「ちーちゃんの乳首が見たいんだよね」
窓からオレンジ色の光が差し込む夕方。いつもどおりの笑顔を浮かべて、いつもどおりの飄々とした口ぶりで榎木がそう言った瞬間、俺は凍り付いた。
他に誰もいない放課後の教室。「どうしてもわからないことがあるから」と言われ、時間外にマンツーマンでの補講を行ったその後だった。
「……」
「ちーちゃん? おーい、聞こえてる?」
そう言いながら目の前でひらひらと手を振られて、はっと正気に戻る。
いやいや、クソガキの冗談にまともに取り合う方が馬鹿馬鹿しい。それに、こいつがあの「秘密」のことを知っているはずなどないのだから。あわてて俺は「大人らしく」「教師らしい」平然とした表情を作り、榎木の額を指先で弾いた。
「あのな榎木。いつも言ってるよな。俺は先生なんだから、ちゃんと先生って呼びなさいって。親近感持ってくれるのは嬉しいけど、礼儀と線引きはちゃんとしよう」
痛みを感じるほどの力を込めたわけではないから、形の良い額の真ん中を手で押さえるのはただのポーズに決まっている。その証拠にすぐに榎木は年齢相応の子どもっぽい表情で唇を尖らせ、反論してくる。
「えー、でもかわいい呼び名じゃん。他の先生のことだってみんな陰じゃ、あだ名で呼んでるよ」
「陰で呼ぶくらい好きにしろ。でも、面と向かってはだめ。それがマナー」
「……ちーちゃん先生」
「それもだめ。ふざけてるだろ」
毅然とした態度を崩さずにいると、ようやくあきらめたのか榎木はため息をつきながら呼び直す。
「じゃあ、半井先生。これでいい?」
「なんだ、やればできるんじゃん」
半井智茅、と書いて「なからい・ちがや」。二十四歳のぺーぺー生物教師ごときを生意気盛りの高校生が本気で尊敬することなどありえないのはわかっている。特に、ここは少人数向け指導を売り文句にした私立高校の特待生クラス。一学年が二十人程度しかいない上に、その中でも「理系生物」などといったマニアックな受験科目を選ぶ生徒はほとんどいない。
俺の仕事のほとんどは、文理を決める前の一年生や、センター試験に必要だからと文系の生徒になまぬるい授業をすること。花の医学部・薬学部受験組も最近では物理化学を選ぶのが大多数で、とうとう今年の三年生で理系生物の授業を選んだのはこの榎木ひとりにだった。
マンツーマンの授業、そして時間外にやってくる「質問」。最近では他の教師や生徒から「半井先生は榎木専門みたいですね」と笑われる始末だ。
年齢に似合わない飄々とした雰囲気を漂わせる榎木は、それなりの成績はキープしているものの、そこから今ひとつ抜け出せない。今でもそこそこ難しい大学に受かるだけの学力はあるが、いわゆる「超難関」に挑戦するにはもの足りないのだ。
不遜な奴ではあるものの、今年唯一担当している理系の三年生なので、俺としてはなんとしてもこいつの成績を上げて名のある学校に合格してほしいと思っている。なんせここは私立高校。担当した生徒の進学実績はイコール俺の評価となるのだ。他の教師と比べて圧倒的に抱えている生徒の数が少ないゆえに暇だと思われている俺だから、もしも生徒の成績が上がらなければお役御免とも言われかねない。
だから「次の模試でK大のA判定取ったら、いっこお願い聞いて」と言われたときも、悩みつつ「しょうがねえなあ」と答えた。先月は、物理の田中先生が「定期テストで満点取った奴全員に焼き肉をおごってやる」と宣言し、実行したらしい。うらやましそうにその話をする榎木の姿を覚えていた俺は、「お願い」というのはせいぜい焼き肉とか寿司の話だろうとたかをくくっていたのだ。
安月給の若手教師ではあるが、酒も飲まない生徒一人に肉や寿司を食わせる程度の金はある。そんなもので榎木のモチベーションが上がるなら悪くない話だと思っていた。
だが、しかし――。
