ウィーン再訪編(3)|1961年・ウィーン

 案内されたのは街が見晴らせる高層階にある広々とした部屋だった。ホテルなのにリビングと寝室がわかれているし、バスルームだけでもニコとユリウスの寝室ほどの大きさがある。

 部屋の設備を説明される間もほとんど返事もできずに間抜けに首を縦に振るばかりだった二人は「何かお困りのことがあればいつでもお呼びください」という言葉を残しベルボーイの姿が消えたところでようやく息をつくことができた。

「ユリウス、ハンスって……」

 続きはうまく言葉にならなかったが、伊達にずっと一緒に生活しているわけではない。ユリウスはニコの言いたかったことを察した様子で「ああ」とうなずいた。

「確かにそれなりに成功はしているんだろうと思っていたけど、大画家だなんて吹かすのは、あいつらしい大袈裟な物言いだとばかり思っていたよ」

 だがハンスの成功、そしてこの界隈での影響力というのはどうやら自分たちの想像をはるかに超えていたらしい。

 よく見ると大理石のテーブルの上には小さなバラの花束。「ちょっとは驚いてくれたかな?」というメッセージカードまでも添えられている。半分の善意と半分のいたずら心、いかにも彼らしい。

 ナチが台頭してユダヤ人の経済活動が制限されるまではニコはそれなりに裕福な家で育ったし、ユリウスの父だって空襲で資産のほとんどを失うまでは工場を経営していた。しかもその工場は戦争の特需もあってずいぶんと儲かっていたはずだ。だが、幼少時代の家族旅行を振り返ったところでこれほどの待遇を受けた記憶はなかった。

「それにしたって、やりすぎだ。明日会ったら文句を言ってやらなきゃ」

 苦虫を噛み潰したような顔のユリウスは、同時にハンスのいたずらを楽しみ喜んでいるようにも見えて、それはニコにとっても同じことだ。

 部屋は二人の到着前から暖められていたようで、外にいたときと同じままの格好では暑さを感じるほどだった。コートを脱いで身軽になると、張り詰めていた気持ちも緩み始める。長旅の疲れを体から追い出すように一度大きく伸びをして、ニコはゆっくりと大きな窓に歩み寄りレースのカーテンを開いた。

 道路に面した窓を開き、テラスに一歩踏み出す。きっと敢えての配慮なのだろうが、テラスからはオペラ劇場の緑色の屋根が見える。視線を少し遠くにやれば、シュテファン大聖堂の尖塔も視界に入ってきた。

 いつの間にか、ユリウスもニコと共にテラスに立っている。

「寒くないか?」

 問われて首を左右に振り、しかしせっかく暖まった部屋を冷やしてしまうことに罪悪感があり、ニコはテラスから室内に戻ると窓を閉めた。だが、久しぶりの――いや、はじめて・・・・見るウィーンの景色はあまりに魅力的で、その場から動けず外の光景を眺め続ける。

「こんなふうにウィーンの街を眺めることができるなんて」

 駅舎から出たときも同じことを感じたが、こうして改めて華やかな街並みを眺めれば感慨はことさらだった。

 あの頃の二人は中心部からは離れた場所にある一軒家の、薄暗くじめじめとした部屋を間借りしていた。敗戦翌年の占領下では物資も燃料も乏しくて、寒さに震え、自分たちで湯を沸かすことすらできなかった。それでも正規の身分証を持たない難民の「兄弟」にとっては、住む場所を与えてもらえるだけでも僥倖ぎょうこうだったのだ。

 ユリウスについているあまりに大きな嘘や、それが暴かれることがおそろしくて、仕事がないときでもニコは頻繁にひとりで外出をした。ユリウスから目を離すことは不安だったが、狭い部屋に二人きりで過ごすのも気詰まりだった。とはいえ行く場所もないし、あてどなく街をさまようだけだ。このあたりも徒歩で歩くことはあったものの、建物に足を踏み入れることなど考えもしなかった。

