「えっ、む……」
むらむら、という性欲を直接的に表現する言葉に尚人はうろたえた。
確かにそれ以前の「触れない」「寂しい」というやり取りにも多分に性的な含意はあったが、それ以上を口にしないのが尚人。こういうときに心のままに露骨な言葉を口に出すのは未生らしいといえば未生らしい。
普段なら、そんな未生を咎めながらもふたりの間には甘い空気が流れはじめる――が、今夜はそうはいかない。なんせ自分たちの間には超えられない物理的な距離があるのだから。
「そんなこと言われたって、どうしようもないよ」
言いながら、思う。
単純に「むらむら」を解消することだけが目的なのであれば方法はある。男だったら誰だって知っているし、当然のごとくやるあれだ。
尚人だって、あえて口にはしないが、会えない夜には未生の声や体温、指の動きやもっと熱いものを思い浮かべてそういった行為に及ぶことはある。だが――いくら恋人同士でも、直接的にそういうことを言ってしまうのは抵抗がある。というか、恋人だからこそ「自己処理すればいいじゃないか」などと言うのは角が立つのではないか。
「つ、次の週末には会えるから」
「それはそうなんだけど」
かろうじて絞り出した言葉に、未生は納得がいかないようだ。だが、いくらぐずられたところで抱き寄せることも口付けることもできないのだからどうしようもない。
時計に目をやると、すでに日付は変わっている。退屈な日曜を過ごす尚人と違って未生は今日もボランティアで一日忙しく立ち回るのだ。いつまでも未練がましいやり取りをしているのも時間の無駄に思える。
ここはやはり年長者である自分から通話終了を切り出すべきだ。尚人は覚悟を決めて口を開く。
「ほら、未生くんは明日も朝から施設に行くんだろう? 早く寝なきゃ体力が持たないよ」
「そりゃそうなんだけどさ」
小さな画面の向こうで、未生がふと視線を下に向けた。
「なんか、尚人の声聞いて顔見てたら勃ってきた」
「……」
尚人が絶句していると、未生はいたずらを告白するかのように体裁の悪い笑いを浮かべて続ける。
「見る?」
そのまま、尚人が断る前にカメラをすっと下に向ける。荷物を減らすため持って行く衣類を絞ったのか、上半身はTシャツを着ているが下半身はボクサーブリーフのみ。黒い下着に浮き上がる生々しい勃起のかたちが目に入ると、瞬時に顔面に血が集まるのを感じた。
「二週間会ってないと、顔見て声聞いてるだけで、こんな有様。みっともないって尚人は思うだろうけど」
「思わない、ただ……」
注視してはいけない。わかっているのに尚人はそこから目が離せない。
思わず唾を飲み込む姿は、間違いなく未生から見えているだろう。その証拠に布地越しにピクリと未生のペニスが震える。
わかっている。未生は欲情をわざと見せつけて、尚人の反応を面白がっているのだ。出会った頃のような意地の悪さはないものの、経験値の少ない尚人をからかって楽しむ幼稚さは、今も未生から消え去ってはいない。むしろ、ベッドの中ではそれすら定番のコミュニケーションになっていると言っていいくらいだ。
これでは未生の思うつぼ。わかっていながら尚人の視線は生々しく映し出される恋人の下半身に釘付けのまま。
だって、はっきりと口にはしないけれど、尚人だって未生と過ごす夜のことを恋しくてたまらないと思っている。あと一週間もあの熱を感じられないままだなんて、渇きでどうにかなってしまうかもしれない。
必死に情欲に蓋していたのに、未生はいつだってこうやって簡単に、尚人を塞いでいたものを取り去ってしまう。
「あー、やばい。ごめん、ちょっとだけ」
未生の声が熱を帯びる。と同時に彼の手が下着越しに性器を擦る動きを見せた。
「み、未生くん!?」
まさかビデオ通話で尚人に見られている状況で自慰に及ぼうというのか。こちらは自宅の寝室でひとり、あちらはホテルの部屋にひとり。誰に見られているわけでもないのに、尚人は動揺のあまり周囲を確認してしまう。
「尚人が見てると思ったら興奮してきて、止まんない」
右手を動かす未生に、尚人の声は思わず大きくなる。
「ちょっと待って、まずいよ」