「で、半井先生。乳首見せて」
どうやらさっきの耳にしたのは聞き間違いではなかったようだ。呼び名だけ修正し、榎木は繰り返した。俺が硬直していると、模試の結果が印字されたペーパーをひらひらと目の前で揺らして見せる。
「お願い聞いてくれるって約束、忘れてないよね。K大の理学部生物学科。A判定」
「あれ、何の話だったっけな……」
「えっ、ひどい。まさか教師ともあろうものがしらばっくれて約束をなかったことにする気?」
そして榎木はブレザーのポケットからスマートフォンを出して、何やら操作をした。数秒置いて教室に響き渡るのは、あの日のやりとり。A判定を取ったらお願いを聞いてと言う榎木と、間違いなくそれに「しょうがねえなあ」と答えた俺。
「おい、録音してるなんて聞いてない」
「まさか、証拠がなければ逃げる気だったのかよ。大人って汚いな」
ずい、と榎木は身を乗り出し、俺のシャツの襟首に手をかけてくる。思わずのけぞって逃げを打った表紙に椅子が傾き、けたたましい音とともに俺は背中から床に転がった。そして、うっすらと笑みを浮かべながら覆い被さってくる榎木の指がふたたび一番上のボタンにかかる。
「ま、ま、待て榎木。落ち着け。椅子が倒れた音を聞きつけて誰か来るかもしれない」
その脅しに一定の効果はあったようで、しーっ、と指を唇に当てて榎木は一分ほど周囲に耳を澄ました。そして、誰の足音もしないことを確かめてとうとうひとつ目のボタンを外す。
「いや、人が来なきゃいいとか、そういうのじゃなくて」
「だって約束しただろ。半井先生、何でもいっこ言うこと聞いてくれるって」
「でもっ、それはラーメンとか焼き肉とか寿司とか」
「俺そんなこと言ってないよ」
それはそうだ。俺が勝手に榎木の願いを想像していただけだ。でもこの世の一体誰が、十七歳、高校三年生男子が男性教諭に聞いてほしいたったひとつのお願いが「乳首見せて」であるなどと想像するだろうか。
俺は榎木の手をつかんで止めようとするが、体格に勝るいまどきの若者は器用にもふたつみっつとボタンを外していく。インナーのTシャツの上に、淡いブルーのワイシャツ。その上には白衣。実験もしないのになぜ白衣を着るのかとよく聞かれるが、これがあればチョークの粉でシャツが汚れるのを防ぐことができるから――いや、今はそんなことを考えている場合ではなくて。
「だ、だめ。本当にそれだけは、だめ」
ワイシャツの前ボタンを外し終えて、インナーシャツの裾をめくり上げようと手をかけた榎木の手を今度こそ渾身の力でつかむ。その顔を見上げる俺の目はもしかしたら情けなくも涙ぐんでいるかもしれない。
「なんで、見るくらい。減るものじゃないんだし」
「いや、でもそれは本当にだめなんだ。そ、それに男の乳首なんか見て何が楽しいんだよ。何だったらおすすめのエロサイト教えてやるから、だから榎木、ちょっと落ち着いて……」
だって、中学校を卒業して以来人前で上半身を脱ぐことがないよう、ずっと注意してきた。水泳の授業がない高校を選んだのも裸の上半身を見られたくないからで、大学時代の海や温泉への誘いも全部断って――なのに、こんな奴に――。
しかし、俺の顔を見下ろしてにっこりと笑うと榎木は一言告げた。
「やだ」
そして、俺の手を引き剥がし、ぺろりとTシャツを首元までめくり上げてしまう。
「……見るな」
せめてもの抵抗で、俺は自分の顔を両手で覆った。榎木がそこをどうしても見る気ならば、力で劣る以上は抵抗はあきらめよう。俺にできるのは「そこを見る榎木」を見ないようにすることだけだ。
「なんで?」
問いかけてくる声色はさっきまでと少し違っている。艶っぽいというか、興奮しているというか。でも、一体どうして。男の胸、しかも俺のそこは……。
「変だろ、そこ。ガキのころよくからかわれたんだ」
答える声は震えた。
