必要としてくれる宇田と過ごすことで心身はかなり落ち着き安定してきたと思う。しかし、一見して義足であることがわからなくなるほどに、脚について他者に打ち明けるハードルは上がるし、何より就職活動への不安は大きい。

 ただ、ともかくぼくらはもう、ひとりではない。

 

 通い慣れたマンションの部屋の前に立ち呼び鈴を押すと、すぐに宇田が出てくる。

「真輔、ごめん遅くなって」

 彼を名前で呼ぶことには正直まだ慣れない。しかも、同じようにぼくを名前で呼んでくれといくら頼んでも、宇田は恥ずかしがるばかりで一向に実行してくれない。怪しむような関係ではないとわかってはいるが、宮脇のことを「笙ちゃん」と呼ぶのと比べると不公平だ。だったらぼくだって……と願ってしまうことは、決して欲深くはないはずだ。

「母さんが、どうしてもとんかつ揚げるの待てってきかなくてさ」

 手に持っていた紙袋を渡すと、宇田はくんくんと鼻をひくつかせる。

「本当だ、いいにおいがする」

「温かいまま持たされたから、電車で周囲ににおいが充満しちゃって、気まずかったよ」

 半分照れ隠しの愚痴をこぼしながら靴を脱いで、手を洗う。ずいぶん冷めたとはいえ、折角揚げてくれたとんかつだからできるだけ早く食べた方がいいだろう。

「保証人の話は、大丈夫だった?」

 コンビニで買ってきたキャベツの千切りとトンカツを大皿に盛りつけながら宇田が聞く。この部屋で一緒に食事を摂る機会が増えたからと、最近彼が自ら百円ショップで買ってきたものだ。

「うん、サインも判子ももらった。そっちは?」

 ぼくはインスタントの味噌汁を取り出して、プラスティック製の椀ににゅるにゅると絞り出しながら聞き返した。

「むしろ歓迎してるよ。今回のことはばれてないけど、おれは基本的に信用されていないからさ」

 おそらく宇田の両親もぼくの親と似たようなことを考えているのだろうと想像する。理解しがたい症状をいまも引きずっているかもしれない息子に親しい友人ができたことへの安堵——そして宇田の場合はとりわけ「誰かがそばで目を光らせていれば危険なことはしない」という期待もあるのだろう。

 一緒に暮らさないか、とぼくが切り出したとき宇田は驚いた顔をした。それからすぐに、言い訳のようにつぶやいたことをよく覚えている。

「心配しなくたってもう自己切断はやらないよ。それにバイトもやめたから、どれだけ脚を切りたくなったってすぐすぐ外国には行けない」

 まるで女学生が夢のパリ旅行を語るように、あっさりと闇手術の話をする宇田には苦笑するしかなかった。

 

「専門学校の学費も払ったら、本当に手術なんて遠い話だ」

 キャベツを添えたとんかつに味噌汁というのは、男ふたりの食卓にしてはなかなか豪華だ。相変わらず殺風景な部屋に間に合わせに買った折りたたみローテーブルを開いて食事を並べれば生活感があふれる。

 宇田は床に座り、まだ義足を外していないぼくは行儀は悪いがベッドに座って膝に皿を置く。

 とんかつに箸を伸ばしながら、「手術」という言葉にぼくの表情が揺らいだのに気づいた宇田は釈明するように付け加えた。

「あとさ、BIID患者の中には、実際に脚を切っても違和感がなくならないことがあるんだってさ」

「え? そうなのか?」

「うん、それがこの障害のよくわからないところで、だから事故切断や闇手術もある意味じゃ賭けみたいなものらしいんだ。だからおれも、脚を切りたいって思い続ける反面、無駄かもしれないって思うこともあって」

 イメージ通りの体になったところで満足しない脳。それは脳の描くイメージが間違っていたということなのか、もしくは肉体の変化に合わせて脳が再びボディ・イメージを変化させるということなのか。人間の心と体というのは実に不思議なものだ。そういうリスクについても考えながら、宇田の心はずっと揺れ動き続けて——きっとこれからも。

 そんなことを考えたところで、彼が言った。

「あのとき、ふと思ったんだ。もしおれが脚を切って、それが失敗だったとしても……でもそれで土岐津くんの苦しみを知ることができるのなら……いいのかなって」

 知らなかった本音がまたひとつ。

 宇田はもしかしたらぼくが思っていたより、そして彼自身が自覚しているよりずっと、ぼくのこと気持ちに強く寄り添ってくれていたのかもしれない。でも、それはぼくの望みではない。だから一度箸を置いて、改めて宇田の顔を見た。

「そうやって考えてくれていたのは嬉しいけど、もうこれからは絶対に、ぼくのためにっていうのはやめてくれ」

「……ごめん」

 体裁悪そうに宇田がうなだれる。素直な謝罪が愛おしくて、腕を伸ばして髪を撫でた。気持ちよさそうに目を細めた宇田は、それから神妙な顔をして言う。

「そうだね。それに安易に脚を切るなんて、不公平だし」

「何が?」

 不公平、という言葉の意味がわからずぼくが聞き返すと、宇田はいたずらっぽく笑った。

「だって、おれの脚は切ることができても土岐津くんの脚は生えてこないわけだし」

「なんか、そういう問題じゃない気がするけどな……」

 冗談なんて言う男じゃなかったのに、出会った頃に比べれば宇田はずっと明るくなった。そして彼の明るさは少なくともいまのぼくたちにとっては大きな救いだ。

 ダークグレーのスウェットパンツに包まれた宇田の左脚にちらりと目をやる。相変わらずぼくにとっては世界一美しい脚。しかし宇田にとっては違和感の塊で、「あるべきではない」もの。もし宇田がこの先も、どうしてもそれを受け入れることができないなら——。

「もしも。もしもどうしても脚を切りたい気持ちが消えなくて、それ以外に方法がなくて……いつか実行に移すとしたら、そのときは真輔自身が幸せになるためなんだって確信を持っていて欲しい。そうじゃなきゃ切られる脚だって救われないよ」

「……うん」

 うなずいた宇田は、どんな未来を見ているだろう。

 

 宇田が脚の切断を実行する、ぼく自身がそんな日が来ることを望んでいるわけではない。だが、これからもずっと「美しい脚」のもたらす違和感と付き合い続ける宇田がどうしても他に方法がないというならば、いつか彼の決断を受け入れる日がくるのかもしれない。そして、もしもそのときが来たならば、ぼくは宇田と一緒に行き、彼のすべてを見届けるつもりでいる。

 ぼくらが不器用に進む先にどのような未来が待っているかはわからない。だが、いまはもう少しだけあがいてみたい。ぼくと宇田とで、ふたり分の違和感を抱えたまま生きていくことができるのならば——きっとそれもまた、ある種の希望。

 

(終)
2020.04.15 – 2020.07.23