ウィーン再訪編(5)|1961年・ウィーン

 さすが高級ホテルのベッドはマットレスの寝心地も良く、不安や緊張を抱えていたはずのニコもあっという間に眠りに落ちていたらしい。目を覚ますと隣の寝台はすでに空で、寝室にまで香ばしいコーヒーのにおいが漂ってきていた。慌てて起き上がるとリビングへ向かう。

 すでにテーブルにはルームサービスの朝食がサーブされていた。真ん中にある銀色のコーヒーポットがこの良い香りの出所に違いない。

「おはよう」

 ユリウスはすでに着替えを済ませて、ソファで新聞を読んでいる。カーテンの開け放たれた窓の外は明るく、時計に目をやるとすでに九時を回っていた。完全に寝坊したことに気づいたニコは急に体裁が悪くなる。

「ごめん、起こしてくれてもよかったのに」

 しかし、眠りすぎて少しまぶたの腫れたニコの顔を見て嬉しそうに微笑んだ。

「よく寝てたから、もう少しだけと思って。コーヒーが冷める前には起こすつもりだったよ。顔を洗ってこいよ、飯にしよう」

「……うん」

 ニコは洗面台に向かい顔を洗う。広々とした浴室はほとんどのものが大理石でできていて、隅々までぴかぴかに磨き上げられている。顔を洗う石鹸からもオーデコロンのような良い香りがして、タオルは家で使っているもの数枚分の厚みがあった。

 朝食のメニュー自体はパンにハムやチーズ、フルーツといったごく平凡なものだったが、普段家で食べているものとは品質が違っている。二人とも朝食は軽くしか摂らない方だが、残しては失礼かもしれないという不安もあり、運ばれたものをほぼすべて平らげた。

「……食い過ぎた、眠くなりそうだ」

 食事を終えたユリウスは胃のあたりを押さえながらつぶやく。

「僕もだよ。あんなに眠ったのに」

 このままあの寝心地の良いベッドに戻って二度寝を決めこめればきっと幸せなのだろうが、三十分後には車を回してもらう約束になっていた。

 今日は午前中のうちに、かつてニコとユリウスに部屋を貸してくれていた老婦人――未亡人のシュルツ夫人を訪ねる予定だ。

 彼女はユリウスが去ってからもしばらくあの家でひとり暮らしを続けていた。もしかしたらその間も、いつかユリウスやニコが戻ってくるかもしれないと思っていたのだろうかもしれない。しかし、ユリウスの判決が出てしばらく経った頃から体力の低下が顕著になり、階段から足を踏み外して骨折したのをきっかけに家を処分して施設に入ったのだという。

「それから午後は……」

 ユリウスが働いていた病院へ行き、夜にはハンスの家に食事に招かれている。

「俺が病院に行っているあいだ、ニコはどうする?」

「ああ、ええっと」

 ニコは迷った。記憶を完全に取り戻すまで五年近くウィーンで暮らしたユリウスは、ニコの知らない交友関係も持っている。

「一緒に来てくれても、俺はかまわないよ」

 ユリウスはそう言うが、見知らぬニコが一緒では相手も気を遣うのではないか。もし二人の関係を聞かれたらどう答える? いくらなんでも兄弟だとごまかすことはできない。だったら友人、ビジネスパートナー? いずれにしたって奇妙に思われてしまうだろう。

 しばらく考えてから、ニコはユリウスを心配させないよう笑顔を浮かべて首を左右に振った。

「ううん。僕は一度ホテルここに戻ってる。せっかくハンスが準備してくれた立派な部屋だから、堪能させてもらうよ」

「そうか」

 ユリウスはそれ以上何も言わなかった。

 約束の時間にロビーに降りると、手配されたタクシーはすでに到着していた。さすがのハンスも悪目立ちする高級車を選ぶほど意地悪くはないようで、ごく普通の車両の運転席では人の良さそうな初老のドライバーがハンドルを握っている。

