ウィーン再訪編(8)|1961年・ウィーン

「夫に?」

 夫人が聞き返す。

 彼女の夫であるシュルツ氏は戦時中に連合軍の空襲に巻き込まれて亡くなったと聞いている。まだ十分に心の傷が癒えてはいなかったのか、かつて部屋を借りていた頃に彼女が夫や息子たちについて詳細な話をしたことはない。いくらあれから十年の年月が流れたからといって、立ち入った質問だろうか。ためらいながらもニコは続ける。

「うん。隠したままで最後まで言えなかったことって、ある?」

「そりゃ、あるわよ。たくさん」

 彼女は即座にうなずいた。あまりにあっさりとした答えには拍子抜けするほどだった。

「今も思い出す? 話しておけば良かったって後悔するようなことは……」

「どうかしら。例えばちょっとした失敗なんかは隠すほどもない、くだらないことだったと思うことはあるわ。平穏な暮らしのなかでは些細なことを気にしてしまうものだから仕方ないんだけどね。ただ、もちろんそれだけではなく――黙ったままでいて正しかったと思うこともある」

「それは、どういう?」

 そうねえ、と彼女はかさかさした皺だらけの手でニコの手の甲を撫でた。 

「夫が自分を責めて絶望するようなこと。あの人が空襲で大怪我して病院にいるときに、次男が戦死したっていう電報が届いたの。でもあたしは最後までその話はしなかったわ」

 その前の年にすでに長男の戦死の報は受けていた。残されたもうひとりの息子までも失ったことを知ったならば、いくら時代のせいだったとはいえシュルツ氏は子どもたちを戦場に送り出した自らを責めただろう。それだけではなく、自分の死後ひとり残される妻のことも心配したに違いない。

「それは、確かに……正しい判断だと思う」

 死の床にある夫に息子の訃報を知らせなかったこと。それは紛れもない愛と優しさゆえの行為だ。彼女の言葉があまりに正しいから、ニコは言葉を失ってしまう。彼女の行為と自分の悩みを比べることなどできない。後ろ暗い過去について打ち明けずにいるのは本当にユリウスを傷つけたくないからなのか、それとも彼に見損なわれたくないからなのか。

 自分から質問をしたにもかかわらずそれ以上話を続けることのできないニコは気まずく両腕を引こうとする。ぎゅっと握りしめた手でそれを引き留めたのはシュルツ夫人だった。

「でも、今は思うの。もしかしたら夫は、次男について良くない知らせが届いていたことに気づいていたのかもしれないって」

「え?」

 ニコは思わず顔を上げる。明るい談話室で改めて向き合うと夫人はニコの記憶にある姿と比べてずいぶんしわが増え、小さくなったように見えた。

「だって次男の話を一切しないんだもの。いくらなんでも息子の記憶を失ったわけでもないでしょうに……。確かめればあたしを困らせるってわかって、黙っていたって考える方が自然よ。それにニコ――長く一緒にいればいるほど、隠しごとなんてできなくなるものだわ」

 それから彼女は続けた。もしニコがユリウスに隠しごとをしているのだとして、なぜユリウスがそれを追求しないのかを考えてみるべきだと。本当に気づいていない可能性もあるし、わざと聞かないのかもしれない。その上で、相手の気持ちをどこまで尊重して、自分の罪悪感とどう擦り合わせるか。

 長く生き、多くの人と出会い別れてきたシュルツ夫人の言葉は重い。だが、いくらそれが互いを思った結果だとしても、言葉にしないことは――真実を明かさないことは本当に正しいのだろうか。

 夫人と一緒に昼食をとり、施設の庭を車椅子を押して散歩をして、それからニコはタクシーでホテルに戻った。シュルツ夫人と話をしたことでいくらか心は軽くなったような気がするが、それだけではまだ足りない。

 ――こんな気持ちになるためにウィーンに来たわけじゃないのに。

 憂鬱を引きずっているうちに、あの人の良い運転手のことすら恨みたくなってくる。いくら交通渋滞だったからって、あんな道に入り込むことなかったのに。でも、もちろんそんなのはただの八つ当たりだ。

