先生の受難(車内にて:その2)

「あ、あの……?」

 すぐに拒絶できなかったのは、何かの間違いだと思ったからだ。電車の揺れのせいで手がすべったとか、そういった事故。

 どれだけ電車が揺れようと上着の内側まで手が入り込むことなどありえないから、苦しい考えであることはわかっている。かといって自分の身に起こっていることを素直に認めたくはなかった。

 ドアと、男の体との間で押しつぶされそうになりながら、拒絶をこめて身をよじってみる。どうかすぐにこの手が離れていきますように、と祈るような気分だ。

 けれど爪先はシャツ越しに肌を探り続ける。それどころかやがて、ある一点で動きが止まると、再び小さく低い声が耳に吹き込まれる。

「なるほど、確かに

 同時に指先がぐいと、シャツの上からはわからないはずの場所を押した。ここまで露骨なことをされれば、さすがに相手の意図に疑いようはない。

「ちょ……っ、何ですかあなたっ」

「何って、さっきの高校生と話しているのを聞いて、どんなもんなのかなと思って」

「どんなもんって」

 盗み聞き……というのは正確ではないから立ち聞き野郎というべきか。いくら周囲に人がいる環境で話をしていたからといって、その内容をもとに絡んでくるというのは普通ならば後ろめたさを感じてしかるべき行為だ。なのに男はまるで患者を診る医者のように堂々と俺に触れ、言葉を継ぐ。

「この奥に埋もれているんだろ。見なくたってわかる、教科書に出てくるような見事な陥没乳頭だな」

 コンプレックスを指摘されて、かっと顔面に熱が集まった。そんな俺をさらに辱めるように、男は立てた爪の先をぐいっと亀裂に押し込もうとする。

「ん……っ」

「軽症ならば寒暖差やちょっとして刺激で顔を出すけど

普通ならば後ろめたさを感じてしかるべき行為だが、男はまるで患者を診療する医者のように堂々としている。

「見なくたってわかる。確かに、教科書に出てくるような見事な陥没乳頭だ。この奥に埋もれているんだろう」

 コンプレックスを指摘されて、かっと顔面に熱が集まった。さらに俺を辱めるように、男は指先をぐいっと亀裂に押し込んだ。

「ん……っ」

「軽症なら寒暖差やちょっとした刺激で顔を出すこともあるけど、これだけしっかり埋まってると、ちょっとやそっとじゃ出てこないな」

 こちらから男の顔を確かめることはできないが、窓ガラスに映り込んだ俺の表情は彼からは丸見えだ。爪を立てられた痛みで顔をしかめたこともばれてしまう。

「痛いのはお嫌いか? だったら別の方法にしてみようか」

 痛みは消えたものの、次に男は指の腹を使って乳首が埋まっているあたりの皮膚をすりすりと撫で擦りはじめた。痛いのは嫌だ。でもこれは、別の意味でまずい。

「やっ、やめて……」

 触れ方が俺の「自主トレーニング」に近いだけに、体はそれを快感と認識する。慣れた類いの刺激は他人によって施されると、強弱をつけるタイミングが予測できないだけに鮮烈さを増す。

 布越しのもどかしい刺激だが、男の指先は意外なほど繊細だ。優しく円を描くように動いたかと思えば強く押しつけるように薄い胸を揉みこみ、的確に弱点をついてくる。

「気持ちいいだろ。やっぱり寒さや嫌味なんかより、これが一番だ。……ほら、顔を出した」

 そう言われると同時に、胸から下半身まで突き抜ける感覚。

「っあ……っ」

 唇を噛んで何とか声を殺した。言われなくたって、見なくたってわかる。ちょうどぷくりと膨らんで割れ目から顔を出した俺の小さな乳首。普段隠れているだけに刺激には極めて弱い。

