ドライブをきみと


未生と尚人の小話です。


 

「未生くんは、車の免許はとらないの?」

 総武線に揺られながら、弟の不意のひと言に未生は正直面食らった。

 前回会ってから数ヶ月。たいした期間ではないのに身長や手足がまた伸びたような気がする。定期的に顔は合わせているはずだが、未生の頭の中にある優馬のイメージは一緒に暮らしていた小学校低~中学年の姿のまま止まっているものだから、会うたびどんどん「子ども」から「少年」に変わっていくスピードに驚かされる。

「車? なんで?」

 もしや外見だけではなく内面も成長し、興味の対象も恐竜や電車から自動車へと移ったのだろうか。それとも地方生活にすっかり慣れ親しんで、電車移動を億劫に感じるようになってしまったのだろうか。

「ママが言ってたから」

 怪訝な顔をする未生に、優馬の種明かしはあっけない。

「……おまえのママが?」

「うん」

 真希絵は未生の父の後妻。優馬にとっては実母、未生にとっては継母に当たる。長らく「決して心許すことのない、同じ屋根の下の他人」だった彼女と未生との距離は、優馬の不登校を巡る騒動を経て一気に縮まった。

 真希絵を母親だと思うことはないが、二人のあいだには今では優馬を大切に思う同志としての信頼関係が存在している。さらには、恋人である尚人を除けば、未生にとっては一番身近で相談相手にもなってくれる大人は真希絵だった。

 父は今も未生を良く思ってはいない。優馬が数ヶ月おきに泊まりがけで未生のもとに出かけることが許されるのは、本人の強い希望だけでなく真希絵の口添えも大きいはずだ。

 だが、その真希絵が、なぜ免許の話など。

「なんで真希絵さんが俺の免許を気にするんだよ」

「わかんない。でも駅まで送ってもらうときに、未生くんは運転しないのかしら、千葉だったら車があった方が便利よねえって言ってた」

 さては、と未生は推理する。

 東京で暮らしていた頃の真希絵は完全なるペーパードライバーだった。というか、未生は彼女が運転免許を所有していることすら知らなかった。しかし、公共交通機関での移動に限界のある地方都市に生活の場を移し、毎度周囲の人やタクシーに頼ることに限界を感じたのか、真希絵は一念発起してペーパードライバー講習に通うことにしたのだと聞いた。

 最初はおそるおそるだった運転に慣れてきた頃に、ある種ハイな状態で誰彼かまわず免許取得を勧める――いかにもありそうな話だ。きっと彼女の言葉に深い意味はない。

「いらねえよ、別になくても困らないし。大体、免許ってけっこう金かかるんだよ。おまえの塾と同じでさ」

 事実、未生が運転免許取得の選択肢すら考えたことのない理由の大部分は金銭の問題だ。

 未生の大学近辺は都内ほどは駐車場代も高くないから車を所有している友人もいるし、もっと郊外にある自宅から自動車で通学する学生もいる。時間も駅の場所も気にせず動き回れる彼らを見ると、うらやましくないわけではない。だが、生活費と学費を稼ぐだけでも四苦八苦している未生に、自動車免許や自動車所有にかかる諸経費を捻出することは難しい。

「車なら、ママのを借りればいいし」

「N県までわざわざ? 馬鹿言うなよ」

 もしかしたら真希絵は優馬相手に「教習所のお金は出してあげるのに」とか、下手すれば「車は譲ってあげる」などとこぼしていたのかもしれない。さらに穿った見方をすれば、今乗っている車を未生に譲ることにして自分は新車購入を狙っているとか……。

 たとえ彼女が自身の利益のために未生を使おうとしているにしたって、こちらにも事情もあればプライドもある。

 真希絵には――その金の大元は憎き父であることには目をつぶって――大学入学にあたってまとまった金を借りている。いくら友好的な関係を築いているとはいえ、これ以上の借りを作るつもりはさらさらなかった。

「……そっか。車だったら未生くんとも、もっといろんなとこ行けるのにって、ちょっと思っちゃったんだ」

 優馬の言葉には残念そうなニュアンスが混じる。車社会で、ドライブの魅力を知った優馬はもしかしたら、未生ともその楽しさを共有したいと思ったのかもしれない。

 もちろん繊細な弟は、はっとした顔でフォローの言葉を継ぐことも忘れない。

「あ、でも家じゃ車が多いから、未生くんのとこに来るとたくさん電車に乗れるのは、いつもすごく楽しみなんだよ」

 優馬とのやりとりはそれで終わったのだが、「もしも自分が運転できたなら」というアイデアはぼんやりと頭に残った。

 確かに弟の言うとおり、車があればもっといろんな場所に行ける。おうちデートも近所の散歩も悪くない。でも、もしも尚人とドライブができたなら?

 そんな妄想を抱きつつ、翌週未生は大学生協のチラシ置き場で見つけた合宿免許のパンフレットを手に取った。

 

 

 次に教習所のことを思い出したのは、週末。

 バッグから飛び出した教科書やプリント類に紛れたカラフルなパンフレットを尚人が不思議そうに見つめている。課題やアルバイトで忙しくて、バッグに入れたまま未生はその存在すら忘れていたのだ。

「教習所、行くの?」

「え……そういうわけじゃないけど」

 思わず言いよどんだのは、教習所の話になれば自然と金の話になるからだ。自活しての学生生活は未生のプライドゆえのこだわりで、金銭的に余裕がないことを恥じているわけではない。その一方で年上の恋人相手に虚勢や見栄を張りたい気持ちもある。優馬には言える「教習所に行く金がない」という言葉も、尚人に対しては躊躇してしまうのだ。

