2. 少年王

「さあ、お時間です」

 侍従長じじゆうちようが扉を叩き、〈少年王〉は覚悟を決めるように小さく深呼吸をしてから小さな声で「はい」と返事をした。

「お支度は調いましたか? 民は陛下のお姿にこそ希望を見出すのですから、こうして毎日彼らの前にお姿をあらわすことは大切な王の責務です」

 そんなことわかっている。うんざりした気持ちを隠したままで〈少年王〉が首を縦に振ると髪にかかった薄く透ける美しい布が揺れ、織り込まれた細かな宝石がきらきらときらめいた。

〈少年王〉は、毎日午後の決まった時間に王宮のバルコニーに立つ。これは王に課された務めのうち二番目に重要なものだ。昼間の短い時間だけ民衆に向けて開放される宮殿のには、あふれんばかりの人々が〈少年王〉の姿をほんのひと目見るためだけにつどってくる。彼らは王であり神である〈少年王〉の姿を目にするだけでご利益があり、祈りや願いを投げかければその神通力によって叶えられるのだと信じている。

 人前に出るときは常に美しくあるよう求められるから、侍女たちは毎日午前中に数時間もかけて〈少年王〉を風呂に入れた後で、その体に香油をまぶし髪に櫛を入れ、きらびやかな衣服を着せる。たくさんの女性に囲まれて裸の体をこすられたり人形のように衣服を着せ替えられたりすることはひどく恥ずかしくて本当は好きではない。だがそれを口にしたところでどうせ「それが慣習であり、王の務めです」と一蹴されるに決まっているから、彼はすっかりあきらめてしまっていた。

〈少年王〉の衣服。それは彼の姿を見るために集う人々が一生決して触れることのないような軽くて柔らかく美しい布を潤沢に使って作られている。〈少年王〉の王冠、腕輪やアンクレットその他さまざまの装飾品。それらは、たったのひとかけらで人々が一年も暮らせるかもしれない金や宝石を惜しみなく使って作られている。

 彼は贅沢な品々を当たり前のように受け入れ、一切の疑問を抱かずに暮らしてきた。なぜならそれ以外の暮らしのありようを知らなかったからだ。これらの品がどこから来るのか、王宮の外側で人々はどのような暮らしを送っているのか、そういったことのすべてと〈少年王〉は長い間隔絶されてきたのだ。だが、それも彼の治世がはじまって以来の干ばつが起こるまでのことだった。

 最近ではバルコニーの下に集う民衆は少し数が減り、その表情もずいぶん暗くなったような気がする。以前は賑やかに王の健康と国の繁栄を祝福していた彼らの声が、最近では雨と恵みを懇願するものへと変化してきた。さすがに罵声こそ聞こえないが、飢えて渇いた人々が自分の豪奢ごうしやな姿をどう思っているのか、〈少年王〉は密かに気にしている。

 憂鬱な十分間が終わり〈少年王〉はバルコニーを後にする。しかし、務めはこれだけではない。宰相が、筆頭賢者が、国の中枢で王を支える人々が機嫌を伺うように揉み手しながら近づいてくる。

「陛下、民の苦しみの声が聞こえましたか? これ以上日照りが続けば、ため池の水は尽き、川も井戸もれ、作物はすべてだめになってしまいます」

「既に雨は百日もの間降っておらず、王都の食料庫も底を尽きかけているとの報告を受けています」

「今日こそは、どうぞ王の、神のご慈悲を」

 毎日のようにこうして彼らは民の窮状を口々訴え〈少年王〉に慈悲を請う。

 しかし〈少年王〉は知っている。少なくとも王宮の食糧庫には、ここの人々だけでは三年かかっても食べきれないほどの食料が入っていることを。宝物庫には、遠く離れた隣国と貿易を行えば民がしばらくは生きていけるだけの水や食料を買うことのできる金銀や宝石が詰まっていることを。

「……あの、少しだけでも、ここの食糧庫から人々に分けるわけにはいかないだろうか」

〈少年王〉は彼なりの精一杯の勇気を振り絞った。「はい」「いいえ」以外の言葉を発するのなど数年ぶりかもしれない。だが、誰ひとりとしてその言葉に同意する者はいなかった。

「陛下、そのようなことをおっしゃってはなりませぬ。貯蔵された食糧には限りがあり、民すべてに行き渡るには到底及びません。根本的な解決にならないどころか、人々は限られた食糧を巡っていらぬいさかいを起こしかねません」

「この国の空はあなたさまの御心、この国の大地はあなた様の御身体。陛下の慈悲の心おひとつで、雨は降り大地は蘇るのです」

「さあ、王としてのお勤めを」

 そして、厳しい顔の宰相が一言付け加える。

「陛下、まさかお忘れではありますまい。長い干ばつの後で〈旧い王〉がどうなったか。あなたが民に慈悲を与えられなくなったときは、この国の存亡が試されるとき。そのとき人々は新しい王を求めるでしょう。そういった民の不安こそが、ここのところの〈王殺し〉の噂となっているのではありませんか?」

〈少年王〉は返す言葉もなくうつむいた。善なる王であれば、その祈りに応えて必ず雨は降るのだと誰もが口を揃える。だったら今、必死の思いで毎日祈りを捧げているのに雨が降らないのは祈りが足りないからなのだろうか。それとも自らの善性が足りないということなのだろうか。

 そして、もしもこのまま雨を降らせることができなければ――それは〈少年王〉が悪に魅入られてしまっているからで、やがて自らも〈旧い王〉のように焼かれてしまうのだろうか。