 ぴったりと背後に重なる男には、俺が快感に全身を震わせたことすら筒抜けだ。

「いい反応だ。やっぱり陥没乳首は敏感だよな。ピンク色に充血してコリコリに硬くなっているだろうに、直接見られないのが残念だ」

 わざと羞恥を煽るような言い方で、布越しに摘まんだ乳首をくりくりと弄る。体中から力が抜けそうになって、俺はぐっと額と拳をドアに押しつけて何とか体勢を保とうとした。

 追いかけるように背後からの圧迫が強くなる。

「なあ、さっきの子にも、こういう感じでやってもらってるの?」

 首を左右に振ろうとするが、上手く身動きが取れない。

「して、ない……」

「だったらどうして〈続きを〉なんて話をしてたのかな。学校の先生なんだろう? 嘘はいけないな」

「……!」

 咎めるようにきゅっと強く乳首をつねられて、痛みに身を縮める。

「ほら、本当のことを言って」

 勃起した乳首をひねられて冷や汗が出そうに痛いのに、同時にじんわりと股間が熱くなるのはなぜだろう。

 周囲に気づかれてはいけない。俺は必死で呼吸を整えようとする。背後にいるのはただの痴漢野郎で、俺は純然な被害者だ。でもそれは今この限定的な状況下での話で――もしもこいつを警察に突き出したとして、ホームで立ち聞きした内容を明かされたならば、俺も社会的に死ぬだろう。高校生をかどわかした淫行教師。世の中はきっとそう受け止める。

 一体どうすればいいんだ。そもそも俺の乳首なんか見たがった榎木が悪い。駅のホームでいかがわしい話をした榎木が悪い。かといってここにいないあいつを責めたところで何の解決にもならない。

 結局俺は、痴漢男に屈した。

「い、一度だけ。遊び半分だったんだ」

 あれは遊びどころか、俺にとっては本気でショックを受けた出来事だった。なのにあえて「遊び半分」と言ったのは、そうすることで男の追及が止むことを期待したからだ。それに少なくともあれは、榎木にとっては悪ふざけの延長だった。

 だが、男は追及を止めるどころか、俺の言葉を不謹慎だと責め立てた。

「遊びで生徒に乳首弄らせるんだ。ちーちゃんは、えっちな先生だなあ。さっきの子の制服、F高だっけ? F高に電話して、ちーちゃんって先生いますかって聞いたらすぐ身元わかるかな」

 ――最悪だ。

「や、やめてくれ」

 何よりも恐れていた直接的な脅しの言葉に、俺は完全に抵抗する気力を喪失した。

「君の目的は何だ。こんな、ひ、人を脅すような」

 声は震える。恐怖、情けなさ、混乱。血の気が引いたって不思議ない状況なのに、男の指が巧みに動くものだから体の熱がおさまらない。

「目的なんか特にないけど。ただ、偶然ホームで楽しそうな会話を聞いて、どんな可愛い乳首なのかを確かめたくなっただけで」

「だったら、もう満足だろ!」

 周囲に気取られないよう声を殺しつつ、できるだけ低い声色で拒絶の意思を伝える。すでにこの男は俺の乳首が陥没していることを確かめたし、弄り倒してすらいるではないか。一体これ以上何を望むというのか。

「まあ、こっちの当初の興味は満たされたっちゃ満たされたんだけど」

 短い沈黙の後で、男は俺の股間に後ろからぐっと膝を押し付けるような仕草をした。

「満足してないのはそっちだよな。ちーちゃん」

 馴れ馴れしい呼び方で勃起を指摘されて言葉を失う。

 まただ。榎木のときも、そんなつもりはないのに胸をいじられて昂ってしまった。家で自主トレをしてるときも途中から毎度自慰行為になってしまう。というか正直に告白するならば、最近では自分の胸を触るのは、陥没乳首改善と自慰行為のどちらが目的かわからないくらいだったりする。

 だから自分でも、胸を触られながら下半身が反応していることにはとっくに気づいていた。ただ、その事実を他人に指摘されることが、とんでもなく恥ずかしいだけで――。

 そうだ。電車内で痴漢に乳首いじられて勃起している。俺はとことん変態だ。

 と、自らの恥を認めたところで尻に押し付けられている熱くて硬いものにも気づく。変態は俺だけじゃない。この男もまた、電車内で同性に痴漢しながら勃起しているのだ。

「そ、そっちこそ変態じゃないか」

 必死の訴えは男を面白がらせる結果にしかならない。シャツ越しに乳首を摘まむ指の動きはますます大胆かつ繊細になり、ぐっと腰を押しつけられると俺の股間は電車のドアにこすれる。