俺の乳首は陥没している。
インターネットで検索するとそこまで珍しい話ではないらしいが、小学校でも中学校でもクラスには他に誰一人乳首の陥没した男子はいなかった。男の乳首などささいなものだが、それがぎゅっと乳輪の奥に隠れているとなると、やはり目立たないわけはない。
水泳の時間、合宿の風呂の時間、でべそのクラスメートとともに俺は格好のからかいの的だった。中学校のときにこともあろうか女子のいる前で「こいつの乳首、埋まってるんだぜ」とからかわれ、今思えばあれが決定打だったような気がする。
「みっともないってわかってるから、見られないようにしてたのに……ひどい」
榎木が憎い。ここで教えるようになってからも、普段の学校生活ではもちろんそんな必要はないが、長期休暇中の学力強化合宿のときだって誰にも着替えや入浴を見られないようにしていた。なのに、こいつはどこかで俺の胸を盗み見たんだろうか。そして、からかうつもりで今、こんなことをしているんだろうか。
「違うよ、先生。誤解だ」
うろたえた声と同時に、胸元に温かい息が触れて背筋にぞくっと妙な感覚が走る。奴が俺の胸に顔を寄せていることは想像できるが、恥ずかしさと情けなさからそれを確かめることはできず、ただ現実逃避のためにぎゅっと目を閉じた。
「誤解でも何でもいい。もう見ただろ。からかうなり言いふらすなり好きにすればいい。とにかく、もう約束は果たしたからおしまいだ」
そう言って榎木の肩を押し返そうとしたが、再び腕をつかまれぎゅっと床に押しつけられる。今度は耳元に、ささやくような声が聞こえた。
「からかったりしない。それに、こんないいもの、他の誰にもいいふらしたりしない。だから先生は心配しないで。あとさ、まだ約束は終わってないよ」
こんないいもの? 怪しく耳元に吹き込まれた言葉の意味が理解できず混乱は深まる。ただのクソガキだと思っていた榎木の得体の知れなさに恐怖すら覚えはじめ、一体目の前にいるのはどんな奴なのかと俺はゆっくり目を開いた。
「やくそく……」
そこには、欲情に燃えた目をした男がいた。額が触れあいそうなほどの距離で俺の目をのぞきこんで、隠微に笑う。
「だって、俺は先生の乳首が見たいって言ったんだよ。でも、まだ先生の乳首は隠れてるよね」
え? と聞き返す間は与えられず、榎木は俺の左の胸に触れた。冷たい指の腹が突然乳輪をくすぐり、思わず喉の奥から変な声が出た。
「ひっ……ちょっと待って、榎木おまえ、一体何を。……あっ」
少しかさついた指の腹でくるくると撫でるようにそこをくすぐってくる。かつてはなんとか陥没乳首が治らないかと自分でそこをいじってみたことはあったが、そのときには感じたことのない奇妙な、性感にも似た感覚が腰のあたりから湧き上がる。これは、だめ。いけない。頭の奥ではチカチカと警告の赤い色がまたたく。
「だめ、だめっ。何してっ」
「何って、先生の乳首が見たいんだよ。ここに隠れてるんだろ。俺、二年の合宿のとき偶然先生が着替えてるとこドアの隙間から見ちゃって、そのときから気になってたんだ」
すりすりと少しだけ力を込めて擦られると、なぜか前進がむずむずしてくる。確かに寒いときなど、思わぬタイミングで陥没している乳首が飛び出すことはあるけれど、でもこんな風に誰かの手でというのは初めてだ。それになんだか今の状況はすごく、不道徳というかいやらしいというか、とにかくまずい。
「榎木、本当にこれ、だめ……ん、あっ」
抵抗する言葉に奇妙な吐息が混ざるのはなぜだろう。やがて榎木がそこを撫でる動きを止めたので、おそるおそる俺も胸元に目をやる。
普段は淡い褐色をしているそこが、薄いピンク色に染まり、心なしか少しぷっくりとしている。それだけでも妙に隠微なのに、榎木は人差し指と中指を使って、乳輪の中心をうっすらと横切る亀裂を左右に押し開いた。
