――西から〈王殺し〉がやってくる。
このところ王都には、そんな噂が流れているらしい。西の果ての蛮族が住む場所から、怪力を持つ大男が王を殺すためにやってくるのだと。
だがしかし、本当にそんな男がやってくるのか。そもそも西の蛮族にしたところで、その存在はまことしやかに語られているものの、彼らの住む場所は王都からあまりに遠くはなれているからこれまで誰ひとりとして姿を見たものはいないのだ。
ただの噂話だと笑い飛ばす者あり、王の身辺警護を厚くすべきと声を上げる者あり。とかく世は〈王殺し〉の話題で持ちきりだ。
「ですので陛下、決してここを出てはなりませぬ。宮中の警備は強化しておりますが、従者に紛れて怪しい者が入り込まないとも限りませんから、くれぐれもお気をつけください」
「はい」
白髪の筆頭賢者の言いつけに、〈少年王〉は素直にうなずいた。
彼はここでは「少年王」もしくは「陛下」と呼ばれる。そして「はい」と「いいえ」が、彼が人前で口にすることを許された言葉のほぼすべてだ。
例えば今、彼は内心では〈王殺し〉の噂についてもっとよく知りたいと思っているが、その希望を決して口にはしない。もしも〈王殺し〉が噂どおりの人並みはずれた大男なのだとすれば、そんな目立つ人間が誰にも気づかれずに宮中に入り込むことなど不可能に思えるが、誰もそのような疑問は抱かないのだろうか。
だが、聞いたところでどうせ教えてもらえるはずはないし、宰相や筆頭賢者が把握している程度の情報よりもきっと女官たちのおしゃべりに耳を傾けた方がずっと詳しいことがわかるだろう。だから〈少年王〉は目の前の年寄り相手に無駄な質問をしようとは考えない。
宰相も、国を支える賢者達の中で最も力を持つ筆頭賢者も、誰もがいつも〈少年王〉の質問を同じ文句で封じる。
――王は神、そして我らが国そのもの。陛下は替えのきかない尊い方なのですから、このような些事でお手を煩わすことはできませぬ。つまらぬまつりごとは我々にお任せくださいませ。
ものごとはあらかじめ何もかも整えられた上で、形式的に諮られる。そして、すでに答えすら準備されていることを理解しているから、いつだって〈少年王〉は彼らの期待のままに「はい」と答えるのだ。
〈少年王〉は、自分が王になってからどのくらい経つのか知らない。たぐり寄せれば、まだ王ではなかった時代の自分についてかすかな記憶が残っているような気がする。宮廷ではないどこかで親に抱かれ、当たり前の赤ん坊だった頃が自分にもあったような気もする。しかしそれはあまりに遠くうっすらとしたイメージだから「もし自分が王でなければ」という願望が作り出したむなしい幻にすぎないのかもしれない。永遠のように繰り返される単調な王宮生活の中で時間の感覚などとうの昔になくなった。
「陛下は生まれつきの王でいらっしゃる」
周囲からはずっとそう聞かされてきた。彼の左足首に巻きつく細い金色のアンクレットが王たる証明で、〈少年王〉はそれを身につけたまま生まれてきた。彼を産み落とした女はただの器にすぎず、だから王の証しを持って生を受けた赤ん坊はすぐさま王都に連れてこられたのだという。
だが、だとすれば彼が生まれるより前は、一体誰がこの国を治めていたのだろう。本当に自分は十五年前にこの世に生を受け、その瞬間から王として生きてきたのだろうか。
もちろん〈少年王〉の前には別の王がいた。だが今となってはその王については一切の記録が残っていない。人々は過去の話をしたがらないが、どうしても言い及ぼせずにはいられないときには目を伏せて、小さな声で〈旧い王〉と呼ぶのだった。
旧い、というのは今の〈少年王〉と比較した場合の呼び名であるから、〈旧い王〉には当時何らかの名前があったはずだ。しかしまるで忌み名であるかのように誰もその名を語ろうとしない。〈旧い王〉の年齢や性別、風貌はどうだったか。それは〈少年王〉同様に若く美しい男だったかもしれないし、もしかしたら腰の曲がった老婆だったかもしれない。しかし今となっては、それらのすべてはどうでも良いことで、なぜなら三百日続いた日照りの後で〈旧い王〉は民の手によって焼かれてしまったからだ。
この国で、王は神である。世のすべてを司る神であり、それはつまり王が国そのものであるということだ。この世のすべては王のもの、この世のすべては王に依るもの。民の喜びは、国の豊穣や富は王の善性ゆえに。民の悲しみは、国を襲う厄災や疫病は王の中の悪ゆえに。だから王はこの国のすべての喜びを、豊穣を、富を自らの功とする代わりに、悲しみを、厄災を、疫病を自らの責としなければならない。
長い日照りは王のため。それを裏付けるかのように、〈旧い王〉が焼かれたときに立ちのぼった煙は大きな黒雲となり、降りはじめた長い雨は七日七晩続いて国中の大地を潤したのだという。
それから十五年が経つ。そして――雨はもう百日もの間、降っていない。