「今日は貸し切りですから、途中で寄りたい場所ができた場合や予定が変更になった場合も遠慮なくおっしゃってください」

 そう言われて後部座席に並んで乗り込んだ。

 日光の下で見るウィーンの街並みは昨晩よりさらに美しく見えた。

「ウィーンは初めてですか?」

 運転手に問われて二人は「いいえ」と声を揃える。

「以前少しだけ暮らしていたことがあるんです。ただ、もっと下町の方にいたから、こんな街中にはあまり来ることもなくて」

 ユリウスがそう答えると、運転手は、だったらこの辺りを軽く一周してから出掛けましょうと微笑んだ。

 ニコが去ってミュンヘンに出頭するまで数年間ウィーンで暮らしていたユリウスだが、街中で友人と遊ぶようなこともなくつましく静かな生活を続けていたのだろうか――少しずつ蘇っていくおそろしい記憶と向き合いながら。

「そういえば……ハンスの部屋に行ったとき、たくさんウィーンの版画があったよね」

 ゆっくりと窓の外を流れていくランドマークを眺めながらニコは思わず口にした。言葉にしてから、やっぱりまずかったかもしれないと横目でユリウスの様子をうかがうが表情に特段変化は感じられない。いくらあの日が「兄弟として」の二人の生活にひびが入るきっかけだとしても、もう昔のことだ。だからニコも気にしていないふりで続ける。

「今はこんなふうにしか描けないって、全部寂しいモノクロの作品ばかりだったね」

「俺が最初にあいつと会ったときも、ウィーンの街並みの話をしてたよ。あいつは本当にここが好きだから、焼け落ちた街並みを見るのが辛かったんだろう」

「最初に会ったときって、引ったくりから荷物を取り返してあげたんだっけ?」

 その話は以前に聞いたことがあった。戦後、まだ物資が十分ではない時期にハンスが大切な仕事道具である絵画道具の入ったバッグを引ったくられたところに、ユリウスが偶然通りすがったのだと。

「そう。で、あいつ言ったんだよ。俺の身のこなしがって。後になって思えば俺自身よりも正しくこっちの素性を見抜いていたんだから、絵描きの目って怖いもんだな」

 まだ脚の怪我が治ったばかりで機敏に動けたわけでもないユリウスの軍歴を見抜いたのは、ハンスも戦場に行った人間だからなのだろうか。いや、それだけではない。三人で顔を合わせるなり彼は、目の前にいる〈兄弟〉の関係が普通ではないことすら見抜いてしまったのだから。

 一年以上の時間をかけて作り上げた虚像を瞬時に見抜かれて、ニコは狼狽し、らしくもない啖呵を切ってハンスの部屋から飛び出した。彼の意地の悪さに腹が立ったのはもちろんだが、あの頃のニコはただユリウスに真実を知られることが怖かった。

「ハンスも今は、ウィーンの景色を明るい色で描いているのかな」

「今夜いくらだって見せてくれるさ。うんざりするほどの自画自賛と一緒に」

「あはは、きっとそうだね」

 明るい男の話をすれば車内の空気まで華やぐ。しかしそれも長くは続かなかった。――少なくともニコにとっては。

 車はぐるりと中心部を周回し終えるとシュルツ夫人のいる施設に向かうためにタクシーが環状道路リンクの外側に出る。そこで渋滞にはまった。時間帯が悪いのか、それともどこかで事故でも起きているのか大通りに連なる自動車の列はほとんど動かない。

 運転手はやがてあきらめたようにため息をついた。

「ちょっと遠回りになりますけど、この大渋滞よりはましなので迂回しますね」

 車は次の角を曲がり一方通行の細い路地へと入り込んでいった。

 その路地に見覚えがあることに気づくまで少し時間がかかった。相変わらずの飲み屋街ではあるが昼間なので明るいし、店の顔ぶれもかつてとは変わっている。だが、二ブロックほど進んだところで窓のかたちの特徴のある建物を見つけてニコははっとした。間違いない、ここはかつてニコがユリウスに「工場で夜勤をしている」と嘘をついて仕事をしていた飲み屋街――いや、当時はもっといかがわしい店が立ち並んでいた通りだ。

 ハンスとの一件とも比べようがないほど、の出来事は二人の関係において決定的な、地雷のようなものだった。

 工場の夜勤に出かけているはずの〈弟〉の行動に疑いを抱いたユリウスはある日そっとニコの後をつけた。そして、ニコがこのいかがわしい通りにある店からロシア兵と一緒に出てくるところを見たのだ。そして激しい怒りに駆られたユリウス、いや当時はまだ〈兄のレオ〉だった彼は――家に帰ってから怒りと悲しみのままに、記憶を失って以来初めてニコを抱いた。

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