きみのすきなところ 〜羽多野〜


それぞれがパートナーの「好きなところ」を考えてみる連作SS(になる予定)の羽多野→栄編です。


 

「前々から思ってたんだけど、タカはサカエのどこが好きなの?」

 あまりに直球どストレートの質問を、しかも不意打ちで受けた羽多野は飲んでいた黒ビールを吹き出しそうになり、それをこらえた勢いで盛大にむせた。

「ちょっとアリス、そういうことをきくのは失礼だって言っただろ」

 うつむいて激しく咳きこむ羽多野を横目に慌てふためくのは、見るからに真面目で有能そうなインテリ風――いや、「風」のつかない本物のインテリ英国人青年。彼に諫められることが心外だといった様子で唇を尖らせ「いいじゃない、このくらい」とぼやくのは、北欧系の血が入っているのかすらりと背の高いブロンドヘアの美女。

「えっと……」

 気管に入った液体を追い出すことには成功したものの、炭酸の刺激のせいで胸の奥はひりひりと痛む。

 欧米の女性が一般的に日本人よりも思ったことをずけずけ口にすることは承知していたが、羽多野の体感として米国人よりは英国人の方がずいぶん用心深い。まさかアリスがなんの予告もなしにこういう質問をしてくるとは想定外だった。

「アリス、君は彼から何か聞いてるんだっけ?」

 栄のことをファーストネームで呼ぶ習慣のない羽多野はつい「he」という呼び名を使用してしまう。

 名前で呼びかけるのはベッドの中の特別な瞬間だけ。遊戯じみたお約束を気に入ってはいるのだが、英国人に合わせてファーストネームで呼ぶ必要に迫られたときについ不埒な想像が頭をよぎる。それを避けるためつい恋人のことを必要以上にそっけなく三人称で呼んでしまうのは、ある種の弊害なのかもしれない。

 もちろんアリスは、羽多野が瞬時に頭に浮かんだ恋人の痴態を振り払ったことなど知るよしもない。

「いいえ。でも聞かなくたってそのくらい見ればわかるわよ」

「ああ……」

 きっぱりとした答えには妙な説得力がある。羽多野はどう回答すべきかしばし思案した。

 自分たちが共に暮らしているパートナーであることを、羽多野と栄は基本的には第三者に明言していない。

 これまでの人生経験からもはや社会的な体裁にこだわらない羽多野は、同性の恋人の存在をカミングアウトしたって構わないのだが、保守的な日本の公務員社会に身を置き、しかも並外れて世間体を気にする栄にとっては事情が異なる。しかも羽多野がかつて政治スキャンダルで世を騒がせた議員秘書だったことを思えば、ふたりの関係を明らかにすることにリスクが伴うのは事実だ。

 そういうわけで、ここロンドンでも栄のアパートメントで実質的に同居しつつ、書類の上では羽多野は自ら借りた別の部屋に住んでいることになっているし、連れだって出かけているときに知人に出くわせば「友人」で通している。

 とはいえ、いくら栄が否定したところでアパートメントのコンシェルジュは、ふたりをカップルとして扱う姿勢を崩さない。あと、そうだ。最近栄にちょっかいを出してきた目障りな若者には、例外的にはっきり関係を明かしたっけ。あれはまあ、危機管理上やむを得ない措置だった。

 そんな中で、おそらく最も微妙なのが目の前のカップル、大使館で栄の秘書的な役割を勤めるトーマスと、その恋人であるアリスだ。過去の経緯からして99.99%の確率で彼らは羽多野と栄の関係には気づいている。一方で、トーマスが栄の同僚であることを思えば、実態を告げるにはあまりに影響が大きい。

 ――そこで栄が選んだ対応策が「無視」だった。

 トーマスとの間では徹底的に羽多野の話題を避ける。実に大人げない方法だが、勘の良いトーマス青年に対しては効果絶大だったらしい。彼は栄の意図を察して会話に羽多野の名前を出すことは止めたし、おそらくアリスにも余計な真似をしないよう言い含めてきたのだろう。

 アリスだって良識ある大人の女性なので、栄が嫌がると知ってわざわざ四人での食事を強行はしない。しかし、カップル成立に一役買ったという自負ゆえか、彼女にとって羽多野と栄の存在はどうにも気になってたまらないようだ。

 今日は、栄は会議出席のため一泊の予定でロンドンを離れている。ひとりの夜は暇なのでレイトショーの映画でも観に行こうかと、仕事終わりの羽多野が街を歩いていると、ちょうど食事に出かける途中のトーマス、アリスのカップルと出くわした。

 思えば、アリスがやたらと嬉しそうに「良かったら一緒にどう」と誘ってくる時点で警戒すべきだったのだ。だが、まさかファッションモデルのようなブロンド美女が、芸能リポーター張りの直球質問を投げてくるとは想像しなかった。

