ウィーン再訪編(6)|1961年・ウィーン

 あのときニコは最後まで「何もなかった」と言い張った。ユリウスに呼び止められた時点でソビエト兵との間にやましいやりとりはなかったのだから嘘ではない。

 だが、もしもあそこでユリウスに出会わなかったら。そしてひと気のない薄暗い路地裏まで手を引かれ、手に数枚の紙幣でも握らせられたならば――ニコは手や口を使うことをためらわなかっただろう。当時はそれがそれがユリウスへの裏切りになるという意識すらなかった。

 自分たちが幼なじみだったことも、彼がユリウス・シュナイダーであったことも忘れて、ただ兄弟としての生活を守ることだけがニコのすべてだった。そうしなければ自分たちの関係が断絶することはもちろん、元親衛隊員であるユリウスの身に危険が及ぶことが何よりも怖かった。

「酔った?」

 急に黙り込んだニコを不審に思ったのか、ユリウスが気遣う。それを聞いて運転手も視線を後部座席に向けた。

「空気を入れ換えますか? 外気は冷たいですが、少し窓を開けると気分が良くなりますよ」

「あ、えっと……」

 決して車酔いしたわけではないが、後ろめたい過去を思い出していたなどと言えるはずもない。ユリウスが因縁のある場所を通り抜けたことに気づいていないのだから、ニコとしてもこのまましらばっくれるのが得策だ。せっかく待ち望んだウィーン再訪なのに、あんなことを蒸し返して気まずくなるのも嫌だ。

「すみません、じゃあ少しだけ換気させてください。調子に乗って朝食を食べ過ぎたのがいけなかったのかも」

「車を停めた方がいいときは遠慮なくおっしゃってくださいね」

 人のいい運転手に申し訳なく思いながらニコとユリウスはそれぞれ扉に取り付けられたレバーに手を伸ばし、窓を数センチほど開けた。

 新鮮な風は冷たくて気持ちがいい。軽く深呼吸をして後ろ暗い考えを振り払おうとするニコの膝が冷えないようユリウスがコートを掛け、運転席のルームミラーに映らないようその下でそっと手を握ってきた。

 色あせたウールのコートは、ユリウスがミュンヘンの病院を退院する頃にニコが贈ったものだ。あれから十年以上が経ち、擦り切れた袖口を何度も切り詰めたせいで長身のユリウスには袖丈が足りなくなってしまった。それでもユリウスは頑なにそれ以外のコートを持とうとはしない。

 視線を落として、またひとつコートの肘のあたりにちいさなほつれを見つける。裕福ではないが、ふたりそれぞれ真面目に働いてきたから外套を一枚仕立てる金くらいはあるはずだった。

「ここ、ほつれてる」

 ニコがささやくとユリウスは身を乗り出した。飛び出した糸を指で押さえると、とりあえずほつれは目立たなくなる。

「ハンブルクに戻ったら修理に出そう」

 やはりユリウスにはコートを買い換える発想はないようだ。ニコは声を潜めて耳打ちする。

「……もうそろそろ新しいのを買ってもいいんじゃない? 肘のあたり、ぺらぺらに薄くなってるよ」

「だったら別の布か皮でも当ててもらうさ」

 別に高価な服を着る必要はないが、あまりに古くみすぼらしい服を着ていたらせっかくの男前が台無しだ。それに、今になってみればあのコートを手に入れた方法すら後ろめたい。

「もうしばらくかかるんですよね?」

「ええと……そうですね。一時間まではかからないと思いますが」

 コートについてのやり取りをこれ以上続けたくないのか、ユリウスは顔をあげて運転手に訊ねる。いや、そんな動機を邪推してしまうのもニコがネガティブになっているからなのか。

「ニコ、少し眠ればいい。そうすれば気分もよくなる」

 気遣いの言葉に含意などあるはずもないのに、ちくりと胸が痛んだ。

「ありがとう」

 やっぱりいくら渋滞していても遠回りなんて頼むんじゃなかった。ニコはそんなことを考えながら目を閉じた。

 ニコがはじめて口付けを交わした相手はユリウスで、ぎこちなく体に触れ合った相手も同じ。あれは確か十四歳の頃。しかしその先にあるもの――キスやセックスが持つ意味を知る前に、ニコは恋愛や性といった思春期らしさと程遠い環境へ身を置くことを余儀なくされた。

