ウィーン再訪編(4)|1961年・ウィーン

「そろそろ寝るか」とユリウスに声をかけられ、ニコはソファに座ったまま、すでに自分がうつらうつらしていたことに気づいた。

「あれ……僕」

 じっと見つめてくる緑の瞳はいつもと同じように優しい。

「長旅だったから疲れてるんだろう」

「君もね」

 それだけではない、ヒーティングの十分とはいえない自宅とは違ってこの部屋は過剰なまでに暖かい。自分には果たしてこんなにも歓待してもらうだけの価値があるのかと、うっすらとした罪悪感を抱いてしまうほどに。

 寝室は、部屋を案内されたときにも見た。ベッドはふたつ。決してそのことにがっかりなどしてはいない。ハンスはニコとユリウスの関係をはっきりとは知らない――察しのよい彼が何かを感じているかどうかは別問題として、少なくともこちらからきちんと伝えたことはないはずだ。だから、大きなベッドがひとつだけある寝室ではなく、ふたつの寝台が並んだ寝室を備えたを予約するのは当たり前かつ常識的なことだ。

 第一、ユリウスと暮らすハンブルクの部屋だってベッドはふたつ。もちろん今目の前にあるものよりはずっと小さな、どちらかといえば昔ウィーンで暮らしていた部屋で使っていたものに近い質素なものだ。

「……やっと体を伸ばして寝られるな。列車の中でもうとうとしたけど、座ったままだと寝た気がしない」

「そうだね。とりあえずお互い疲れを取らなきゃ」

 もちろん今日、こんな感傷だらけの夜に抱き合いたいなどと思っているわけではないけれど、それでもニコはどことなく複雑な、寂しさの混ざった気持ちで糊のきいたシーツの内側に体を潜り込ませた。

 本当は気づいている。ウィーンに近づくにつれてユリウスの口数が少なくなったことに。部屋に二人きりになってから視線を合わせようとしないことに。

 ニコとユリウスは五歳の頃に出会って、十四歳のときにニコが故郷のハンブルクから脱出し、離ればなれになった。

 アウシュヴィッツ強制収容所で再会したのは十八歳の頃で、その約二年後に戦争が終わった。その間ユリウスはずっとニコにとっては家族のかたきであり続けた。憎い男はニコを呼び出しては残酷な言葉を投げつけ、粗末な小屋で痩せぎすの体を組み伏せて抱いた。「ここにいる面白みのかけらもない女たちよりはマシだ」と露悪的な言葉を吐く彼の真意をニコが知ったのはずっと後のこと。

 いや、ユリウスは今もニコに対して真意を明かしてはいない。過去の君のことをすべて知りたいとニコがいくら訴えたところで彼は、当時の本当の気持ち――もともとはあんなにナチを嫌っていた彼が親衛隊入隊を選び、決して人気があったとはいえない収容所勤務を選んだのがニコのためであったとは認めようとはしない。

 ――これからの人生はすべておまえに捧げる。

 出所してからしばらく経って、ようやく肌を重ねた夜にユリウスはそう言った。ニコはそれをはっきり「違う」と否定したはずだった。「これから」ではなくずっと前から、それこそ幼い日にユダヤの血を理由にいじめられるニコを庇ってくれた頃から、ユリウスはあらゆることを犠牲にしてニコを守り続けてくれていたじゃないかと。

 ニコは理解している。収容所でのユリウスの冷たい態度は、自分がレオを死に追いやったという誤解による自罰願望の現れだったことを。家族を失い投げやりになっていたニコに生きる目的を与えるために、敢えて憎しみを煽るようなことばかり口にしていたことだってすべてわかっているのに。

「離ればなれだったあいだのことをすべて聞かせて欲しい」と言ったときユリウスはうなずいたが、それは実現していない。だが一緒に暮らす時間を重ねるにつれユリウスの抱く罪悪感の根深さを知るようになったニコはもはや、無理やりに彼の傷をえぐるような気持ちにはなれない。

