早くも冬の気配を感じる夜道を歩いて、駅にたどりついたところでホームに見慣れた人影を見つけた。右手をポケットに突っ込んで、左手だけで器用にスマートフォンを操作しているその姿は、俺が受け持っている生徒・榎木だった。
声をかけようとして一瞬の間があいたのは、制服の襟を緩めてだらしなく立つ姿が、まるでドラマの一場面のように絵になっていたからだ。高校三年生なんてただのガキ――自分の頃は確かにそうだったはずなのに、最近の高校生は見た目も頭の中も驚くほどませているような気がする。
「あれ、ちーちゃんじゃん」
ためらったせいで、顔を上げて俺の存在に気づいた榎木が先に声をかけてきた。
ちょうど帰宅ラッシュの頃合いでホームは混み合っている。スーツを着た男が学生に「ちーちゃん」と呼ばれるのを聞いた周囲の人々に好奇の視線を向けられた気がして頬が熱くなる。
「おい榎木、教師を変なあだ名で呼ぶんじゃないって何度言えばわかるんだ」
見知らぬ群衆へのアピールを込めて、俺は意図的に厳しい声を出した。
「だってここ学校じゃないし」
榎木はそう言って唇を尖らせた。
「くだらない言い訳をするな。それになんだ、校舎を出たからってだらしない格好でスマホに気を取られて。歩く人の邪魔になるだろう」
「うっさいなあ。ちゃんと端に寄ってるし、歩きスマホしてるわけでもないんだから、そんなにカリカリすることないじゃん」
しつこく言い返す榎木のスマートフォンを覗き込むと、SNSのタイムラインが表示されている。誰でも見られる場所に自分のプライベートを垂れ流すことの何が楽しいのかわからないが、今どきの高校生はほとんどが複数のSNSアカウントを持っている。中にはよろしくない素行やら過激な言動やらを実名で垂れ流す者までいるから、こちらとしては生徒指導の手間が増えるばかりだ。
「単語アプリでも見てるならともかく……」
半分は無駄な仕事を増やしてくれるSNSへの恨み、半分は本気の落胆からため息がこぼれる。
なんせ榎木は受験を控えた高校三年生。しかも第一志望は国内有数の難関大学。以前一度だけ――「何でも言うことを聞いてやる」という約束と引き換えにA判定を出したことはあるが、その後成績は元の水準に戻ったままで伸び悩んでいた。
「榎木、センターまであと何ヶ月かわかってるか?」
「二ヶ月ちょっと」
「直近の模試の結果は?」
「D判定」
飄々と答えながら小さな画面をスクロールしていく指先が、はっとしたように止まる。大学受験目前である現実に気づいたのかと期待したが、残念ながらそれは甘い考えだったようだ。再び顔をあげた榎木は整った顔を俺の耳元に寄せて、囁いた。
「ちーちゃん、今日何の日か知ってる?」
問われて、今度は俺が動きを止める番だ。文化の日はこの間終わったばかりだ。勤労感謝の日までにはもう少しある。
きっと榎木のことだから、いかにも雑学的な「今日は何の日」ネタを披露して俺を小馬鹿にしようとしているに違いない。だって「何でもひとつ言うことを聞く」という約束をたてに、あんな恥ずかしく屈辱的な行為を強要してきたくらいだ。
負けたくない。俺は眉間ぎゅっと力を入れて持てる知識と記憶を総動員する。十一月八日。何の日だ? いい夫婦の日……いやそれは二十二日。
「さーん、にー、いーち」
「ま、待て。もうちょっとで何か思い浮かびそうだから」
「ざんねーん、タイムアップ。では正解の発表です」
耳に注ぎ込まれる声は低く、小さくなる。
「いいおっぱいの日なんだって。ほら」
目の前に差し出されたスマートフォンの画面には「#いいおっぱいの日」というタグとともに胸を強調した女性の写真やイラストがずらりと並んでいた。「いいおっぱい」つまり「1108」との語呂合わせというわけだ。
「まあ、俺はこういうぼーんとしたやつより、ちーちゃんのみたいな奥ゆかしいやつが好みなんだけど」
「……」
言葉を失った俺は、握り締めた拳をぶるぶると震わせる。
なんだこいつは。受験直前なのに緊張感のかけらもないどころか、こんなものを見てへらへらしているとは。いや、思春期の男子なのだから、いくら勉強で忙しい時期だろうがこの手の欲望に悩まされる夜があることくらいは百歩譲って理解する。だが、なぜそれをへらへらしながら教師に見せつける?
