先生の受難(車内にて:その1)

 音を立てて扉が閉まり、電車がホームから離れていく。

 教師らしい平然とした態度で見送ったつもりだが俺の心臓は激しく打ち続けていた。

 ――あいつが余計なことばかり言うから。

 すでにここにはいない榎木を心の中で呪うと同時に、高校生ごときにからかわれて動揺している自分を情けなく思う。

 よみがえるのは生々しい記憶。でも、あれは「たった一度だけ」の過ちだ。間違いなくそのつもりでいる。そもそも榎木があんな突飛なことを企んでいると知っていたら、「A判定をとったらなんでも言うことをきいてやる」なんて最初から約束しなかった。

 乳首を見せてくれなんて。しかも教師の、しかも男の。さらに言えば普段は皮膚の奥に埋もれている、不格好な「陥没乳首」。あいつは俺の最大のコンプレックスに土足で踏み込んできたのだ。

 かといって、同情の余地が皆無というわけでもない。あの年頃の男子は、受験勉強という人生を賭けた困難に立ち向かわなければいけない大事な時期であると同時に、ペニスと睾丸が本体で脳みそなどオマケ程度でしかない煩悩にまみれたお年頃でもある。

 受験のストレスと性欲の板挟みで、榎木は一時的におかしくなってしまったのだろう。そう考えた俺は大人の対応を心がけている。

 榎木にしたところで、あれ以降も言葉でからかってくることはあるものの、実力行使してくるわけでもない。二度と奴の口車に乗らないようこちらが気をつけてさえいれば、一度きりの過ちとして忘れられていくのだろう。

 そんなことをつらつら考えているうちに、ようやく俺の乗る電車がやってくる。

「……?」

 妙なことに、停止した電車は乗り込むのを躊躇するほど混雑していた。朝のラッシュや終電間際ならばともかく、なぜこの時間帯に? 電光掲示板に目をやると、どうやら運行を停止している路線の振り替え輸送を行っているらしい。

 一日の労働で疲れ果てた体で、押し合いへし合いの満員電車。罰ゲームのようで気が滅入るが、これに乗らなければさらに帰宅時間が遅れるだけだ。俺はすうっとひとつ息を吸って気合いを入れると、電車のドアに突進した。

 すでに人でいっぱいの車両は、新たに乗り込んできた乗客で寿司詰め状態になった。押したくて押しているわけではないのに、迷惑そうな様子を隠そうともしないOLが鋭い視線でこちらを睨み、さっと手を胸の前にやる。痴漢扱いされることにいい気はしないが、自衛してくれた方が気が楽ではある。

 なんせこちらは職業・高校教師。えん罪だろうが誤解だろうが痴漢の疑いをかけられれば社会的に終わる。混雑した電車ではできるだけつり革をつかむなどこちらとしても努力しているが、今日の混雑具合ではなかなか思うように位置取りできない。

 少しでも落ち着ける場所を探してもがいているうちに電車は動き出し、数分後に次の駅で止まる。出入りする人に流されるうちに、幸運なことに俺の体はすっぽりとドア横の空間に入り込んだ。しかもこちら側のドアは自宅最寄り駅までは開かない。つまり、しばらくこのまま安定した姿勢をとることができるということだ。

 俺はドアに正面からもたれかかるような姿勢をとると、ようやくほっとひと息ついて、中途半端なところで止まった考えごとを再開した。

 電車を降りたらコンビニで弁当でも買って、家に着いたらメシを食って風呂に入って、それから持ち帰り残業だ。小テストの問題を作っておかなければいけないし、ここ一ヶ月の模試の問題を見直して、今年の受験傾向の分析も――あれ、俺がさっき考えていたのはこんなことだっけ?