 戦争は誰しもを傷つける。ニコの中にも、戦火で家族や友人を失った――とりわけ今では〈燔祭ショアー〉もしくは〈ホロコースト〉と呼ばれる蛮行により両親と兄妹を失った傷痕ははっきりと残っている。それと同時に、地獄のような時代の中で向き合うことを避けられなかった自分自身の愚かさや残酷さ、家族や同胞を犠牲とすることで生き残ってしまったという生存者の罪悪感サバイバーズ・ギルトもまた原罪のように魂に張り付いている。

 少なくとも歴史上では紛れもない被害者に分類される自分ですらこうなのだから、ユリウスが抱えているものは底知れない。それをひとつひとつ聞き出したところでニコには許しを与えることもできないのだ。

 だから、彼が触れられたくない部分についてはそっとしておく。もしかしたらダミアンにまつわる出来事のように、何かの拍子にユリウスがニコに話したいと思うことがあるかもしれない。そのときにはできるかぎり受け止めて、分かち合う。できることはそれだけだ。

 時間が解決することもあるし、もちろん一生背負っていくべきこともある。そして――自分の足を踏み出すことで救われることも、もしかしたらあるのかもしれない。

 本音を言えば、ときどきひどく寂しくなるのだ。

 ニコはユリウスのことを愛している。

 ユリウスもニコのことを愛している。

 なのにどうして、相手の顔を見て、肌に触れて感じるのが純粋な喜びだけではないのだろうか。そうしていつまでも、互いに対する終わらない贖罪の感覚が消えないのだろうか。

 ニコからすればほとんど無関係であるとしか思えないほど遠い因果関係だが、ユリウスは今も彼がニコの大切な家族や友人を奪う一端を担ったと信じている。それどころか彼は、戦後にニコが記憶を失った彼に対して独断で行ったあれこれ――身分詐称や、逃亡――により刑罰を受けたことすら、自分の責任だと思っているのだろう。

 一方のニコも、鈍感な自分が長い間ユリウスの好意を一方的に利用していたのではないかという苦い思いを捨てられない。

「ねえ、ユリウス」

 ニコが声をかけると、隣の寝台のユリウスが身じろいだ。窓の方を向いて横たわっているから見えるのは枕の上の鳶色の頭だけ。

「何だ?」

「……僕がどうしてずっとウィーンに来たかったかは、知ってるよね」

「嘘をついたまま姿を消してしまったことを引目に感じているからだろう。世話になった人たちに謝罪とお礼を伝えたいって、何度も聞いた。俺も同じ気分だよ」

 それだけではない、という言葉を飲み込む。せっかくこんなに穏やかな気分でいるのに、ここで余計なことを言いたくはない。それに――きっとわざわざ言わなくたって、ユリウスだってニコと同じことを考えているのだ。

 レオとニコとして、兄と弟として歪な日々を過ごしたウィーンはふたりにとっては特別な場所で、だからこそいつかはここに戻って精算をする必要があった。ただ、長旅で疲れている今夜がそのときではないだけで。

 ぼんやりと考えていると、会話が途中で打ち切られたことを不審に思ったのかユリウスが寝返りを打ってこちらを向く。

「ニコ?」

「ごめん、なんでもない。そう、明日はいろんな人に会うんだもんね。ちょっと緊張するから、今日はゆっくり休まなきゃ」

 そう、自分たちのことについて話すのは後からでいい。ゆっくり眠って明日、もしくは明後日。ニコは枕元のランプに手を伸ばす。

「灯りを消すよ」

 一瞬の間、それからユリウスは珍しいことを口にする。

「……豆電球だけつけておいたら、邪魔になるか?」

 普段は寝る前に寝室を完全に消灯するからニコが明るいと眠れないと思ったのかもしれない。決して押し付けがましい言い方ではなく、ユリウスは微かな光を残すことを望んだ。

「うん、そのほうがいいね。お手洗いに起きるかもしれないし」

 ニコはうなずいて、ぼんやりとしたオレンジ色の豆電球だけを残して灯りを落とす。きっとユリウスは今暗闇を恐れている。そんな気がした。