「榎木、おまえ自分の置かれた立場わかってるのか? この時期にD判定で、でも志望校のレベルを落とす気はないって言ってたな。そのくせラストスパートをかける気配もなく『いいおっぱい』だと!?」
説教するうちについヒートアップして声が大きくなる。「おっぱい」と言う寸前に榎木が俺の口を手で塞いだので、ぎりぎりのところで変質者にならずには済んだ。
「ちーちゃん落ち着いて。声が大きい」
「うるさい。おまえが余計なことばかり言うから。グラビアだろうが萌えゲーだろうが好きにすればいいけど、せめてA判定とってからにしろ。それとももう浪人する覚悟を決めてるのか?」
きつい口調で問い詰めると、榎木は拗ねたような顔をする。
「いや、ちーちゃんが『あの続き』させてくれるっていうならA判定なんていくらだって取るんだけどさあ……やだやだって、つれないことばっか言うから」
そう言いながら、榎木の指先がトントンとスーツの上着越しに俺の胸元を叩く。
たった一度だけ、放課後の教室での淫らな時間。普段は肌の奥に埋まった敏感な場所を掘り起こされ、摘まれ、弄られ、吸われたこと。わけがわからないままに勃起した性器を握らされ、握られ、二人して達してしまったこと。恥ずかしい記憶が一気に蘇って俺は再び硬直する。
あんなこと二度とごめんだ。それにいくら若輩とはいえ一応は教師なのに、生徒とあんな淫らな真似をするなんて許されるはずがない。だから冗談めかして、たまには真顔で、榎木が「続き」をねだってくるたびに冷たくあしらってきたのだ。……もちろん内心ではひどく動揺しながら。
だってあんな風に触られたことも、あんな風に触ったことも、あんなに我を忘れてわけがわからなくなってしまったことも、初めてだった。今だって忘れられずにたまに夢に見てしまうのに、もし二度目があろうものなら――。
「模試じゃダメって言うなら、俺が第一志望受かったら続きさせてくれる?」
そう言った榎木の声は思いのほか真剣で、だから俺は彼の顔を見ることができない。「馬鹿言うな」といつものように教師の顔でごまかすべきか、それとも別の答えを探すべきか。
「えっと、あの、その……」
「3番線、電車が到着します」
冷たい風のせいか動揺のせいか、からからに乾いた唇を動かして何かを言おうとしたちょうどそのとき、頭上のスピーカーから電車到着のアナウンスが流れてはっとする。
あれ、いま俺は何を言おうとしてたんだっけ?
俺が乗るのとは反対側のホームに電車が滑り込んでくる。
「あ、俺こっち」
電車を待つ人たちがぞろぞろと動き始めると、榎木もまるで何もなかったかのように足を踏み出す。まるでさっき口にしたのはただの冗談で、返事なんて求めてはいなかったかのように。
まともに受け取ったこっちが馬鹿だった――そう思ったところで、電車に乗り込んだ榎木がこちらを向いて右手を挙げる。
「じゃあ、答えはゆっくりでいいから、考えておいてね。ちーちゃん先生」
その場で答えを求められなかったのは幸か不幸か。
少なくとも確かなのは――曲者の生徒に翻弄される悩ましい日々はまだまだ続く、ということだけだった。