「確かに変態だけど……」

 自らが変態であることを素直に認めた男の勃起が、尻の、ちょうど割れ目に沿うように押しつけられた。男の勃起なんて気持ち悪いだけなのに、今この異常な状況に興奮しているのが自分だけではないのだと思うと、俺の体温はさらに上がった。

「生徒とえっちな遊びして、電車内で乳首弄られながら勃起してる。ちーちゃんと俺と、どっちが変態かなあ」

 男の動きは巧みで、そこに電車の揺れという予測できない変化が加わる。普段の自慰行為とは比べものにならない快感が波のように押し寄せ、どうしようもなく高められた俺はほとんど涙目になっていた。

 放課後の教室で、誰かが入ってくるのではないかという恐怖と緊張感の中で榎木に触れられて射精した。今はあれ以上の危機的状況だ。

 電車がスピードを落とし、止まる。反対側のドアが開き人が出入りする気配があるが、男はがっちりと背後から俺を抑えたままだ。降りたのと同じだけの人が乗り込んできて、車内の混雑具合は変わらない。

 唯一の救いは、俺が触りまくられている間にも電車は順調に運行していることだった。あと何分か我慢すればこちらのドアが開く。そうすればやり返すなり警察に突き出す――ことはやはりできないが、少なくとも俺は解放される。ただ問題は、この体があと数分を我慢できるかどうか。

 再び速度を上げる電車の中で、俺はつぶやいた。

「もう、許してくれ」

「許してって?」

 聞き返しながら男は指先でピンと乳首を弾く。刺激は下半身に伝達し、海綿体に流入する血液量がまた増えたような気がする。だが……こいつだって犯罪者にはなりたくないはずだ。いくら変態男でも、そのくらいの理性と良識は残っていると信じたい。

 俺がもししてしまえば、こいつだって周囲に勘づかれるリスクを負うことになる。

「このままじゃ、出る……」

 惨めな告白は、ほとんど賭けだった。俺がここで射精すれば、おまえも迷惑するはずだ。

 だが、情けない脅迫を男は笑い飛ばした。

「出せば? 大丈夫、ばれないって」

 冷酷な返答に絶望がこみ上げる。

 確かにこいつの言うとおり、誰も気づかないかもしれない。帰宅ラッシュ時プラス振替輸送でこの上なく混み合った車内。イヤフォンをつけていたり、そうでなくとも皆ぎゅうぎゅうの車内でもなんとか目の前にスマホの空間だけは確保している。誰も周囲のことなど見てはいないのだ。

 もし射精してしまったとしても、それに気づくのは俺とこの男だけ。下着を汚して濡らして、解放された後で俺は暗闇の中、人に気づかれないよう恥ずかしさを抱えて家まで歩くだろう。それだけのこと。

 いや、それだけではない。俺の心は何か大きなものを失ってしまう――。

「嫌だ、こんなところで」

『次は……』

 ほとんど泣き声のような、懇願が口からこぼれると同時に車内放送が次の停車駅を告げる。

 あとちょっと。あとほんのちょっとだけ我慢すれば――微かな希望が見えたところでふと、これまでとは正反対の考えが浮かんだ。

 もし、このまま解放されたら? 弱い胸を弄られ、股間もぎりぎりまで張り詰めて、限界に近い状態でホームに放り出された俺はどうなるんだ?

 それはそれで、とても――。

「こっちのドア、もうすぐ開きます」

 俺の言葉を、男にはに受け止めただろうか。答えを知るまでに時間はかからない。

「だったら、このままフル勃起で放り出すのも可哀想だな」

 同時に男は、俺の両乳首を強くつねる。同時に膝で俺の脚の間を割って、後ろからぐっと陰嚢を押し上げるような仕草をした。それは最後の一撃だった。

「……うっ……」

 小さなうめき声とともに、下着の中に生ぬるく濡れた感触。周囲の人は誰も気づかない。万一聞きつけたとしても、満員列車で押しつぶされた男が苦痛のため大げさに声をあげたとしか思わないだろう。

 

 そして――電車は駅に着き、ドアが開いた。と同時に、俺は弾かれたように走り出した。

 毎日使う駅なので、ホームのどこにトイレがあるかはわかっている。

 個室に駆け込むとすぐにベルトを外し、ズボンと下着を下ろして中を確かめる。べっとりと濡れた精液はまだぬるぬると温かい。出したばかりだったため、幸いズボンまで染みてはいない。

