ウィーン再訪編(9)|1961年・ウィーン

 思い切ったように言葉を吐き出してからユリウスは目を伏せる。

 まただ、とニコは思う。どれだけ許しても、どれだけ愛の言葉をささやいても伝わりきらない。いや、一度は伝わった気がしても、ちょっとしたことで自分たちの関係はまた不安定でいびつだった頃の呪いを呼び戻してしまう。

 ヤマアラシのジレンマというメタファーについて聞いたことがある。本当は近づいて温め合いたいのに、鋭い棘で互いを傷つけることを避けるには離れたままでいるしかない。昨日からこっちのユリウスと自分はまさしくそれだ。

 今を生きる人々のほとんどが多少の差はあれどもで負った傷を抱えていることを思えばユリウスとニコだけが特別に不幸であるとは言えない。それでも自分たちの間にある傷も苦しみも癒しも、決して他人と比較することのできない特別なもので――だからこそ、救いを求める先も自分たちだけ。

 ニコは身を乗り出して、訴える。

「ユリウス、聞いて」

 ミュンヘン中央駅にユリウスを迎えに行ったときに、もう二度と離ればなれにはならないと決めた。だから決してあきらめず、ニコはユリウスに抱かれることで傷ついたりしないと――むしろそれを望んでいることを何度でも言葉にし続けるしかないのだ。

 もちろんその気持ちは嘘でも強がりでもなかった。

 確かに収容所で彼に脅すように抱かれていた頃には恐怖や嫌悪を抱いたこともある。でもそれもほんの最初の頃だけだ。気持ちに蓋をするように務めてはいても、乱暴な言葉とはうらはらにユリウスがいつもニコの健康や生活が改善するよう取り計らっていると知ってからは、ニコの抱く憎しみは自然に湧き上がるものではなく意識的に呼び起こし、維持しようとするものに変わった。それどころか今では、心のどこかでは彼の熱を待ち望んでいたようにすら思えてしまうのだ。

「僕は君と兄弟として生きることを自分で選んで、心の底から望もうとして……それでもやはり寂しかったんだ」

 あの頃のニコはこの街の薄暗い部屋の中で、ユリウスが記憶を取り戻すことをひたすらに恐れていた。そのきっかけを潰すため、彼が見知らぬ他人と会うことにも仕事をすることにも強硬に反対した。だがその一方では、対照的な感情を胸の中に育てていたのだ。

「――君が僕を昔みたいな目で見て、触れてくれたとき……怖かったし絶望したけど、嬉しかったんだ。君がまだ僕のことを特別な意味で好きでいてくれるんだって」

「ニコ、でも俺は」

 ユリウスが視線を上げた。ニコは彼の手を握る力を強くする。

 聞き飽きるほど耳にした「でも」という言葉に胸が痛んだ。自分を責め続けるユリウスを見るのが辛いという心に嘘はない。でもこういうとき、ユリウスが本当のニコを見ていないのではないかとふと怖くなる。恋人の気持ちを疑うなんて最低のことだとわかっているのに。

 誰だって、他人のことも自分のことも完全に理解することなどできない。ニコだってユリウスのことを勘違いしている部分はあるだろう。だが、それにしたってユリウスの場合はやや度を越しているようにも思う。

 ユリウスはニコのことをあまりに純粋で美しい存在だと勘違いしているのではないか。ニコの中に潜む汚い部分やどろどろとした感情から目を背けているのではないか。

 だとすればユリウスが命を賭して追いかけて、守って、今も人生を捧げ続けている相手は本当になのか。昨日からずっと胸の中に渦巻いていたくらい感情が急に制御できない勢いでニコの唇から流れ出す。

「でも、じゃない。僕は傷つけられてばかりだったわけじゃない。生き延びるために汚いこともした。君のことだけじゃない、自分や家族を救うために人を利用したことだってある」

