ウィーン再訪編(7)|1961年・ウィーン

「ご、ごめんなさい」

 反射的に謝罪の言葉を口にする二人に向かってシュルツ夫人は椅子を指し示す。その表情は柔らかかった。

「なにも叱っているわけじゃないんだから、そんなにしょげるんじゃないよ。ほら、座って」

「はい……」

 ここは小さなベッドと訪問者用の椅子があるだけの、療養施設の小さな部屋。だが夫人の威勢良い言葉を聞いていると、ニコの心はかつて彼女とユリウスと三人で食事をしたり、お茶を飲んだりした郊外の家のダイニングルームに引き戻されるようだった。

 嘘にまみれ常に心張り詰めていた中で、彼女との他愛ない会話がどれほどニコの心を楽にしてくれたことか。そしてニコがウィーンを去って数年、夫人はかいがいしくユリウスの世話を焼いてくれさえした。

「おばさん、お茶を飲むなら淹れてくるけど」

 ニコを先に座らせてからユリウスは老婦人に訊ねるが、彼女は首を振って断った。

「あたしのことならいいの。黙っていなくなった恩知らずの兄弟が十年ぶりに姿を現したんだから、もうちょっと近くで顔を見せておくれ」

 兄弟、という言葉にニコとユリウスは気まずく顔を見合わせた。ハンスを経由して自分たちの素性についてはある程度夫人にも伝わっているという認識だったが――。

「えっと。そもそも俺たちは……」

 戸惑いながらも口を開いたのはユリウスだった。彼女はユリウスとニコの本来の関係を知らないのかもしれない。もしくは、いくら健康そうに見えても高齢なのだから、人に聞いた話を長く記憶に留めることが難しくなっている可能性もある。いたずらに混乱させるよりは彼女の信じるままにしておくのが優しさではないかと頭をよぎり、ニコはユリウスを止めるべきかと迷う。しかし気まずい顔の二人を見て彼女はいたずらっぽく笑う。

「あんたたちの関係がどうだろうと、あんたの名前や過去がどうだろうと知るもんか。うちで息子の代わりにあれこれ手伝ってくれたレオとニコ、老い先短いおばあさんにとってはそれでいいだろう?」

「おばさん……」

 これもまた赦しなのだと思った。

 ユリウスの父が、息子の無茶な行動を赦し――その原因となったニコを受け入れたように。あのとき病院で再会したナタリーが、ユリウスの「正義」に理解を示したように。

 ニコはそっとユリウスの手を握る。たくさんの理不尽や無理解に踏みつけられて生きてきたが、それに負けないくらい多くの人に守られ救われ許されてきた。だからこそ自分たちはささやかながらも前向きな生活を営んでいくことができるのだ。

 もう七十を超えた彼女はひとりで暮らしているときは運動機能や認知の衰えに不安を抱いていたが、ここにきて規則正しい生活を指導され、いろいろな人と顔を合わせるようになったことで本人曰く「ボケが治った」のだという。甥っ子や姪っ子、そのさらに子どもたちがあれこれと面倒をみてくれるし、教会経由で親しくしていた人たちも面会に来てくれるのだと枕元の見舞いの品を披露した。

「昨日も、あの人。ほら、パン屋のヘンスさんが来てくれたのよ。ぐうたらで勤めの続かなかった娘婿が店を継ぐ気になって、今は鍛え上げてるらしいよ。覚えてる? 教会の前であんたたちと派手にけんかしていたわよね……」

 袋に入った焼き菓子を差し出されて、ひとつ手に取る。パン屋と聞いただけではわからないが「教会でけんか」というキーワードにぱっと記憶が蘇った。鬼のような形相をした大男と、彼に引きずられる美しい少年。

「それってラインハルトの……」

 金髪碧眼の美しい少年ラインハルトは同性の恋人を作ったことを知られ父親と激しく対立していた。最終的には恋人が外国の寄宿学校にやられるかたちで仲を引き裂かれたのだと言っていた。

 あの頃のユリウスは記憶を失っているなりに、ラインハルトに過去の自分を重ねていたのだろうと思う。ニコからすれば不安になるほどに少年の境遇に同情していた。

「あいつももう、すっかり大人になっているんだろうな」

 ユリウスが懐かしそうにつぶやくと、夫人はため息で返す。

「ああ、息子もいたね。でも、どうも親子関係が上手くいってないみたいで家にも寄りつかないんだって。はっきりとは言わないけど、あの人も頑固だからね」

「そうですか」

 ラインハルトの恋愛対象があの頃と変わらず同性なのだとすれば、父親との不和の理由は想像できる。人ごとであるとはいえ実の親に自分という人間を受け入れてもらえないのだとすれば切ないが、どうしてもわかり合うことのできない父から距離を置くことをラインハルト自身が選んだのだとすれば、それもまたひとつの生き方なのかもしれない。

 幼かったラインハルトももう二十代のいい青年になっていることだろう。再び彼に会うことができれば、あの頃は話せなかったいろいろなことを語り、もう少し彼の助けになることができるだろうか。そんなことを考えた。