 トイレットペーパーで性器と下着の内側を拭う応急処置を済ませてから、蓋をしめた便座のうえに腰を下ろす。

 ほんの数十分の出来事は、永遠のように長く感じられた。

「っていうか、夢じゃないよな」

 むしろ夢だったらいいのに。榎木との不謹慎な会話を聞かれて、それをネタに脅されながらの痴漢行為。顔は見られた。勤務先も知られた。名前はともかくニックネームも知られている。もしかしたらここが俺の自宅最寄り駅だということもばれてしまっただろうか。万が一あいつが待ち受けていたら、と不安だったので、しばらくそのまま居心地が良いとはいえないトイレで時間をつぶした。

 放心状態から俺を呼び戻したのは、ポケットに入れていたスマートフォンのバイブレーションだった。

 取り出して見ると、榎木からのメッセージだ。こいつこそが諸悪の根源だと思うと苛立ちが湧き上がるが、同時にほっとする気持ちもあった。死ぬほど不安で怖かった異常な状況から、ふっと普段の生活に引き戻されたような、そんな安堵。

 ――ちーちゃん大丈夫だった? そっちの電車すっげえ混んでたっぽいけど。

 大丈夫、という文字を見ていると涙がにじんだ。大丈夫じゃない。俺は怖かった。本当に怖かったんだ。でも、そんなこと言えないから普段どおりの返事を打つ。

 ――混んでたけど、平気。今駅に着いたとこ。

 それから、続けて。

 ――人の心配はいいから宿題ちゃんとやってこいよ。あとこの間の模試の記述も見直しておけ。全然できてなかったやつ。

 先生の顔をして、仕事のことで頭をいっぱいにして。そうすればきっとあんなことすぐに忘れてしまう。

 すぐに「了解」とアニメキャラクターの動くスタンプが送られてくる。妙に大人びたところのある榎木だが、こういうところは普通の高校生っぽい。

 そうしているうちに心が落ち着いてきた。腕時計を見る。トイレに逃げ込んでからもう三十分近く経っているだろうか。さすがに痴漢変態野郎ももういなくなったに違いない。

 そっとドアを開けると誰もいない。トイレの外に出るときも少し緊張したが、そこに広がっているのは完全に普段どおりの駅の風景だった。行き交う人々、誰もこちらを見つめてはいないし、不審な動きをしてもいない。ほっとすると同時に、どんな奴か顔くらい見てやれば良かったと後悔が浮かんだ。もちろんさっきはとてもそんな余裕はなかったのだが。

 少なくとも明日からは通勤バッグをバックパックに変えよう。電車ではリュックを前側に持つようにすれば、万が一また変態痴漢野郎と乗り合わせたって胸を触られることはない。

 そんなことを考えながら改札をくぐったところで、スマホがまた震えた。

 榎木からだろうか? 軽い気持ちで取り出すと、画面には見たことのないポップアップ。

 ――“E”が1枚の写真を共有しようとしています

 Eとは、榎木か? 写真や画像は普段メッセンジャーアプリで送ってくるが、高校生というのはいろんなものを試したがる。深く考えずに「受け入れる」をタップして、共有された画像を開く。

 次の瞬間、心臓が止まりそうになった。

 スマホに映し出されているのは、周囲を警戒しつつホームのトイレから出てくる俺の姿を、少し離れた場所から撮影した写真。ご丁寧に加工アプリで文字まで添えられている。

 ――また遊ぼうね、ちーちゃん。

 俺は周囲を見回した。

 学生、サラリーマン、それ以外。怪しく見える人物など誰一人としていない。でもこの中の誰かがさっきの痴漢なのだ。俺がトイレから出てくるまで数十分も見張っていて、写真を撮って、わざわざ共有してきた。

 逃げ出した後も監視されていた恐怖。

 また遊ぼうね、という不穏な言葉。

 とりあえず真っ直ぐ家に帰るのは良くない。どこかで暇を潰すか、いっそ電車に乗り直して他の駅に向かって痴漢を撒くか、考えながらため息をつく。

 榎木の突飛なお願いに端を発した俺の災難は、まだまだ終わりそうにない。

 

(終)
2021.11.08-11.17