 痩せっぽちの汚れた少年だった自分に価値を見出す人間がいることを知ったのはクラクフのゲットーに暮らしていた頃だ。少しでも収容所への移送の順番を遅らせてもらおうと、何度か声をかけてきた男の家を訪れて、命じられるままに口で奉仕をした。ミュンヘンの病院を出て、日々の糊口を凌ぐ方法を探す中で思い出したのが、そのときのことだった。

 ユリウスを一生「レオ」として生きさせるつもりだったから、彼と抱き合う気も、愛し合う未来も頭になかった。戦争の中で生死のはざまを彷徨う年月があまりに長く、倫理観だっておかしくなっていた。ユリウスを守るために自分の体を使うことにも躊躇しなかった。

 何も挿入を伴うセックスをしなくたって、手や口を使うだけでもちょっとした金を稼ぐことはできた。ニコにとってはただの作業で、相手にとってはただの排泄。そう割り切れていたのもあの晩までのことだ。

 ソビエト兵といるニコを見たときのユリウスの激怒やその後の強引な性行為は恐ろしかった。だがひどい絶望を味わうと同時に、記憶をなくした彼がなおニコを求めてきたことに胸をくすぐられた。

 ユリウスをこれ以上傷つけたないためには偽りの生活が必要なのに、ニコ自身も心の奥底では昔のように彼に愛されたいと願っていた。心は引き裂かれそうだった。あれからニコは一度もユリウス以外の人間に触れたことも触れられたこともない。

 ユリウスがあのコートを大事にしているのはきっと節約のためなどではない。ニコが苦しい生活の中でなんとか準備したものだとわかっているからこそ、執着しているのだ。そんなこと百も承知で――いや、だからこそニコは辛くなる。

 あの金をどうやって工面したかを知ればユリウスはニコに幻滅するだろうか。いや、彼は不甲斐ないといって自身を責めるだろう。ユリウスはそういう男なのだ。

 しばらく経って車が止まる感覚がある。眠っているふりをしていたニコの肩をそっとユリウスが揺さぶり起こした。

 目を開けると駐車場のようなところだった。すぐ先にはユリウスの父が暮らしているのと似た白っぽい建物がある。療養施設や介護施設というのはどこでも同じようなものなのだろうか。

 運転手は残り、ニコとユリウスは車を出て施設の玄関に向かった。

「ちょっと緊張するな」

 部屋番号を聞いて清潔な廊下を歩きながらユリウスがつぶやいた。平日なので見舞客も少ないのか、ときおり車椅子とそれを押す職員とすれ違うだけで比較的閑散としている。

「お父さんに会いに行ったときとどっちが?」

「ニコが騙し打ちみたいなことをするから、あのときは心の準備もできていなかったんだ」

 数年前の出来事を思い出してニコが問いかけるとユリウスは体裁悪そうに笑った。

 シュルツ夫人の部屋は二人用の相部屋だが、外出しているのかもうひとつのベッドは空だった。

 あれから十年以上。彼女ももう七十を超えるはずだ。事前に交わした手紙では、足腰は弱ったが健康で頭もしっかりしているとのことだったが、それでも不安はあった。ユリウスがあのとき、あまりに小さく弱々しくなった父親に涙したように、もしも老婦人が痛ましい姿になっていたらどうしよう。緊張していたのはユリウスだけではない。

 だが、そんな心配は完全なる喜憂だった。

「あの、お久しぶりです……」

 ユリウスが考えに考えた第一声を発しようとした瞬間、返ってきたのは昔とほとんど変わらない元気な声だった。

「まったく、どれだけ待たせるんだい。まったくあたしの男運の悪さは筋金入りだよ」

「……は?」

 思わず硬直するふたりに向かって老婦人はかつてと同じように笑いかけた。

「夫は空襲で逃げ遅れるし。息子たちは間抜けな戦争で無駄死にするし、戦後に世話を焼いていた子たちは十年も音信不通だなんて、男なんてろくなもんじゃないわ」

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