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 陸がいなくなった。耳にした瞬間は、いかにも母親らしい、いつものオーバーリアクションだと思った。

 一卵性双生児の陸は、母の胎内から出てきたのが先であることから戸籍上は律の「兄」で、松江家の長男である。

 姿かたちはよく似ている二人だが性格はずいぶん違っていて、温厚で落ち着いていてルールを守り、地道な努力を得意とするのが陸。そして、感情の起伏が激しく直情的で、むら気があるものの集中力と行動力に優れているのが律だ。

 子どもの頃はよく教師に「なんでおまえが『律』なんだろうな」と首をかしげられた。決められたルールに素直に従う優等生の陸の方が『律』の文字にはふさわしいと、言われてみればそのとおりだと律自身すら思っていたほどだ。

 その陸とは高校からは別々の進路を歩んだ。

 双子だからと何でもかんでも比較されたり「同じ顔だ」と物珍しがられるのに嫌気のさした律が陸とは違う高校を受験したがったのがきっかけだった。だがきっと、口にしないだけで陸だって同じ窮屈さは感じていたのだろうと思う。表出の方法は違っても自分たちは心の奥底に驚くほど似通った部分を秘めている――律はそう感じていたし、進路を違えることは決して陸を嫌っているということを意味はしていなかった。

 律は私立大学の政治学部、陸は国立大学の理学部に進んだ。意外なことに先に実家を出たのは陸の方で、帰宅時間が遅くなることが増えた学部四年生の頃に「研究に集中したいから」と大学の近所でひとり暮らしをはじめた。

 当時の律は、抜け駆けして親の管理下から飛び出した陸をうらやみ、研究など言い訳で実は彼女でもできたのではないかと疑った。だが何度か遊びに行った陸の小さなワンルームはいつも整然――というか殺風景なほどで、目立った荷物といえばパソコンと学術書だけ。律の不謹慎な想像は的外れで、陸は親に申し出たとおり大学での学術研究に邁進していたようだ。

 大学卒業後すぐに就職して地方勤務となった律と異なり、陸は修士課程に進み、今年の春には博士課程に進んだはずだった。

 いまどき博士号取っても就職厳しいらしいし、修士で就職することも考えてはどうか? そんなアドバイスが頭をよぎったが、陸はそんなこと百も承知だろうし、スポンサーである両親も納得しているのであれば余計なことは言うまいと自制した。というか就職以来忙しく、帰京することもほとんどない律には家族とそんな話をする機会すらなかったのだ。

 まあ、松江家に一人くらい博士がいたっていいだろう。陸のことだからきっと大学院でもコツコツ真面目にやって、教授に気に入られて意外とすんなり大学のポストを手に入れるかもしれない。正直、双子の兄の将来については楽観していた。

 だが母は――その陸が「いなくなった」と言っている。

「……それって、何日か大学に出てこないとか、連絡がつかないとか、そういうこと?」

 病気で寝込んでいるとか倒れているとか、そういったことならば心配だが、だったらマンションを見に行けばいいだけだ。動転した母親が騒ぎ立てているだけだと思い込んだ律の反応は冷淡だ。

「違うの」と母は言った。

「一昨日の夜、大学の先生に退学するっていうメールが届いたんですって。驚いて連絡を取ろうとしたけど電話もつながらないしメールの返信もないからマンションに行ったら退去済。それで慌ててうちに連絡を」

「退去!?」

 退学したいというだけなら、研究や論文に行き詰まった学生によくある……とまでは言えないが、まれにはあることかもしれない。だがマンションをすでに引き払っていると聞いて、律も姿勢を正す。もしかしたら「いなくなった」というのはおおげさでもなんでもない事実なのだろうか。

 連絡を受け驚いた両親も陸の番号に電話をかけたり、知る限りの連絡先に接触を試みた。だが陸の携帯電話はすでに解約されており、SNSなどメッセージがやり取りできるサービスはすべて退会済。退去したマンションの管理会社に転居先として届けていたのは実家の住所電話番号であるため、陸の行き先はまったくわからない状態であるらしい。

 そして――。

「今朝、うちのポストに陸からの手紙が届いていたの」

 封筒には、あとは保護者と大学教員の署名を入れるばかりの状態の退学届と、短い手紙が入っていたのだという。

 自分は学問や研究よりも大切なものを見つけたので、その道に進む。家族や友人、先生などこの世で出会った人や支えてくれた人たちには深く感謝しているが、自分は今後は現世での使命を果たすために生きることに決めた。心配する必要はないので、追わないで欲しいし探さないで欲しい。

 母が読み上げた内容はあまりに荒唐無稽で、真面目で現実的な陸の性格ともかけ離れているようで、思わず律の顔には失笑が浮かんだ。

 これは悪い冗談なのではないか? 陸がそんな悪趣味なことをするとも思えないが――誰かにそそのかされているとか。第一「現世」とか「使命」とか、漫画やアニメじゃあるまいし。

「母さん、落ち着いてよ。陸がそんな文章書くようには思えない」

 優しい陸、真面目な陸。律と違って親を心配させることもなく、二十五年間生きてきた陸。その彼がおかしな手紙を残して失踪? あり得ない。

「ほら、大学の友達と悪ふざけしてるとか。もしかしたら――あいつ奥手だから、彼女ができて入れ込みすぎておかしくなっちゃったとか。そういうことはあるかもしれないけど、なんにせよ一過性だよ。きっと、すぐ連絡がある。俺からも当たってみるからさ……」

 空虚な言葉が饒舌に口からこぼれおちるのは、不安を打ち消すため。

 三年間の地方支社勤務、主に事件記者として活動する中で律は、ほとんどの失踪や行方不明事案は数日中に解決することを学んでいた。「親子げんか」「夫婦げんか」「借金問題」「病気を苦にして」、人が姿を消す理由は様々だが、大抵は何日か経つうちに冷静になる。もしくは行き先を見つけられなかったり――ときには死にきれなかったりで戻ってくるか、警察に発見されるのだ。

 もちろんごくわずかな確率で自死してしまったり、そのまま見つからなかったりということもあるが、いざ自分の身内が行方不明になったと聞かされて、そういった「例外的な不幸」を思い浮かべることは難しい。

 母親を、それ以上に自分自身を元気づけるように無駄に明るい声を出す律だが、電話の向こうから聞こえてくるのは深いため息。

「それが、心当たりがないわけでもなくて」

「なんだよ! 心当たりあるなら先に言えよ」

 律はがっくり肩を落とす。母親とはどうしていつもこう、順序立てて話すことができないものなのか。だが続く母の言葉に、すっと背筋が寒くなる。

「先生が言うには、陸はずいぶん前から妙な団体に出入りしていたらしくて。よくわからないけど、カルトとか宗教とか、そういう感じの。先生や周囲の学生さんたちも、変な団体に関わらない方がいいって散々言ったけど聞かなかったんですって」

「……カルト?」

「ええ、その人たちが山奥で集団生活を送ってるんですって。もしかしたら陸はそこにいるのかもしれない。新聞記者のあんたなら、その団体について詳しいことを知ってるんじゃないかと思って」

 一気に話がきなくさくなった。