 うっかりそんなことを思ったのが運の尽き。結局また、余計なことを思い出してしまう。

 榎木の悪ノリのことは、百歩譲って忘れてやるとする。だが、それでも俺の目の前には別の問題が立ちはだかっているのだ。

 例の一件があるまで俺にとって陥没乳首とは、みっともなくて恥ずかしくて、誰にも見られたくないし自分でも可能な限り目をそらしたいものだった。

 第一俺は男だ。授乳をするわけでもないのだから、機能的には陥没乳頭を治す必要性などどこにもない。見た目が悪い、ただそれだけで医療やら怪しげな矯正器具やらに頼るという選択肢は、考えたことがなかった。

 なのに、榎木が「まめに刺激してやれば治ることもある」なんて言うから。しかも、実際に奴に触れられると、普段は奥ゆかしく埋もれている俺の乳首が顔を出しかつてないほどの自己主張をしてきたのだから――もしかしたら、という期待が生まれてしまう。

 つまりあれ以降、俺はときどき自分で自分の胸を触るようになった。

 確かに、刺激してやれば乳首は顔を出す。しかも回数を重ねるごとに、たやすく出てくるようになってきた。だが、それを改善と呼んで良いかは微妙だ。何しろそれは俺が望むような普通の、胸板に慎ましく張り付いている乳首とはほど遠い。

 埋もれた乳首はみっともないが、シャツ越しに透けたり浮いたりする乳首が特に若い女性からは白眼視されることも知っている。露出している状態に慣れれば、徐々に落ち着いてくるものなのか。それともやはり、勃起させない限り俺の乳首は埋もれたままなのか。悩みは尽きなかった。

 おそろしいことに、問題は他にもある。

 榎木が胸を触りながら下半身に手を出してきたせいで、俺の脳内には胸への刺激と股間の快感を結びつける厄介な回路が生まれてしまったのだ。

 高校生男子に一度手でしごいてもらっただけのことが忘れられず、自分の乳首をいじりながらあのときの快感を思い出したり、夢に見ることもある。乳首のコンプレックスゆえに人前で服を脱ぐことができず、それゆえに彼女の一人も作らずに生きてきた結末がこれなのだとすれば、あまりに悲しい。

 考えれば考えるほど最悪だし、変態じみているし、もしや自分は教育者失格なのではなかろうか……。疲れと電車の混雑のせいもあり、どんどん思考はネガティブに振れていく。

 そのとき――。

「……っ」

 ぐいと背中から押しつぶされるような圧迫感。それからそっとささやきかけてくる声。

「ちーちゃん」

「!?」

 そんな呼び方をするのは榎木くらいのものだが、あいつはさっき間違いなく反対方向の電車に乗っていった。何よりこの声は榎木ではない。ずっと低くて落ち着いた、大人のものだ。

「って、呼ばれてただろう?」

 声はそう言って、ふうっと俺の耳に息を吹きかけた。背筋にぞっと寒気が走る。

 誰だ……? さっき、ホームでの俺と榎木の会話を聞いていた? 近くに誰かいたっけ?

 電車のドアのはめ込みガラスには、背後から覆い被さってくる男のシルエット。だが外が暗いせいで顔まではわからない。俺よりは大柄で、体ごと背後からドアに押しつけられると身動きが取れない。ぐいぐい押してくるのは悪意なのか、それとも電車が混雑しているからなのか。

「あの……?」

 誰だかわからない男に生徒との話を立ち聞きされていた。しかもさっき榎木と話していた内容といえば「いいおっぱいの日」がどうとか、とてもではないが教員と生徒の会話とは思えないようなものだ。

 もしこの男が生徒の父兄、もしくは学校関係者だったなら。俺と榎木の教育的に正しくない会話を耳にして、怒りのあまりこんな状況にも関わらず俺に話しかけてきたのだとすれば。

 真っ青になって言い訳を考えていると、カーブにさしかかった電車が大きく揺れた。まるでその勢いを借りるかのように、男は一瞬浮き上がった俺の体とドアの間にするりと手を差し込んで――。

「……っ」

 スーツの胸元から忍び込んだ爪先が、カリッと胸元を引っ掻く感触に俺の体はおののいた。

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