 楽しい時間はあまりに早く過ぎる。ユリウスとニコは現在の生活について――ユリウスの父の近くで暮らし、二人で仕事をする夢を叶えようとしていることなどを報告し、シュルツ夫人は目を細めてそれを聞いた。逆に、彼女がかたわらの引き出しから「今も大事にしているの」と、ウィーンで一緒に過ごしたクリスマスに二人が送ったニットキャップを取り出したときには涙ぐみそうになった。

 ユリウスもよほど名残惜しかったのか、話を切り上げたのは予定の時間を過ぎてからだった。

「悪いけど俺、そろそろ行かなきゃ。午後は病院にいく約束をしていて」

「あら、もうそんな時間なの? せっかく十年ぶりに会えたのに」

 夫人があまりに寂しそうな顔をするので、ユリウスも困ったような表情をみせる。少し迷ってからニコはユリウスに告げた。

「えっと……ユリウス良かったら君は病院に行って。僕もう少しここでおばさんと話をしたいから」

 運転手には申し訳ないが、どうせ今日一日借り上げているならば、ユリウスを病院に送ってからニコを再度迎えに来てもらうこともできるだろう。もしそれが難しければ別のタクシーを呼んだって構わない。

「ああ、そうすればいい」

 ユリウスもニコの提案を快諾した。もともとニコ一人をホテルに残して病院に行くことには気が進まない様子だったから、彼にとっても良い話なのかもしれない。もちろん一番喜んだのはシュルツ夫人だ。

「そうね、仕事場の人間関係を大事にしてあたしを置いていく恩知らずなの悪口でも言い合おうかね」

 そう言ってウインクする夫人に、ユリウスは苦笑いして見せた。

「いつもそんな役割だな。親父もニコに俺の愚痴ばかり言っている」

 ユリウスを見送るついでに一度ロビーまで降りて、ニコとシュルツ夫人はそのまま談話室に移動した。給湯器でニコがお茶を入れ、二人の前にカップを置く。

 愚痴や悪口を言う気などもちろんないのだが、ユリウスがいない場所だからこそ話せること――告げられる感謝の言葉があるのもまた確かだ。

「僕がいなくなった後も彼に親切にしてくれて、本当に感謝しています。完全にあれは僕のわがままというか……彼は何も知らなかったんです」

 ユリウスが記憶を取り戻すのが怖くて、過去を思い出した彼と向かい合う自身がなくてニコは逃げ出した。ユリウスの怪我が治り仕事もあったとはいえ、彼がまだひとりで生きていけないことはわかっていた。その上で、きっと親切な夫人やハンスが助けてくれるに違いないと甘えていた。

 ニコの言葉にシュルツ夫人の表情が変わった。さっきまでのひたすらに元気良く前向きな老女の姿はもちろん嘘ではないのだろうが――多分にふたり、特に重い過去を背負うユリウスへの遠慮があったに違いない。

 年齢のせいかかつてより色が淡くなった瞳は美しく、だがどこか悲しげに見える。きっと、いま彼女の視線の先には、ニコを失い途方に暮れるユリウスの姿が蘇っているのだろう。

「あの子は出ていくって言ったんだけど、とても放ってはおけなくて。あんたがいなくなって、あんまりに憔悴していたから、ひとりにしたら死んでしまうんじゃないかと思ったの。もちろん夫や息子たちを亡くした後だったから、心配しすぎだったのかもしれないけど」

「……いえ……」

 ニコは、自分が黙って姿を消したあとのユリウスの姿を見てはいない。ユリウスも、ニコの不在にどれほど絶望したかについて、はっきりとは語らない。だがユリウスがどのような人間であるかを知っているからこそ、夫人の言葉を否定することはできない。それくらいニコは残酷なことをした。

 ニコはユリウスにたくさんの嘘をついた。あれは本当に優しい嘘だっただろうか。そして今もいくつかの隠しごとをしているが、これは本当に正しいことなのだろうか。

「……ずっとウィーンに来るのは怖かったんです」

「そんなにあたしが怖かった?」

 思わず不安を口にしたニコに、夫人が笑う。

「それもあります。親切にしてくれた人たちに嘘をついて、裏切ったことに向き合うのが怖かった」

「だったらもう楽になりなさい。裏切られただなんて誰も思っちゃいないんだから」

「うん、そうなんだけど」

 はっきりとした赦しの言葉を得て、ニコはまだ笑うことができない。

 ここには謝りにきたはずだった。なのに結局はこうして暗い顔をして不安を吐き出したくなるなんて間違っている。でも。

「まだ何かあるの? 言いなさいよ、ニコ。あんたは甘えるのが下手だから」

 テーブルの上で組んだニコの手に、老婦人の手が重なる。あんたはいつもひとりで溜め込んで、我慢して。――気づかれていた時点で我慢できていないのも同じだと恥ずかしくなるが、彼女の優しさに思わずニコは弱音を漏らした。

「おばさんは、亡くなったおじさんに隠しごとをしたことはある?」

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