「うわ、やらしい……」
押し開かれた場所の奥ですでに硬く膨れているそれを見て、榎木は息をのんだ。そして奴がおもむろに指先に力を入れると、それはかすかに揺れて、ぷくりと飛び出してくる。
「ちーちゃん、すっげえピンクで、震えてる」
「や、やめろよそういう言い方」
「ごめん。半井先生。先生の乳首、ピンクでぷるぷるしててすっげえやらしい」
今言いたいのはそういうことじゃない。けどあまりの恥ずかしさにそれ以上言い返すことはできなくなる。教え子に押し倒されて、長い間誰にも見せたことのない陥没乳首をいじられて、露出させられて、いやらしい言葉でなぶられて。頭が混乱して何も考えられなくなる。
それ以上に――。
「はあっ……あっ。やだ」
ふう、とひとつ熱い吐息を吹きかけられ、全身を震えが走る。熱く硬く勃起した乳首が敏感になっていて、榎木の息ひとつにも反応してしまうのだ。
「すげえな。包茎と一緒で、普段隠れてると刺激に敏感なんだな」
「んっ。だめだって、やっ」
ピンと指先で弾かれて、さすがに自分の体を走り抜けるのが性的な快感だということには気づく。ただのコンプレックスの根源だった乳首が、こんな風に扱われて、こんな感覚をもたらしてくるなんて想像もしなかった。でも。
「ああっ、嘘。何やって……」
チュッとそこに口づけられ、続いて生暖かく濡れた感覚が胸の先端を包む。榎木は赤ん坊が乳を吸うように、セックスのときに男が女の胸を吸うように、俺の平坦な胸の先に吸い付いていた。敏感な乳首を舌先でくすぐり、いじり、唇を尖らせちゅっと吸い上げる。普段は小さく縮こまっているそれがどんどん腫れて大きくなっていくようで、それはそれで怖い。怖いのに気持ちよくて、胸の上で揺れる榎木の頭を引き剥がさなければいけないとわかっているのに、できない。
「んんっ」
やがて、左胸に顔を埋めたまま榎木は手を俺の右胸に伸ばし、まだ埋まったままの右の乳首を掘り起こしにかかる。片方だけでも過剰だった刺激が倍になり、俺はもはや恥も外聞もなく榎木の頭をかき抱いて、熱い息とはしたない声をこぼすだけだった。
「先生、ここ触って」
まともな思考ができなくなった状態で、榎木の手を振り払うという判断はできない。導かれるまま手を伸ばし、触れたのは熱くて硬くてぬるりとして、ところどころ筋張っている何か。包み込むように握らされたところでそれは激しく動きはじめる。
「あ、先生。ちーちゃん、すげ、気持ちいい」
あれ、この手触りには覚えがあるぞ。こんなに太くも大きくもないけれど、俺も男だから、似たようなものを下半身に持っていて、数日に一度はそれをこんな風に握って、上下にしごいて。
「榎木、おまえ何やってんだよ……」
約束は、願いをひとつ叶えることだった、榎木は「乳首が見たい」と言って、決して納得したわけではないけれど、俺は結局それに応じることになって、それで終わるはずだったのに。なのにいつの間にか。
榎木は変態だ。
年上の男の陥没した乳首に興奮して、そこを触ったり舐めたりして下半身を硬くしている。でも、だったら、その変態に触られて舐められて喘いでいる俺は。その性器を言われるがままに握ってやっている俺は。
「ちょっと、黙ってて」
榎木の表情に残る子どもっぽさは、今ではあざとさとしか感じられない。本性を隠そうともせず、俺の左胸から口を離すと、奴は真上から俺の顔をのぞきこむ。そして拒む隙も与えてくれないままに赤い舌を出してちらりと俺の唇を舐めた。驚いて何か言おうとしたら、今度こそ噛みつくように唇を塞がれ、舌を絡め取られてしまう。
そして、あとはもう――。
*
「……願いをひとつ、って言ってたよな」
小さなうめき声を上げて俺の上で果てた榎木のぐったりとした重みを感じながら、恨み言を口にする。
「うん、まあ」
