それぞれがパートナーの「好きなところ」を考えてみる連作SS(になる予定)の栄→羽多野編です。
「栄さんは、あの人のどこが好きなんですか?」
突然の質問に、栄は硬直した。
「……は?」
慌てて周囲を見回すが、幸いにして大使館関係者も日本語を介しそうな人影もない。ピークタイムを過ぎたカフェは閑散としていて、眠そうな店員も一切こちらには興味なさそうに雑談に花を咲かせている。
今後ジェレミーと二人きりでは会わない、と宣言して以来できる限りそれを守っている栄だが、仕事上一定の関わりは発生する。いや――あえて作られているような気もしなくはない。今日もそもそもは、日本企業との貿易を検討している英国企業向けの講演を依頼したいという名目で呼び出されたはずだ。
実際ここまでのジェレミーは真面目そのもので、仕事の話に夢中になるうちに栄の警戒は緩んでいた。
だが順調に打ち合わせが終わり、そろそろ解散という頃合いで、この一撃。
「あのさジェレミー、前にも言ったけど俺は……」
「栄さん」
栄のこめかみがぴくりと震えるのに気づいただろうに、ジェレミーは余裕を崩すことなしに、カップに残った紅茶を一口飲んでにっこり笑う。
「私こう見えて、けっこう人を見る目には自信があるんですよ」
「それと講演会の話と、何の関係が?」
「だから、栄さんは絶対にああいうキャラが好きだって思ったんだけどなあ。こんなに予想が外れたの、初めてでちょっとショックです」
まったく人の話を聞こうとしない反応に怒りたいのは山々だが、仕事上のやり取りが多い相手だけに、うかつに本性を見せることはできない。
隠れゲイはお互い様だ。思うようにならないからといって栄のセクシャリティを周囲にばらすようなことはしないと信じているものの、あまり邪険に扱ってジェレミーの機嫌を損ねることには不安があった。
不機嫌な表情でこれ見よがしにため息をつきながら、栄はしみじみと自分の馬鹿さ加減を噛みしめる。
浮気心とまではいかなくとも、ある種の下心をもってジェレミーとの距離を詰めてしまったのは事実なのだから、この状況は自業自得でである。だが、あの「素朴で真面目で不器用そうな青年」の姿すら栄の好みを完璧に見抜いた上で演じられていたものだったとは。あまりに情けないではないか。
「あの人を見たとき、思っていたのとずいぶん違うというか正反対でびっくりしましたよ。だから今後の参考として、どういうところが好きなのか聞かせてもらえたら嬉しいなって」
一応は好青年風の笑顔を浮かべ、一応は低姿勢で、ジェレミーは言った。計算高い真の姿を知った上でときめくほど愚かではないが、顔や上っ面の態度だけでいえば、相変わらず悔しいほど好みのタイプではある。それはもう「あの人」と比べたって断然に。
「今後の参考って言われても」
「ああ、安心してください。栄さんとあの人の間に割って入ろうってつもりはなくて、今後好みの相手が現れたときのアプローチ戦略の参考です。いろんなパターンを知っておくに越したことはないでしょう?」
栄は思わずため息をこぼす。
この純朴そうな外見でどれほどの相手を籠絡し手玉にとってきたのだろう。ザ・隠れ肉食系とでも呼びたくなるジェレミーの貪欲さには恐ろしさすら感じる。
「何の参考にもならないよ、だって」
不快な会話を早々に終わらせようとして栄はそう言って、一度口をつぐんだ。
羽多野と「恋愛関係」と呼べる状態になってからは、もうしばらく経つ。秘書時代に見てきた陰湿で粘着質で意地の悪い姿からは意外なほどの繊細さを持ち合わせていることも知った。
その上で自分は羽多野と一緒に生活することを選んでいるのだから、改めて考えてみれば好きなところのひとつやふたつ、みっつやよっつ。
だが、出てきた言葉はやはり――。
「ない」
「え?」
意味がわからないといった様子で聞き返されて、栄はもう一度、さっきよりもはっきりきっぱりと繰り返す。
「ないよ、好きなところなんか。顔も性格も何もかも、全然好きじゃない。むしろ嫌いなタイプだ」
自分より背の高い男も学歴の高い男も、金を持っている男も嫌いだ。態度にしたって偉そうで、栄がいくら彼の欠点を指摘したところで反省も改善もない。それどころか、何かと栄のことをおちょくったりからかったりしてくるものだから、日々小さな衝突や大きな喧嘩が尽きない。
好きなところなんて、ひとつもない。それが偽らざる本心だった。
「全然って、それはさすがに言い過ぎでしょう。私が言うのもなんですが、けっこう男前だし、モテそうに見えましたけど」
栄があまりに自信たっぷりに「好きなところはない」と言い切ったからか、なぜだかジェレミーが羽多野のフォローをはじめる。いや、この節操のない若者は前にも羽多野のことを良い男だと言っていたような。
「……ジェレミー、もしかして君」
「いやいや誤解しないでください。栄さんとは友好的な関係を続けたいって言ったでしょう」
そういえば冗談まじりに「私は三人でも大歓迎ですから」とも言っていたっけ。羽多野を奪われるのもごめんだが、三人なんてもっての他だ。栄はそら恐ろしい気分で顔をしかめた。
一方のジェレミーは、真面目な顔で首をかしげる。
「確かに日本人は謙遜するものだとは聞きますけど、それにしたって何もないってことはないでしょう」
どうやら彼は、栄の言葉を日本人らしい謙遜ゆえのものだと思っているようだ。
確かに、謙遜は美徳というのはいまだ多くの日本人の性根に染みついている。若い世代だといくらかは違ってくるのかもしれないが、妹に「昭和脳」と馬鹿にされる栄など、他人相手に身内を褒めることすらひどく気恥ずかしく思ってしまう。