「そんなの罪じゃない。そもそもおまえを陥れたのは」

「君が僕よりもずっと重い罪悪感を背負っているのはわかってるけど、今言いたいのはそういうことではなくて」

「でも、俺はおまえが守ろうとしていた生活を壊した。俺の頬を打って嫌だと言うおまえを……」

 駄目だ、このままではいけない。こんな「どちらがより罪深いかレース」は不毛なだけだ。頭では理解しているのに、どうすれば間違った会話をもとに戻せるのかがわからない。ニコは落ち着くために一度息を止めて、それからゆっくりと深呼吸をした。

「聞いて、君に触れられたことは嫌じゃなかった。それは本当のことだ。僕が君を引っ叩いたことを気にしているなら……もちろんあの人とは何もなかったけれど……でも」

 疑われるに等しいことはしていたから。それを知られるのが怖かったから。セックスはしていなくたって、いくら生きるため、手を使っただけ、口を使っただけであろうとも、ユリウスに失望されたくなかったから――そう言う前に抱きしめられた。

「ニコ、もういい。あのとき夜の街で働いたのだって、もとはといえば病み上がりの俺を食わせるためだった」

 どこまで知っている? どこまで察している? 本当に何もかもをわかってそんなことを言っているのだろうか。ニコは大きなため息を吐いた。

「……ユリウス、君は優しい。優しすぎるよ。そんなふうに言われると僕はどうしたらいいのかわからなくなる。君が僕を理想化すればするほど、その幻想が砕けたときどうなるのかって」

 ニコの不安げな言葉にユリウスがあわてたように顔をのぞきこんでくる。さっきまでとは完全に立場逆転。いつもそうだ、順番に不安になったり慰めたり、交互に鬼の役をやりながら、永遠に終わらない鬼ごっこをやっているようなものだ。

「俺はそういうつもりじゃなくて」

 うろたえたようにゆらぐ緑色の瞳を見つめて、ニコは言った。

「言っておくけどユリウス、僕は君が思うほど清廉でもなければかわいそうでもない。最初からずっと」

 そのひと言でどこまで伝わったのかはわからない。ただ、ユリウスは――大きく息を吐いて、ニコの頬に触れた。

「ニコ」

 冷たくも熱くもない指先が頬をなぞり、首筋に触れる。それだけでニコの肌は粟立った。「清廉ではない」などと断言することもなかった。清廉な人間だったらきっと、こんな状況で簡単に欲情なんてしない。

 でも、今はそんなこともどうだっていい。急に激しい渇きを感じてニコはユリウスの耳たぶのすぐ近い場所に唇を寄せる。言葉で消えない不安ならば、方法はひとつ。

「ねえ、まだ出かけるまでは時間があるって言ったよね」

「ああ、でも……」

 まだユリウスは迷っている。だからニコは彼のためらいを打ち消しすように先をねだった。

「塗りつぶしてよ、この街での後ろめたさも全部。君だってそのためにウィーンに来たんだろう」

 そして、まだ何か言い訳を探そうとするユリウスの唇に指先をあてて黙らせた。ユリウスの唇は冷たくて、少し乾燥してかさついていた。

 カーテンはレースだけ。日は暮れはじめているが、明かりをつけなくても部屋にはまだ光が入っている。全部見えたって構わないし、声はこらえないのが約束だ。だってユリウスはいつだってニコに拒まれるのではないかと怖がっているから。そしてニコは同じくらい、ユリウスから求められなくなることを恐れている。

「僕は君が何者だって、愛してる。〈あのこと〉が勘違いだって知る前も……君が兄さんを密告した張本人だと信じていたときですら、きっと」

 言葉を直接耳に注ぎ込むと、ユリウスはニコの背中に回す手に力を込めた。

「俺も」

 愛している、という言葉は小さく掠れてはいたが、ちゃんとニコの耳に届いた。噛みつくような口づけはどちらから? そんなことはもうどうだっていい。恋人の乾いた唇はすぐに濡れて、甘くなる。

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