「時間があれば、観覧車にも乗りに行こうか。ニコも上からの景色は見たことがないよな」

 ユリウスが言う。戦争被害を耐え抜いたプラーター公園の大観覧車のことだ。世界で一番大きな観覧車なのだと誇らしげに紹介してくるウィーン市民もいたが、あの頃は些細な遊具に使う金すら持っていなかった。

「見たことあるよ」

 ニコが返すと、ユリウスは驚いたような表情を見せた。

「誰と?」

 不安な表情は、かつてのニコがまだユリウスの知らない一面を隠し持っていると思ったからなのかもしれない。ニコは、ふふと笑ってすぐに種明かしをした。

「乗ったわけじゃないよ。西ベルリンにいた頃に、映画館で『第三の男』を観たんだ。オーソン・ウェルズとジョゼフ・コットンが観覧車のゴンドラで話をする場面があった」

「なんだ、映画か。俺の知らないところで誰かと乗ったのかと思った」

 ユリウスは拍子抜けしたように息を吐いた。

 ハンスは夕食のためホテル内のレストランの予約までしてくれていたようだが、これ以上気疲れしたくないので軽食を部屋まで運んでもらって済ませた。

「明日、お出かけの際もレセプションにお声がけください。車の用意をいたしますので」

「ありがとうございます」

 食器を下げに来た男は明日の予定についてまで気を回してくれていた。すっかり変わってしまったウィーンに過去の土地勘は通用しないだろうから、正直配車にまで気を回してもらえるのはありがたい。

「至れり尽くせりで申し訳ないね」

「あいつには恩がありすぎて、弁護士費用だって結局まだろくに返せていないのに……」

 元親衛隊員である記憶を取り戻した後で自ら出頭したユリウスは、過去に対する罪の意識やニコを失った絶望から自暴自棄になっていた。そんな彼を説得し、裁判のための弁護士をつけたのもハンスだったと聞いている。ユリウスには分割でも、なんなら体で返すのだって構わないと言っていたようだが、きっと本人は受け取る気もないのだろう。

「僕だって。もちろんハンスだけじゃなくて……」

 ニコは改めて振り返る。

 今ここにニコが立っていられるのは、ハンスの助けだけによるものではない。ゲシュタポの摘発を免れるため、既に逮捕されていた兄を除く家族三人で逃げるようにハンブルクを去った十四歳の日からずっと、ニコはたくさんの人に助けられてきた。

 それはユリウスの父をはじめとする逃亡に手を貸してくれた故郷の人々であり、ニコたちを受け入れてくれたクラクフの大叔父一家である。さらにはゲットーや収容所で共に過ごした人々、戦争後にミュンヘンで、ウィーンで、ベルリンで出会った人たち――。その多くには、もう二度と会うことができない。

 辛い時代に命を落とした人もいれば、安否がわからないままの人もいる。ニコを母と妹と同じ収容所に送るようリストに細工してくれたイツハクはその後どうなっただろうか。そしてアウシュヴィッツに移送された当初、家族を失った上に、信じていたユリウスが親衛隊員になっていたことを知り絶望に暮れていたニコを弟のように助けてくれたマックス。彼は地獄を生き延びて、同じ収容所にいた妻と再会することができただろうか。行方は知れない。

「こうしてみると、僕はどれだけの人たちに助けられてきたんだろう」

「俺だって。数えきれない人を犠牲にして――たくさんの人に救われてきた」

 ニコが過去に知り合った人々について思いを巡らすとき、ユリウスもきっと彼にとっての忘れがたい人のことを考えている。

 親衛隊員としての過酷な業務と良心の呵責の板挟みになり自ら死を選んだダミアンという青年の話はニコも聞いたし、今もユリウスと一緒にときおり墓に花を供えに行く。ニコがクラクフ近郊にいると信じていたユリウスを、近くにあるアウシュヴィッツに配置する助けになってくれた当時の上官は、ヒトラー暗殺計画に関与した疑いで処刑されたのだという。

 二人は黙ってソファに隣り合って座ったまま手を握り合い、それぞれにとっての忘れがたい人々に祈りを捧げ続けた。