だが、対羽多野については、そういう感覚とも違っている。
「本当に、謙遜を抜きにしたって全然好みじゃないんだ」
しゅっとして背の高いところも、最近ではやり過ぎに思えるくらい鍛えた体も、自分勝手ではあるが仕事面では極めて優秀であることも――魅力に感じる人は多いだろう。だからこそ一度は逆玉の輿でのアメリカンドリーム大作戦も成功しかかったわけで。
――そんなものすべて、栄にとってはどうでもいい。いや、どうでもいいどころか、目障りだし気に障るし鼻につく。
著しく劣った相手を隣に置くのはプライドが許さないが、自分より優れているかも知れない――しかも本人にその自覚がある――相手が隣にいるのは、もっと面白くない。我ながら難しい性分だが、羽多野は明らかに後者に該当する。
断固として羽多野の長所を口にしようとしない栄に、ジェレミーはぽつりとつぶやいた。
「へえ、じゃあよっぽどアッチがいいんですね」
「あっち?」
しばらく頭の中をはてなマークが行き交って、栄はようやくそれが「ベッドの中」を指すのだと気づく。
「は? 何を言って……!」
「だってそうでしょう? 好きでもないのに一緒にいるなんて、金かクスリかセックスくらいしか思い浮かばないですよ。栄さんはお金もクスリも興味なさそうですから、そうなるとセックスしか残らないですよね。確かに首筋のキスマークだって――」
栄は思わず手を伸ばしてジェレミーの口を塞いだ。
「おい! おまえ、それ以上言ったら……」
殺す、とあやうく本性が出そうになって、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
栄の焦りと怒りは十分に伝わったようで、ジェレミーは一応は謝罪らしきものを口にする。
「すいません、ちょっと下品なこと言い過ぎましたね。ただまあ、いい大人のカップルなんだから、そういう要素もあって当然ですよね」
「だとしても、人前でそんな話するなよ」
まさか自分が「いい大人」のくせに、ジェレミーに言われるまで一切「そういう要素」に思い至らなかった堅物だと悟られたくなくて、栄はジェレミーの口を塞ぐ手を引っ込めると、気まずさをごまかすかのようにネクタイを締め直した。
確かに、羽多野との関係は体先行だったといっていい。次の恋愛の練習という名目で体を触れ合い、そのうちに少しずつ心もほどけていった。何より羽多野とのセックスは栄の価値観を完全に変えるほど鮮烈なものだった……のだけど、それを「好きなところ」と言い切るには抵抗がある。
何より、自分が羽多野と一緒にいる最大の理由がセックスであるとは思えないのだ。
「違うよ、そういうんじゃないんだ。ただ」
「ただ?」
何かはっきりしたことを言いたくて口を開いたのに、探す言葉は簡単には見つからない。
「自分でも、全然わかんないんだ。それでも俺は……」と栄が言うと、そこでジェレミーが急におどけたように両手を挙げて、降参のポーズをとった。
「……わかりました、お腹いっぱいです」
「は?」
「栄さん、のろけてますよね」
のろけているだと? 誰が? 何に? むしろ栄は、ジェレミーに問い詰められても羽多野の好きなところひとつも浮かばず、困り果てていたのだ。
のろけと言われる意味がわからず目を白黒させる栄に、ジェレミーは呆れたように続ける。
「だって、のろけですよ。いいところひとつも挙げられないほど好みじゃなくて、セックスがいいからってだけでもないのに、栄さんはあの人がいいんでしょう? どんな〈好みのタイプ〉の相手よりも」
好きなところがないのに一緒にいることを選んだことが、どんな理由を挙げるよりも強い「好きな理由」。逆説のようだが、実際栄はいつだって羽多野に「好きじゃないのに」「嫌なのに」、あなたにだけはと言い続けてきたのだ――。
ジェレミーの真意を理解した瞬間、栄の顔面が羞恥心で、かっと熱くなる。
「いや、ジェレミー、俺はそういうつもりは……」
「馬鹿みたいですよね。栄さんの好みのタイプを必死に演じて、健気に恋愛相談に乗ったあげくに距離を置かれる私なんて」
「それは悪かったって!」
叱責の半分は冗談、半分は本気だろうか。いずれにせよ羽多野との関係に悩む栄がジェレミーをいいように使ったことも事実だ。
巧みに罪悪感を煽られてやけくそのように謝罪を口にする栄に、ジェレミーは再び好青年モードに戻ってにっこりと笑った。
「だから、たまにはお茶くらい付き合ってくださいね」
「……ここの会計は俺が持つよ」
たとえノーと答えたところで、この計算高い若者はなんだかんだと理由をつけて栄を誘い出すのだろう。強い疲労を感じながら、ともかくこの不毛な会話を終わらせようと、栄は手を挙げて店員を呼んで会計を頼んだ。
密室でふたりきりでなければ、羽多野だってそう機嫌を損ねはしないだろう。第一これは不可抗力で、自分には浮気をする気などこれっぽっちもないわけだし。
ここにいない男への言い訳を心の中で紡ぎながら、こんなにも羽多野の顔色を気にする自分のことを滑稽だと思う。でも、羽多野を怒らせるのは悪手だし、何より羽多野を失望させるのも悲しませるのも嫌だと思ってしまう。
のろけているだなんて、断じて認めるつもりはない。
でも、確かに――好きなところなんてひとつもないのに、栄にとって今最も必要で、最も大切なのは、あの憎たらしい男なのだった。
(終)
2022.05.15