「まずいって、何が? 誰が見てるわけでもないし」
確かにそうだ。誰も見ていない。ここにいるのは回線越しの自分たちだけ。でも、なんとなく良くないことのような気がする。直接触れ合う性行為よりずっと背徳的というか、アブノーマルというか。
「でも……ほら、よく言うじゃないか。通信記録が漏れてるとか」
懸念を上手く言葉にできない。尚人は自分でもおかしなことを言っているとわかっていた。国家や企業の秘密ならともかく、平凡な会社員と大学生の通信内容など仮に漏れていたとしても誰も興味は示さないだろう――たとえそれが、多少セクシャルなやり取りだったとして。
深夜と疲労で未生はおかしなテンションになっている。止めなければ。そう焦る一方で、尚人だって禁欲丸二週間の身だ。恋人が熱っぽい表情で自慰に耽る姿は正直かなりくる。はっきり言えば、本能的な部分では「もっと見たい」とすら思っている。
未生の呼吸が荒くなる。ときおり漏れる、低い呻き声にも似た喘ぎ。下着を汚すことを嫌ってか、直接的な刺激を求めてか、ついに未生はブリーフの前を引き下げて反り返ったペニスを取り出すと、丸めた手のひらで直に擦り出した。
セックスのときは直視する機会が少ない。口で愛撫するときは至近距離だが、夢中になっているから〈見えていない〉。視覚よりは、どちらかといえば触覚や味覚で捉えているそれを、尚人はまじまじと見つめる。
濃い色に充血した凶暴な先端はつるりと滑らかだ。あの滑らかな切先で尚人の後ろをこじ開ける。それから張り出した亀頭までが、少し苦しいところ。そこを越えると、きゅっとくびれた部分。あそこを口淫のときに舌でちろちろと刺激すると、未生が善がる。太い血管の浮き出た茎の部分は改めて目にすると、自分があの長さをすべて受け入れていることに驚かされる。
未生も興奮が高まっているのだろう、画面越しに伝わる音もいつしか湿り気を帯びてきた。
真夜中。小さなスマートフォンの画面で年下の恋人が自慰するのをじっと見つめている。普段の尚人からすればあり得ない倒錯的な行為だ。
――だが、尚人が越えられないと思っていたハードルを不思議な力で飛ばせてしまう。それが未生だ。出会ったときから、ずっと。
このまま未生が達するまで見届けるのだろう。漠然とそう思っていた尚人だが、存分に高まったところで不意に未生は手を止めた。
「俺は通話してるだけでこんなだけど、尚人は何も感じねえの?」
「え!?」
恋人の痴態に、ある意味観客として夢中になっていた尚人だ。突然手を取ってステージに引き上げるかのような未生の言葉に動転する。
未生の表情は「同じような気持ちでいてくれないならば、ちょっと寂しい」と語っている。
「そ、それは。視覚や聴覚の刺激がそっちに直結する度合いってほら、個人差もあるし、年齢もさ……」
尚人はしどろもどろに言葉を紡いだ。
思春期の青少年であれば、驚くほどささいなきっかけで欲情が止まらなくなる。さすがにティーンエイジャーほどではないだろうが、未生だって尚人に比べれば十分若いわけで。だから僕は……と我ながら支離滅裂なことをまくしたてながら、嫌な予感から尚人はちらりと自身の下半身に目をやる。
「尚人?」
控えめな視線の動きではあったが、未生は見逃さない。もちろん下半身を確かめた後の尚人の「しまった」という表情の変化もしっかり捕捉されている。
「俺も、尚人の見たい」
「だめ! それは無理!」
直接的な要求を、尚人は即座に却下した。
「なんでだよ。しばらく会えないのは仕方ないんだからさ、見せ合って一発抜くくらいいいじゃんか」
どこまでも未生の表現は露骨だ。そして、理由を捻り出すことができずただ「だめ」「無理」を繰り返す尚人に向かい、カメラの位置をわざわざ変えてから意地の悪い、実に蠱惑的な笑みを浮かべて要求を繰り返す。
「見せられないってことは、勃ってんだろ? 尚人だって、画面越しに俺のオナニー見て興奮してるくせに」
「……っ」
「なあ、ちょっとくらいいじゃん。このまま通話切って、お互いひとりでしこって寝るのも虚しいだろ。触れなくたって、尚人と一緒にイきたい」