「恋人が関係をひた隠しにするなんて、私だったら耐えられないわ。同性だからって、中世じゃあるまいし」

 中世というのはあまりにオーバーで、ロンドンでも同性愛者が市民権を得るようになってきたのはせいぜいここ数十年。地方都市や保守的なコミュニティでは現在も受け入れられているとは言いがたい。だが、ロンドンのリベラルな家庭で育ったらしいアリスには、栄の抱えるものの重さは想像もできないのだろう。

「アリス、人にはそれぞれの事情があるんだから。興味本位で立ち入るのは良くない」

「サカエがいたらこんな話しないわよ。それともタカにとっても、ふたりの関係について話すのはタブーなの? だって、一緒に住んで、寝てるんでしょう?」

「アリス!」

 さすがに言葉が過ぎると、トーマスはやや強い調子で彼女を止めてから羽多野に向かって申し訳なさそうな顔をする。

「すいません、夜勤明けなのに、こんなの飲むから」

 そういえばアリスの手元にあるカクテルは、かなり度数の高いスピリッツがベースになっているものだ。

「いや、トーマス。いいんだ」

 アリスに悪気がないのはわかっている。それに、元はと言えば心配も迷惑もかけておきながら、その後きちんと説明していない栄や自分にも非はあるのだ。

 そもそも羽多野自身はこういった話題に抵抗があるわけではない。問題があるとすれば――。

「ただしこういうのは俺だけのときにして、彼がいるときには絶対にやめてくれ。こっちに火の粉が飛んでくるからな」

 鉄壁の外面を持つ栄のことだmアリスが何を言おうとその場では微笑みを絶やさないか、せいぜい困惑した表情を見せる程度に決まっている。そしてトーマスやアリスに向けることのできない感情はすべて、後で羽多野に向けられるのだろう。想像するだけで面倒くさい。

「じゃあ今だけ。内緒話ね」

 栄がいない今だから、というエクスキューズはむしろアリスを喜ばせたようだ。いくら東洋人は若く見えるとはいえ、四十がらみのおっさん相手にガールズトーク張りの恋愛談義を仕掛けてくるのだから、女の子とは恐ろしい。羽多野はため息をついた。

「面白がるような話は何もないけどな。一緒だよ、多分君たちと変わらない」

 できるだけ穏便に話をすませようとする羽多野に、アリスは不満そうに首を振った。

「面白がってるわけじゃないわ。ただ、不思議なのよ。関係をひた隠しにされて、人前じゃそっけなくされるなんて、恋人なのに寂しいじゃない。ふたりきりのときはもちろん、そんなんじゃないんでしょうけど」

「ふたりきりのときは、確かに……違うな」

 羽多野は即答するが、もちろん栄の豹変の方向性はアリスの想像とは真逆だろう。

 ふたりきりになったからといって栄の側からベタベタ甘えてくることはありえない。それどころか、外では温厚な紳士を気取っている分、人目が消えた瞬間にわがままで気分屋で神経質な本性がむき出しになるのだ。

「家で俺とふたりになったときの彼は、君たちが知っている谷口栄よりも百倍くらい怒りっぽい」

「……」

「几帳面で潔癖で、母親みたいに口うるさいし」

「……」

「休みの日に一緒に出かけようと誘っても、よっぽど機嫌の良いとき以外は即座にNOだ」

「……待って、タカ」

 ふたりきりのときの栄の姿について淡々と語る羽多野に、もう十分と言わんばかりにアリスがストップをかける。

「それじゃ、外にいるときよりさらに悪いじゃない」

「そうか?」

「そうよ! ますますタカがサカエといる理由がわからなくなったわ」

 急に悪酔いしたかのように気分悪そうな顔で、アリスはトーマスの肩にもたれかかった。トーマスは彼女をいたわって、ノースリーブから伸びた細い肩を優しく撫でる。それは実にわかりやすく微笑ましい、お手本のような恋人同士の仕草だった。

 確かに、こういう関係を模範としている若い女性からすれば、羽多野の気持ちは理解できないものなのかもしれない。だが、わかりやすい優しさ、わかりやすい愛情表現だけが正しいという思い込みだって羽多野からすれば青臭くてやや幼稚にも思える。

 トーマスを疑うつもりはないが、狡猾な大人は優しさなんていくらだって取り繕うことができる。そんなものより、自分の前でだけさらけ出してくれる生々しい素顔に喜びを感じるのは、決しておかしなことではないはずだ。なおかつ普段の栄がだからこそ征服する喜びがあり、たまに見せる甘い表情にも一層の価値が見いだせるわけで――。

 いけない、気を抜けばうっかり本気でのろけてしまうかもしれない。さすがにそれは自重しようと、ぬるくて甘苦いビールのジョッキを傾ける。

 栄の素顔がどれほど憎たらしくて、どれだけ可愛いかなど、知っているのは自分だけでいい。

 

(終)
2022.05.06