 ひどく疲れているのに、夜にはハンスの家で夕食会。今朝まではあんなに楽しみにしていたのに、いまは億劫でたまらない。上着を脱ぐと寝室に入り、仰向けでベッドに倒れ込んだ。糊のきいた真新しいシーツが気持ち良くて、いつの間にかうとうとと眠り込んでいた。

 ドアの開く音で目を覚ますと、まだコートを着たままのユリウスの姿があった。不安そうな表情は、目が合えばふっと安堵にゆるむ。

「……ニコ、戻っていたんだな」

「うん、少し前に」

 起き上がると、妙な時間に寝たせいか軽い頭痛がした。ユリウスはちょうど病院から戻って来たところなのだろう。きっとレセプションで「同室者はもう戻っている」と聞かされて、しかしニコの姿がリビングに見当たらないから上着も脱がずに寝室にやってきたのだ。

 ユリウスにはそういうところがある。ニコが予定外の動きをして姿が見当たらないと不安そうにあちこちを探し回る。だが、束縛ととられるのを嫌ってか、心配を口に出すことは避けているようだった。

 ニコもまた、あえて口にはしないが――こういうときのユリウスを見るのが好きだ。どんな言葉よりも強く彼が自分を必要としているのだと感じることができるから。

「まだ時間はあるから、眠っていてもいいよ。ただ、何も掛けないのは良くない。風邪を引いたらどうするんだ」

 ユリウスはニコのベッドの端に腰掛けて諫めた。

「ほんのちょっと居眠りしただけ。シーツが新しくなってたから気持ち良くて。……そうだ、病院はどうだった? 昔の仕事仲間には会えた?」

「ああ、ハンスのお袋さんにも会ったよ。ハンスのやつ、最近は忙しいって実家に寄り付きもしないらしい。『よろしく伝えておいて』だってさ」

「はは、今夜の食事会にお母さんも誘えば良かったのに」

 会話はそこで途切れる。

 二人とも決して口数が多い方ではない。普段ならばこの程度の沈黙は気にならないはずなのに、今日だけは居心地の悪さが耐えがたく思えた。

 ニコはそっと手を伸ばして、ベッドに座り後ろ手を突いたユリウスの指に触れる。ここまで車で戻って来たからか、外から戻ったばかりの割には冷たくない。そっと指を絡めようとすると、ユリウスはさりげなく拳を握り締めて拒むような素振りを見せた。

「ねえ、ユリウス。君が昨日から少し口数が少ないのは、やっぱり昔のことを思い出しているから?」

 勇気を出して問いかけると、ユリウスは返事に困ったように視線を泳がせた。逃げられたことにむきになっているのかもしれないが、ニコは柄にもなくユリウスの視線を追いかけ、ぎゅっと彼の手を握った。そして何が自分をこうも不安にさせているのかを確信する。

 いくら長旅で疲れているからって、こんな広いベッドのある非日常の空間で昨晩ユリウスがニコに触れようとしなかったこと。毎晩抱き合うほど若くはないが、どちらからともなく手を伸ばし週に一、二度は体を重ねている。

 でないことはわかっているが、それでもこれは二人にとって初めての旅行だ。多少は盛り上がってもおかしくないシチュエーションなのに、夜も、朝も、今もユリウスはずっとぎこちない。

「……もしもちゃんと話をしたほうがいいなら、僕は」

「ごめん」

 ニコの言葉をさえぎるように、ユリウスが口を開く。何が「ごめん」なのか、何を気にしているのか、やっぱりニコの過去の行動が引っかかっているのか。それとも――。

「ウィーンにいるんだと思うとどうしても、のことが」

「ユリウス……僕は確かに君にたくさんの嘘をついて、隠しごとをしてきたけど」

「違う、そうじゃなくて! 俺はどうしても思い出してしまうんだ。嫌だって言うおまえを無理やり抱いたことを」

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