未生×尚人の小話です。続きます。
「はぁ~……」
学食の列で目の前に並んでいる篠田が、もう何度目だかわからないため息を吐く。休憩時間だけならばともかく、講義中ももすぐそばで五分に一度のペースでこの有様なのだから、聞かされる方としてはたまらない。
「おい、いい加減うるせえよ」
背後から軽くすねを蹴飛ばすと、うっと呻いてから恨めしそうにこちらを振り向く。
「……笠井、親友が深く思い悩んでるっていうのにおまえには人の心というものがないのか」
ツッコミどころは山ほどある。
そもそも未生は篠田のことを親友だと思ったことは一度だってない。決して嫌っているわけではないし大学で親しくしている友人のひとりであることは確かだが、もともと人間関係に対する感覚がドライな未生には「親友」というのが一体どのレベルの親密さを指すのかがそもそもわかっていないのだ。
また、篠田は朝からひたすら陰鬱なため息を聞かせ続けているだけで、「思い悩んでいる」などという相談をされた覚えはない。外見上は悩みだって二日酔いの不調だって大差ない。ただ調子悪そうに見えるからといって配慮しろというのは他人に対して求めすぎだ。
……などと、否定の文句はいくらだって出てくるのだが、あまりに篠田の目がよどんでいるので未生はぐっと言葉を飲み込んだ。
社交的、ユーモア好き、ムードメーカー。協調性に欠け斜に構えがちな未生をも持ち前の明るさで半ば強引に人の輪に引き込んでしまう。そんな生まれ持っての「陽キャ」篠田のこんな姿は珍しい。
「いや、ほら。悩みがあるなんて知らなかったからさ」
言い訳がましいことを口にしながら、さてどうしたものかと考える。
ため息を聞かされ続けるのも苛立つが、お悩み相談となればさらに厄介だ。学業バイト恋愛だけで未生のキャパシティはすでにいっぱいいっぱいで、人様の思い煩いに関与したいなどとはこれっぽっちも思わない。
一方の篠田といえば、未生に何か言おうとしながらカフェテリア形式に並んだランチメニューの中からアジフライを取り、白米を取り――はっと息をのんだ。
「うっ……」
その視線の先には、何の変哲もない味噌汁椀。ちなみに具は豆腐とわかめ。学生たちのあいだでは「味噌が薄い」「具が少ない」「まるで戦時の配給食」と評判が悪いが、たかだか30円程度の味噌汁にこれ以上を求めるのも酷ではないかと未生は内心思っている。
それはそれとして、味噌汁を前に絶句する友人の姿は明らかに異様だった。しかもよく見ると、微かに涙ぐんですらいる。
「篠田……?」
うろたえる未生の肩が、とんとんと叩かれる。振り返ると、さっきまで同じ教室にいた栗原範子が追いついてきていたらしい。
彼女はそっと未生にささやいた。
「篠田くん、お味噌汁が原因で彼女と大げんかしちゃったんだって」
「味噌汁で、喧嘩?」
範子の言葉は種明かしどころか、ますます未生の脳内をカオスにした。
絶賛彼女大募集中だった篠田は、数ヶ月前に合コンで出会った他学部の女子学生と付き合いはじめた。一度だけ構内で顔を合わせたことがあるが、「普通に可愛い」タイプだったと思う。
篠田が言うには、未生を紹介した後で彼女が何度も「あの人すごくかっこよかったね」を連発したので、その後は警戒して未生の出没しそうな場所には彼女を連れてこないようにしているらしい。
冗談交じりとはいえ「笠井は手癖が悪そうだから」と言われて濡れ衣だと気を悪くした未生だが、過去の行状を思い起こせば篠田の勘が誤りであるとも言えない。こちらに色目を使ってくる、他人の彼女。かつての未生ならば面白がってちょっと味見してみるくらいのことはしてみたかもしれない。
――尚人と出会う前の未生ならば。
今の未生にはもう、他人を粗末に扱うことで自分の中の空虚を埋める必要などない。篠田の彼女など、優馬の友達のおばあちゃんと同じくらい遠くて、かつどうでも良い存在だった。
という濡れ衣判定のことは今はどうでもよくて、問題は篠田の「味噌汁事件」である。
他人の痴情のもつれに関心のない未生だが、一般的なカップルがどういうことで衝突するのかには興味がある。なにしろ自分には性に関する経験値に比してあまりに恋愛経験が足りない自覚がある。耳学問であったとしても、恋人同士の地雷に関する知識を得ることは大切だ。
見るだけで涙ぐむような状態にも関わらず篠田は味噌汁を取り、会計を済ませてとぼとぼと座席に向かう。未生と範子は顔を見合わせてから後を追い、彼を左右から囲んで座った。
「で、味噌汁でけんかってどういうことだよ」
未生が問うと、篠田は力ない声で経緯を語りはじめた。
「実家から送ってきた素麺の消費期限が近かったから、ちょっと季節外れだけど昨日の夜は彼女と素麺食べたんだよ。で、そのまま泊まって、朝メシ作ってくれたのはいいんだけど……味噌汁に残った素麺が入ってたんだ。俺びっくりしちゃってさ」
篠田のこれまでの人生で、残り物の素麺を入れた味噌汁を出された経験はなかったため驚いた。どうやら彼女はそれを批判だと受け取ったらしい。
「だったら食べなくていい! って怒りだして。それだけならいいんだけど、過去のことまで持ち出すから俺もむきになっちゃって」
彼女の家では、残った麺類を味噌汁に投入するのはごく当たり前のこと。その食習慣を批判されたと思ったのか、ここぞとばかり彼女も篠田への不満をぶちまけたのだという。
「俺のリクエストでこのあいだ、じゃがいもとたまねぎの味噌汁作ってもらったんだけど、それがおかしいって言うんだ。味噌汁にじゃがいも入れるなんか朝から重すぎし、合わないって……」
それからさも深刻そうに未生の目を見つめ、篠田は問いかけた。
「なあ、笠井はどう思う? 味噌汁に素麺と、味噌汁にじゃがいも、どっちがおかしい? 俺は普通だろう?」
思わぬけんかの原因――それは想像をはるかに超えてくだらないことに思えて、未生はただ絶句した。