「優馬に、免許取らないのかって聞かれたから。今のところそのつもりはないんだけど、どんな感じかなって」

「へえ」

 興味があるのかないのかはっきりしない素振りで、尚人はパンフレットをめくっている。その姿を見てふとした疑問が浮かぶ。

「そういえば、尚人って免許あるの?」

「……、ない」

 妙な間があった。

 嘘をつくのが下手な尚人。怪しいと直感した未生は、テーブルに置きっぱなしにされた尚人の財布に手を伸ばす。

「未生くん!」

「いいだろ、ちょっと見るだけ」

 他人の財布を勝手に開くなど恋人同士でもマナー違反ではあるが、ほとんど反射的な行為だった。それに、何も残高を見たり金を取ろうとしているわけではない。

 おそらくは職人ものであろう、シンプルだが品質の良い本革の折り財布を選んだのが誰であるかという疑問からは目を背け、カード入れに視線を走らせる。

 一番奥のポケットにあるのは紛れもない、運転免許証。

「あるじゃん。なんで嘘つくんだよ」

 嘘をついた尚人と、卑怯な方法でそれを暴いた未生。後ろめたさがあるのはお互い様で、尚人も未生を責める気にはなれないようだ。ばつの悪い顔で口を開く。

「だって、完璧なペーパーだから」

「別に隠すようなことじゃないだろ」

 上京後に完璧なペーパードライバーになる地方出身者なんていくらだっている。真希絵だってそのパターンだった。

 未生の心は躍る。なにしろ「尚人とドライブ」を、自分が免許を取ることなしに実現できるのだ。

「じゃあ、レンタカー借りてどっかで練習しようよ。それか、俺が友達から車借りてくる。そうしたら遠出もできるし」

 尚人と過ごす今の日々に不満があるわけではない。だが車があれば、男二人でもそう人目につくことなしに、どこへだって行ける。未生が免許取得に前向きになった一番の理由はそれだった。

 年の差のある男二人連れが、他人の目にはどう映るのか。未生はもともと他人の目を気にしない方だが、尚人は違う。買い物するとき、食事するとき、電車で並んで座るとき――ほとんど習慣的な仕草で周囲をうかがうように視線を走らせ、自分たちが恋人同士であることを悟られないよう会話の内容にも注意を払う。もちろんちょっと指先を触れ合わせる程度のスキンシップもNGだ。

 人目を気にしないタイプだからといって未生だって進んで変な目で見られたいわけではない。尚人は決して自分たちの関係を恥じているのではなく、どちらかといえば未生を気づかっての講堂であることもわかっている。

 それでも、せっかく出かけるのだから、もうちょっと堂々と恋人らしく振る舞いたいと思うことも、たまにはある。車の中であればずっと気楽にいられるはずだ。

 尚人もきっと、そんなことはわかっている。

「それはそうなんだけどさ」と未生の言い分に理解を示してから、恥ずかしそうに声をひそめる。

「ただ僕、教習所の実技試験で二度も落第したんだ。とことん運転には向いてなくてさ。実家でも、兄の車で練習しようとしたら、乗って五分でぶつけちゃって」

「ああ……」

 未生のバラ色の妄想は一気に勢いを失った。

 これまではただ「車で外出できれば楽しいに違いない」と楽観的なことばかりを考えていたが、改めてハンドルを握る尚人の姿を思い浮かべると――確かにかなり、危うい。

 なんせ日常生活でも、尚人は決して機敏なタイプではない。というかむしろその逆で、いかにもお勉強しかしてこなかった優等生。はっきりいって――。

「確かに尚人、どんくさいからな」

 いくら自分が助手席に座るとはいえ、ドライバーの腕が怪しければ事故の可能性は否定できない。

「ちょっと、その言い方はひどいんじゃない!?」

「ごめん、言い過ぎた。でも、まあ確かに運転に向いてないというのはわかるかも」

 あっさり謝罪したのは、下手に言い返して、意外と負けん気の強いところがある尚人がやる気を出すのが怖いからだ。せっかくの楽しいデートが事故で台なし……程度ならともかく、他人や自分たちの身に危害が及んだら洒落にならない。尚人を運転手に仕立てるプランを、未生は早々に葬り去ることにした。

 どんくさいと言われてしばらく不満そうな顔をしていた尚人だが、やがてぽつりと言う。

「優馬くんも、もしかしたらお兄ちゃんともっと二人だけで、ゆっくりお出かけしたいのかもしれないね」

「そういえば、もしいつか免許取ったら一番に乗せてって言ってたな」

 まだそんなふうに自分を慕ってくれる弟の気持ちは嬉しかった。

 助手席で顔を輝かせる優馬の姿を想像して思わず顔をほころばせる未生に、しかしなぜか尚人の表情は曇る。

「ふうん……」

 優馬の話で機嫌を損ねるなんて、珍しい。

 一体なぜ――と考えて、未生はある結論に至る。

「もしかして、嫉いた? もし俺が免許取ったら、優馬を一番に乗せるかもって……」

「まさか!」

 前のめりで食いつくように否定する尚人だが、その頬は赤い。未生はいよいよにやにや笑いをこらえきれない。可愛い弟と大切な恋人が、助手席一番乗りを争っている――最高の気分ではないか。

 だが、果たして自分がどちらを選ぶかといえば、答えはあまりに明白。

「心配すんなって、一番は尚人だよ」

 未生はパンフレットを手元に引き寄せ合宿免許の費用を確認しながら、次の長期休暇は今以上にアルバイトに精を出そうと決意した。

 

(終)
2022.04.23