「見るだけじゃなく触って、しかも触らせて。ひとつどころかいくつだよ。約束が違うだろ」
「じゃあ、あれは『半井先生とえっちなことがしたい』だったということで……」
「そんな後出し聞くか。重い、どけ!」
ぺこんと頭をひとつ叩くと、気だるそうに榎木は体を起こす。Tシャツの裾を下ろしながら俺も上体を起こす。床に転がったスマートフォンをワイシャツの胸ポケットにしまってから改めて自分の状態を確認し、覚悟していたとはいえその惨状に頭を抱える。
「あーもう、なんだよ。人のズボン汚して。ったく、どうやって帰れっていうんだよ」
榎木が放った精液がべっとりと俺のズボンの腰のあたりを汚している。こんな格好で電車に乗れば、どこからどう見ても犯罪者だ。白衣のボタンを留めれば隠せないわけでもないけれど、白衣のままで電車に乗ったところで怪しさは変わらない。
さすがに申し訳なさそうに榎木が頭をかきながら隣の教室を指で示す。
「汚したのは悪かったよ。ちょっと待ってて、今日体育があったから、ジャージ持ってくる」
ワイシャツにジャージというのもいいかげんひどいが、汚れたズボンよりはまだましだ。俺がうなずくと榎木は自分のズボンを整えて、教室を出て行く。奴が戻ってくるとすぐに俺はジャージを引ったくり、後は用なしとばかりに右手を振って追い払う仕草をした。
「ジャージは明日洗って返すから。おまえはもういい。帰れ!」
「冷たいなあ、あんなに気持ちよさそうにしがみついてきたのに」
「そ、そんなの勘違いだ。しがみついてなんかない」
それでもしつこくにらみつけると榎木はあきらめたように通学鞄を取り上げ、教室を出て行く。そして、去り際に一言。
「ちーちゃん、そのズボン汚したの『俺の』だけじゃないよね」
廊下を足音が遠ざかり、完全に榎木の気配が消えてから俺はおそるおそるズボンの前を緩めて中を確かめる。自分の放ったものでべっとりと下着は汚れ、それどころかズボンの布地にも染み出している。
「……なんでばれたんだ」
陥没乳首を見られたことなんか今やどうでもいいくらい恥ずかしい。だって俺は、生徒に乳首をいじられて、自慰の手伝いをさせられながら、自分の性器にはまったく触れることないまま達してしまった。
おそるおそるTシャツをめくり上げる。さっきはあんなにいやらしく勃起していた乳首はすでにもとどおり、乳輪の下にひっそりと隠れてしまっている。汚れた下着とズボンすらなければ何もかも夢だったかのように。
でも――。
「……あっ」
突然右胸に刺激を感じて思わず変な声が出る。慌てて口をつぐみ、ワイシャツの胸ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。これまで胸ポケットの中でスマートフォンが震えたって何も感じなかったのに、まるでスイッチが入ってしまったかのように、些細な刺激にも体が反応してしまうのだ。おのれ榎木。これもあいつが妙なことをするからだ。
まずい。これは、ものすごくまずい。またひとつ、自分の体について情けない秘密が増えてしまった。
ため息をつきながらスマートフォンの待ち受け画面を見ると、そこには榎木の名前とメッセンジャーアプリのポップアップ。
「ちーちゃん。次にA判定とったら、またしようね」
思わずスマートフォンを床に投げつけかけて――しかし「ちーちゃん、またしようね」という言葉が頭の奥で、熱っぽい声で再生されると腰のあたりが再びずくんと脈打ち、俺は慌てて前屈みになった。
気をそらすためにひとつ、ふたつと数字を数え、化学物質の構造式を思い浮かべ、しかし脳裏にちらちらと揺れるのは榎木のあざとい笑顔。
「次の模試、いつだっけ……」
壁のカレンダーで模試の日程を確認し、結果が出るのはいつだろうかと俺は指を折ってみた。
体の熱は、まだおさまりそうにない。
(終)
2018.03.03